向日葵、バケツ、駄菓子屋さん
二十四番町
第1話
その時彼はめい一杯花弁を広げたひまわりに、バケツの水をぶちまけていた。
さんさんと陽光を垂らす太陽と、揺らめきが半端なカゲロウ。夏の昼下がりを演出する風景にあって、彼は異物の様に感じられ、私は少し、鼻持ちならない気分でいた。
場所は近所の駄菓子屋さん。その脇にある赤いポストがあり、隣にひまわりが咲いていた。ほんのちょっとの土の地面から、にゅっと伸びたひまわりは、私が小学生のころから毎夏顔を出している。こうして高三になるまで水やりなど考えたことはなく、もちろんこの先もずっと、私はただ鮮やかな黄色に誘惑されて、おっきなこげ茶の目にガンを飛ばすだけのはずだったのだ。
なのに、それが、突然今日、くるってしまったのだ。
彼、確か、サバ、じゃなくて、そう、マグロ、マグロだ。本名は忘れたが、彼はマグロというあだ名のはず、が、目の前にいる。
バケツから水が滴り、真っ白に熱せられた路面に染みができていた。彼のナイキの靴にも少しばかり垂れている。
無風だった。空気は淀んで、狭い三叉路のどこを抜けていこうか決めあぐねているようだった。
私は無理に唾液を飲み込んだ。
「ねぇ、何してるの」
彼ははっとしたように顔を上げて、輪郭を元の場所にはめ込んだ。
「このひまわりさ、俺が小三のころから咲いてんの」
「よく覚えてるね、そんなこと」
「ああ、種まいたのおれだからな」
バケツが取っ手を軸にして半回転を繰り返す。そのたび彼の焦げた肌と生白い肌が交互に現れた。
「学校近くの農家がくれたとかで先生が種配ってさ、けど俺の家の庭狭いし、種まいてもひっこ抜かれると思ったんだ、それで、まあ帰り道たまたまこことおって、なんかおさまりよさそうだったからまいたんだ」
「じゃあ水あげは夏の日課?」
「いいや、これが初めて」
彼はバケツをおろし財布を取り出した。
「アイス食う?」
「スイカバーで」
「オッケー」
マグロは億劫そうに引き戸をひいて、駄菓子屋に入っていった。私は庇の影が落ちたベンチに腰を下ろした。
遠くの空に一直線の雲があった。飛行機に逃げ切られた飛行機雲は、はたして飛行機雲と言えるのか、そんなことを考えた。
しばらく青い空と雲を眺めていると、マグロがスイカバーとカップのかき氷を手に現れた。「ん」「ありがと」と受け取ったスイカバーを開封して先の三角を噛み切る。シャーベットの欠片が口内に転がりこみ、幸福の汁と変化していく。どんどんかじった。
頬に視線を感じた。マグロがぽかんとしてこっちを見ている。私はチョコの種を前歯でつぶした。
「なによ」
「なんか獣みたいだなって」
歯跡の山脈を少し眺め、再び削岩作業に取り掛かる。甘くて、冷たい。
「意外?」
「正直意外、ナエさんてもっと清楚なイメージだった」
「黒で髪が長いからでしょ」
「あと無口」
「口はあるよ」
「それだけがっついてればわかる」
彼はかき氷のふたを開け、木のスプーンを凍ったレモンにぶっさした。スプーンが大きく歪曲する。
「ねえ、なんでマグロってあだ名なの?」
マグロが氷の削りかすを口に運んで言う。
「体育の授業で目をつぶりながら走ってたから」
「よくできるね」
「俺疲れるの嫌いだから、できるだけ省エネで過ごせる方法を考えてたらそこに行き着いた、案外慣れるとできるもんだよ」
「ふーん」
私はスイカバーを半分まで齧りとる。赤い破片が足元に落ちて溶けてゆく。意味もなくその様子を観察した。
「俺、夏休みの終わりに引っ越すんだ」
落ちたアイスが溶けきって、地面を濡らすのを待ってから「なんで?」と尋ねた。
「親父が遠いところへ転勤になったんだと、前々から新しい家を欲しいとも言ってたから、いい機会だし一家全員で移り住むことにしたらしい」
