第六話 美人猫てまりとの出会いと、別れ

草の臭いを含んだ川風が、軽く汗ばんだ顔に心地よく吹きつける。

視界の片隅でキラキラと光る川面を楽しみながら、ペダルを漕ぐ足に、さらに力を込めた。久々の、完全オフの休日。少し遅めに起きてシャワーを浴びた後、愛車のタイヤにいそいそと空気を入れて、山口市郊外の川沿いのサイクリングロードを走っていた。

天気は快晴。太陽が、夏の始めにしては力強く照りつける。それでも、風を切って走れば暑さは感じなかった。右手には青々と稲穂がそよぐ水田が広がり、左手を流れる仁保川には、悠々と鴨の親子が泳いでいる。道にはほかの自転車もなく、のどかな田園風景を貸し切ったような贅沢な時間が流れていた。

実は山口という街は、四方を山に囲まれた盆地にあるのに、サイクリングにぴったりの街だ。街の中心部は概ね平坦だし、そこから郊外に向けて、整備された何本ものサイクリングロードが伸びている。転勤してきてすぐ、通勤用に自転車を買ったのだが、こうしたサイクリングロードを見つけてからは、週末に自転車であちこち出掛けるのが、すっかり楽しくなってしまった。仕事のストレス発散にもってこいなのだ。


最初に走ってみたのは、市の中心部を流れる椹野川沿いの道だった。夏には鮎が遡上する美しい川を下流に向かって走ると、しだいに川幅を増す緑豊かな風景を眺めつつ、新幹線の駅がある新山口の駅の近くまで、30分ほどで着く。完全な運動不足で体力の全くない中年サラリーマンでも、手軽に往復できるコースだ。

体力がついてくると、ちょっとハードな道にも挑戦した。隣の防府市に向かうコース。椹野川の支流沿いを走り、途中の市境にある峠を越えるのが大変だが、30キロほど走ると、有名な防府天満宮にお参りできる。観光地である天満宮の周囲にはおいしいスイーツ屋さんなんかもあって、目的地にちょっとした「ご褒美」があると嬉しい軟弱サイクリストとしては、頑張りやすいコースだ。

中でも、最近、特にお気に入りのコースが、この仁保川沿いのコースだった。これも椹野川の支流の、仁保川を上流へ遡っていくコースだ。走っていくと、どんどん人家がまばらになり、緑の濃い山々が間近に迫ってくる。やがて、仁保という集落に出るのだが、そこには新鮮な牛乳から作ったソフトクリームが絶品の道の駅や、手打ち麺が美味しい醤油ラーメンの名店があったりして、週末の楽しみにぴったりなのだ。……ついつい、サイクリングで消費する以上のカロリーを摂取してしまう、というのが玉に瑕だが。


このコースは実際には、整備されたサイクリングロードは仁保へ向かう途中で途切れてしまう。そこからは少し住宅街を走った後、仁保川沿いのだだっ広い県道に出て、北上することになる。車通りも少なく、見渡す限りの山と田園風景。景色が単調になるからか、そろそろ自転車をこぐにも飽きてくる頃だからか、この辺まで来ると、走りながらあれこれ考え事をし始めるのが常だった。当面抱えている仕事上の問題に考えを巡らせることもあれば、今夜の晩ごはんは何がいいかな、と山口の旬の食材をあれこれ思い浮かべることもある。

そして今日の場合は、我が家の愛猫、小むぎの悪癖についてだった。

小むぎというのは、先日、家の近くで開かれた譲渡会でもらってきた、我が家で初めて飼うことになった仔猫だ。長毛種の血が入った雑種らしく、ふわふわの白い毛が可愛らしい。とても賢い子で、トイレもすぐ覚えたし、壁や家具で爪を研ぐこともない。目に入れても痛くない、とはこういうことだと思うくらい、家族で溺愛しているのだが、一つだけ、ちょっと困った癖があった。いわゆる、「噛み癖」だ。

やんちゃ坊主の小むぎは猫じゃらしなどで遊ぶのが大好きで、始終、遊んでくれとせがんでくる。一生懸命、猫じゃらしと戯れる様子もまた可愛いので、喜んで遊んであげるのだが、そのうち必ずと言っていいほど、小むぎは興奮してきて、こっちの手を噛み始めるのだ。傷ついたり血が出たりするほどではないものの、これがなかなか痛い。しかも最近、ちょっとエスカレートしてきて、興奮していなくてもちょいちょい噛むようになってきた。今はまだ、手に歯形がつくぐらいだからいいが、このまま成長したら、ちょっとヤバいんじゃないか…… そんな不安があるのだ。

