ドグマ55「観測者のスキャナー」



 痛みは、なかった。


 ただ穏やかな気持ちだけが、あった。

 

 風が吹いて、光が流れた。

 霧が晴れて、天上の先端がのぞいた。

 

 空は、みえなかった。鋼鉄の扉で覆われていた。

 

 一瞬、まるで時間が止まったかのように感じられた。

 だが、手足の知覚が戻ってくるにつれて、それが錯覚にすぎないとわかった。

 

 再び流れ始めた血液のようにしだいにピアノの旋律が耳に蘇ってくる。

 

 だが首すじにあたたかい感触を覚えて、

 それは自分の耳からあふれてくる血で、

 そこで自分の耳腔が破れて、

 鮮血が首すじに流れているのがわかる。


 頭部に銃弾を喰らった時に、鼓膜が裂けてしまったのだ。

 だとすれば、この曲は、一体どこから流れてくるのだろう。

 

 外界から流れこんでくる音は、一体、どこからきこえてくるのだろう。

 そもそも、どうして自分は、この天上にひらめく楽曲の名前をしっているのか。

 

 歌唱の失われたピアノのインストゥルメンタル。

 

 ノイズに満ちた、壊れた音と音の戯れ。

 モダンなクラシックを連想させる、どこかチグハグな、諧調の乱れた透明な旋律。

 そんな音の破片が狭苦しい塔の壁に反響して、互いにぶつかりあいながら粉々に割れ、精霊のざわめきのように降りてくる。

 そしてそれが、しだいに誰かの深い嘆きのような囁きに置き換わっていく。


 これは、誰の声だろう。

 これは、誰の叫びだろう。

 

 つながれた銅線は千切れていて、光のこぼれてくる先を視線でたどると、自分の目線より一段高い回廊の終わり、石灰質な大理石の石段の上に、白銀の髪がみえる。

 そこにはながい、とてもながい、息をのむほど美しい織物のような髪があって、その隙間から天使の羽根がのぞいている。

 

 その羽根が墨汁をこぼしたような汚れた水に濡れている。

 

 ――それが、自分のからだからこぼれる出血のせいだと気づいたのは、

 無意識のうちに彼女にのばされた自分の手が、どす黒い血液に染まっていたからだ。

 

 自分の血が黒いことを、しったからだ。

 自分の醜い姿を、しったからだ。

 

 ピアノの音が、しだいに悲鳴にかわっていく。


『 』『 』『 』


 トワノ・アリカが、地面に座りこんで顔を伏せて叫んでいる。

 彼女の白いからだの向こう、のばされた自分の指先の向こうには、回廊のガラスの鏡があって、支柱に太ももを括りつけられたアリカの手前に、漆黒の闇に彩られた、二つの人影が映っている。


 そこには黒いセーラー服を来た断罪の巫女が、足を交差して立っていて。


 化け物の姿をした自分が、倒れていた。

 

 

 ――まにあわなかった、とあたまのなかで誰かが泣いていた。



 

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