「急に決まったの? 一学期にお別れ会とかなかったけど」
「ああ、つい一週間前に急に、今家はてんてこ舞いで大掃除してる、俺はバケツが足りないからってぱしられて、見てのとおりその帰り」
「けど水は?」
「近くの公園から汲んできた」
マグロは足先で真新しいバケツを前後に傾がせた。反動がつき過ぎたらしく横倒しになってしまう。
最後の赤い破片を齧りとる。あとは緑色の皮らしきものしか残っていない。
狭い通りは時間に置き去りにされたように静かだった。反射鏡には停止した世界が映り、その隣にある雑木林も一様に静まり返っている。セミの鳴き声さえどこか遠く、耳を澄ませばはるか郊外の工場の音まで聞こえてきそうだった。
夏を支配しているような気がした。ここが世界の中心で、この古ぼけたベンチは夏を吐きす大穴を閉じる蓋。そこに腰を下ろしたことで、私は夏を閉じ込めている――――下手な妄想だ。
皮までぺろりと平らげて、甘味の余韻を残す棒を燻らせた。
「そっか、寂しくなるね」
「心がこもってないんだけど」
「衣が掛かって見えないだけ」
「……うまくねぇよ」
マグロはチマチマとシャーベットを口に運んでいた。ガタイのいい彼が小動物みたいに食事をする光景はなかなかに新鮮だった。
「まあけど実際さ、クラスはきっとピースの欠けたパズルみたいになると思うな」
「そうか? どいつもこいつも受験勉強でそれどころじゃねぇだろ」
「だからこそだって、確かにみんな、自分のことしか考えられない時期だから、マグロのことも数か月過ぎれば過去のことにすると思うよ、けど、それってたぶん不完全燃焼でさ、上手な悲しみ方じゃないと思う、卒業式が終わった後とかに、何かしっくりこなくて、なんでだろってなるんだよ」
「はぁ、よくそんなこと考えられんな、俺じゃ明日のことすら想像できない」
「励めよ、少年」
「何を偉そうに」
マグロは爽やかな笑顔を向けてきた。綺麗に並んだ真白の歯。まるで夏の祝福を受けているようだ。
そんな表情を作れることを素直にうらやましく思った。
自分の頬をつまんで上に引く。マグロが「何やってんの?」と聞いてきたので「少年心の練習」と答えた。意味が分からないだろう。私もだ。
「アイスごちそうさま」
「おう」
「元気でね、また会えたら会おう」
「おう」
「…………何か、他に言ってほしいことある?」
マグロが苦笑して「なんだよそれ」って言う。
「いいから、私からの選別、本当に何でもいいよ、おにいちゃんでもご主人様でも、なんでも、出血大サービス」
「誰がそんな俗なことを頼むかよ」
マグロは眉間にしわを寄せて考える人のポーズをとった。うんうんと少し悩んでから、のっそりと身を起こすと、ぼそりと言う。
「さよならって言ってくれ」
「分かった」
マグロはアイスのから容器をゴミ箱に投げ入れて、バケツを持つとベンチから立ち上がる。彼の大きな体の影がすっぽりと私を覆った。
見上げた彼は、空に視線を馳せていた。
青く、広大で、素っ気のない空。もしかしたら地上にいる人間は小さすぎて、この太虚の大空には見えていないのかもしれない。
だけど、そんな事とは関係無しに、私達には私達の何気ない今日が確かにある。
大自然に触れ、自分をちっぽけだなんて思わない。
私はいつだって必死だから。
この日常を謳歌するのに、いつも懸命なのだから。
マグロは無言のまま日向へと出た。白い世界の狭い道を歩いていく。
私はその大きな背中に、言葉を投げかけた。
「さようなら」
マグロが後ろ手に手を振る。
暑い暑い夏の昼下がり、私は知人を一人失うのだった。
向日葵、バケツ、駄菓子屋さん 二十四番町 @banmati
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