妻の亜希子はネットを調べて、もう一匹、猫を飼うと、噛み癖は治るらしいと教えてくれた。何でも、互いにじゃれているうちに、噛んで噛まれてになり、「噛むと痛い」ということを学ぶそうだ。遊びの中で社会性を養うなんて、猫も人間も同じだね、と話していた。

しかし、だからってもう一匹……か。と、正直、乗り気ではない自分がいた。確かに仔猫は可愛いし、一匹も二匹も変わらない、のかもしれない。だとしても、そんなに気軽に二匹目を飼う、という気に、なれなかったのだ。

一つには、家を傷つけることへの心配がある。うちは借家で、壁や柱で爪研ぎをされようもんなら、原状回復にいくらかかるか知れない。今のところ小むぎは大丈夫なようだが、先のことは分からないし、そんなリスクを二倍にするのは、正直、気が進まなかった。

そしてもう一つの理由は、気持ちの問題だった。猫と言っても、「家族」の一員。その家族を「噛み癖を直すため」なんて理由で増やすのは、何かしっくりしない、と感じてしまうのだった。……たかが猫一匹、のことに、深く考え過ぎなんだろうか……


そんなことを考えているうちに、自転車は仁保の集落に入り、それまでのほぼ緑一色だった風景が、住宅街らしき雰囲気に変わってきた。この辺りは、室町時代、「西の京」と謳われた山口に対し「西の奈良」と呼ばれたらしい。こうして自転車で走りながら見える町の規模からすると、さすがにそれは言い過ぎだろう、と苦笑してしまう。

銘木の家具を売っている木工所併設の家具屋(家具屋併設の木工所?)を過ぎた辺りで、ふと、視界を気になるものがかすめた。ごく普通の一軒家の玄関先にある、張り紙だ。見えたのは通り過ぎるほんの一瞬だったが、「猫」という字が見えた気がしたのだ。

いったん数メートル過ぎてから、急ブレーキで止まり、わざわざ引き返して、その張り紙を見てみた。そこには、あろうことか、「仔猫さしあげます」と書いてあった。


家に帰ってからそのことを報告すると、家族は大騒ぎだった。

「きっと、運命だよ!」と熱く語るのは、娘の小夏だ。息子の耕輔も、最近、小むぎの噛み癖に辟易していると見えて、「絶対、二頭飼いの方がいい」と力説している。何より妻の亜希子が、「どんな家だった? 猫見た?」と、興味津々といった様子だ。

言うんじゃなかった…… と思っても、後の祭り。こちらの思惑とかフクザツな感情は放置され、議論はどんどん盛り上がっていく。「仔猫って、オスかなぁ、メスかなぁ」「小むぎがオスだから、メスだといいね」「きっと、飼ってる猫が子どもを産んで、貰い手を探してるんだよ。猫はたくさん産むから、きっとオスもメスもいると思うよ」……

気がついた時には、念のためと思ってスマホで撮っておいた張り紙の写真を見せることになり、そこに写っていた電話番号に、明日、亜希子が電話することになっていた。「ちょっと様子を聞いてみるだけだから」と亜希子は言っていたが、その表情を見る限り、電話したら一気に話が進みそうなことは、火を見るより明らかだった。


夫婦二人で車に乗り、その家に向かったのは、翌週の土曜日のことだった。案の定、亜希子が先方に電話し、「飼い猫がたくさん仔猫を産んじゃって」という話を聞き、スマホに送ってもらった写真を見て子どもたちが狂喜し(実際、とても可愛いメスの仔猫が写っていた)、話はとんとん拍子で進んで、こういうことになったのだ。

「小むぎと仲良くなってくれるといいね」と、亜希子は助手席でわくわくした表情をしている。「ほんとに飼うかどうかは、実際にその仔猫を見てみないと決められないからな」ハンドルを握りながら一応、釘をさしたが、なんだかこっちも、盛り上がっている家族を見ているうちに、迷ったり悩んだりしているのがバカバカしくなり、仔猫に会うのが少し楽しみになってきていた。

ベルを鳴らすと、出てきたのは、いかにも人が良さそうなおじいさんだった。「いやぁ、助かりましたよ」とニコニコしている足元で、仔猫が二匹遊んでいる。可愛い……が、どちらも写真で見たのとはちょっと違うような……と思っていると、廊下の向こうから、今度は茶色い大人の猫がのっそりと歩いてきて、そのまま足元を抜け、開いている玄関のドアから出ていった。

