夜の足音、朝の希望

宮島奈落

第1話

 窓は閉めておきなさい。夜が君を連れ去る前に。

 そうして朝に、守られるように。




 目を閉じて、開くと、暗闇は光の世界に変わる。

 どこはかとなく気怠い空気を纏って、体を起こした。

 時計の針が午前10時を指していた。

 顔を洗い、遅めの朝食を済ませ、TVの電源を入れる。


 —本日のお天気は…

 —昨日、〇〇町の△△さんが…


 変わり映えのしないニュースを流し見て、実感する。

 この世界は、単純で、残酷で、詰まらない。


 青年は「何か」を求めた。

 何でもいい、何処か、何か、何か。

 俺をここから連れ出してくれ。

 また同じ明日が来るだけなんて耐えられない。

 退屈は緩慢な死と同じだ。

 少なくとも、彼にはそうだった。



 黄昏時、という言葉がある。

 元は「誰そ彼」、夕暮れで辺りが暗くなってきた頃、人の判別がつかなくなる時刻のことを指す。


 とろとろと眠気に身を任せて睡眠を繰り返す彼は、丁度黄昏時に目を覚ました。

 時計の針が午後4時半を指していた。

 辺りは薄暗く、彼はゆっくりと立ち上がって照明に手をかけた。


 その時。


 パチン。



 電源の入った音だけを響かせ、辺りは真っ暗になった。

 時計の針が午後4時45分を指していた。

 開け放した窓からは、星と月の光が零れてくる。


 ふと、気配を感じた。


 振り向く。



「俺は、『夜』だ」


 黒尽くめのコートを着た、シルクハットの男が立っていた。

 顔は影で見えない。


「お前、俺を呼んだだろう」


『夜』は続ける。


「俺が世界から抜け出させてやる。何もない、何も感じない。無感情な暗闇に」


 青年は首を振った。

 纏わりつく重たい空気を無理やり体に流し込み、青年は声を発した。


「俺に何の用だ」

「用?さぁなぁ。ただ、『夜』は毎日訪れる」


 くっ、と喉で笑う。


「だが、『夜』を呼んだのはお前だ」

「俺がいつお前を呼んだ」


 男が半歩、青年に近づいた。

 風もないのに、コートが激しくはためいている。


「同じなんだよ、明日も、明後日も。微温湯みたいなこの世界は変わり映えなんてしない。それが嫌なら、このまま飲み込まれて仕舞えばいい」


 —『朝』が来る前に。


「さぁ、手を伸ばせ。俺に委ねろ」



 青年は押し黙ったまま動かない。

 どれほど、そうしていただろう。

 徐に口を開いた。


「夕飯を、食べ損なっているんだ」


 時計の針が午後8時35分を指していた。



 青年が真っ暗なキッチンに立っている間、『夜』はソファに座って静かに待っていた。


「お前も食べるか?」

「いいや、俺は食事をする必要がないからな」

「そうか」

「星の雫なら、嗜むが」

「星の雫?」

「光だよ」

「なるほど」


 どうにかやっと30分ほどで支度を終え、テーブルについた。

『夜』は動かない。

 半分ほど食べ進めた時、『夜』が口を開いた。


「お前、俺が怖くはないのか?」


 青年は持ち上げたスプーンを置き、答えた。


「無論、怖くないことはないが、何か不思議な親近感を覚えもしている。だから案外平静を保っていられるようだ」


 なるほど、と言ったきり、『夜』は動かなくなった。


 洗い物まで済ませ、後ろのソファを振り返ると、『夜』の姿はなかった。



 しきりに首を傾げながら、照明に手を伸ばした。


 その時。


 パチン。



 電源の入った音だけを響かせ、辺りは白い光に包まれた。

 時計の針が午後10時2分を指していた。

 開け放した窓からは、何も見えない。


「私は、『朝』だ」


 白尽くめのコートを着た、シルクハットの男が立っていた。

 顔は白く霧のようにぼやけて見えない。


「『夜』は去った。君はもう自由だ」


『朝』は続ける。


「君のようにあれを呼んでしまった輩は大勢いる。だが自力で払ったことのある人間は初めてだ」


 大抵は私がつれ戻すのだが、と男は言う。


「何故だろうな、…だが君を見ていると、何だか私とは相容れないようだね」

「そうだろうな。俺が親近感を覚えたのは『夜』の方だ」

「君の目はあの男のように真っ暗だ。黒く黒く、全てを飲み込むように、塗り潰すように」


 ふ、と息を吐いて『朝』は続ける。


「何より、君の心は何も見えない。『夜』でさえも飲み込めなかったのだ、余りに光が無い」


 何故だ?と、『朝』は言う。


「…閉ざしているからじゃないのか」


 青年は重い口を開いた。


「光を受け入れなかった結果だ」

「そうか、…君か、私を拒絶したのは」


『朝』は半歩、青年に近づいた。


「君は、『夜』になりたいのかい?」

「いいや」

「では何故」

「退屈だからさ」

「つまり?」

「つまり、俺はこの世界に飽き飽きしてるってことだ」

「なるほど」

「そしてその退屈な世界に変わる瞬間を連れてくるのがお前だからさ」


 青年がこう言い放った時、何処か遠くで鶏の鳴き声が聞こえた。


「そうか、君は私を憎んでいるのだね」

「大きく外れてはいないな」

「それならば仕方あるまい」


『朝』は青年に蒼く光る石を手渡した。


「なんだこれは」

「星の雫さ」

「『夜』が嗜むと言っていたな」

「あの男は人間の心の光を奪いにくる。そうして空に置いていくのさ」

「何故これを?」

「光は世界を生きるためのすべてだからさ」


 白いコートが風の無いままはためいている。


「無くさぬように、離さぬように。もう2度と、取りこぼすことの無いように」


 —君はもう許されているのだから。


「…何の話だ」


 瞬きをし、問い直した刹那、『朝』は消えた。



 許されている、と男は言った。


 退屈なのは、何故だったか。

 単純で、残酷で、くだらない世界を嫌ったのは、いつだったか。


 消えてしまいたいと、思ったのは。


 時計の針が午前12時を指していた。


 青年は、眠気に身を任せて、ベッドに潜り込んだ。


 とある夏の日の夢を見た。


 何だかひどく懐かしく、あの時のように苦しくなった。


 涙は雫となって、星の光を反射した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の足音、朝の希望 宮島奈落 @Geschichte

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