「うちは昔ながらの飼い方なんで、自由に外に出してるんですよ」。そう説明するおじいさんにリビングに案内されると、そこは猫だらけだった。色も柄も様々な成猫と仔猫が7匹ほど、床やソファなど思い思いの場所でくつろいでいる。どうやら、これも一部に過ぎず、庭にいたり外に出ていっている猫を合わせると、十数匹いるらしい。さすがに飼いきれない、ということで、新しく生まれた仔猫の貰い手を探しているということだった。

そんな説明を聞いていると、ひょこっと、黒白の仔猫が部屋に入ってきた。

「ああ、この子ですよ」と、おじいさんがすかさず抱っこして、近くで見せてくれた。耳が長く、やや細面。どことなく品がある「美人顔」だ。人間にも馴れている様子で、抱っこされてもおとなしくしているし、突然訪れた見知らぬ夫婦に対して、特に警戒する様子もない。大きな瞳でこちらを興味深そうに見つめ、小さな声で「にゃあ」と鳴いた。……一言で言って、申し分のない猫だった。

亜希子が仔猫を受け取りながら、こちらに意味ありげな目を向けて、笑みを浮かべた。


「……けっきょく、もらっちゃったね」。

帰りの車内で、ハンドルを握りながら苦笑した。

亜希子が、ぜひこの子を頂きたい、と言うと、おじいさんは相貌を崩してこの上なく喜んでくれた。増えすぎて困っている猫を引き取ってもらえてありがたい、というのもあるのだろうが、我が子のように可愛がっている仔猫を気に入ってもらえたことが嬉しい、という気持ちも強いようだった。ぜひ持っていってほしいと、大量のキャットフードや猫砂、そして大きな模造紙に写真を貼りつけて作ったという自作の「猫家系図」までくれた。

「なんだか、娘さんがうちに嫁入りするみたいね」

亜希子の膝の上のケージで大人しくしている仔猫には、昨晩の家族会議の結果、「てまり」という名前が用意されている。小むぎの名前は耕輔の発案だったので、今度は小夏の考えた名前になった。

ただ想定していなかったのは、てまりが「外飼い」されていたということだった。話を聞いた限りでは、前の家ではノミ対策や寄生虫対策も、まったくされていなかったらしい。今どき珍しい、本当に「昔ながら」の飼い方だ(きっと去勢や避妊手術もしていないのだろう)。

すぐ家には帰らず、かかりつけの動物病院に寄って、ノミ避けの注射を打ってもらったり、虫下しの薬をいただいたりした。

二匹が顔を会わせないように注意して家に帰ると、ケージは耕輔の部屋に入れ、てまりには数日、そこで過ごしてもらうことになった。

先住猫である小むぎの「テリトリー」に急に入れず、少しずつ馴れさせる、という意味もあるのよ、と亜希子は言った。


「わっ、可愛い!」

「写真より可愛くない?」

夕方、ほとんど同じ時間に塾とバレエから帰ってきた子どもたちは、二人ともすぐに耕輔の部屋に直行した。すっかりてまりが気に入った様子で、顔を輝かせている。ケージから出すと、てまりは初めて会った耕輔と小夏に、ご機嫌で喉を鳴らして撫でてもらっていた。

ほんのちょっと前、小むぎを飼うようになる前までは、猫の顔なんてみんな同じようなものだと思っていたが、不思議なもので、今は一匹一匹、ぜんぜん違う顔なのが分かる。二人が言う通り、てまりのやや小顔でバランスよく整った顔立ちは、キャットフードのパッケージ写真に載っている血統書付きの仔猫たちに、勝るとも劣らない可愛さだった。

「こないだのペットショップの猫、買わなくてよかったね!」

「あの子も可愛かったけどね」

「ぜったいてまりの方が美ニャンだよー」

最近、ペットショップを見かける度に立ち寄って猫を品定めしている亜希子と小夏が、猫じゃらしで遊びながら楽しそうに話している。

きのうまで我が家のアイドルだった小むぎをそっちのけでてまりと遊ぶ、家族の微笑ましい光景を眺めながらも、心の片隅に、ある心配が引っ掛かり始めていた。

さっきの亜希子の言葉が気になって、今さらながら、スマホで先住猫と新参猫の「相性」について、調べてみたのだ。どうやら、猫の相性、というのは結構、難しいらしい。家によっては、結局最後まで二匹が仲良くせず、一軒の家の中で、事実上、スペースを分けて別々に育てている家さえあるという。

「人間でも、弟や妹が生まれると、上の子が赤ちゃん返りすることがあるからね。小むぎもどうなるか……」

夕食時、心なしかソワソワしているように見える小むぎを見ながら、それとなく言った。ネットで調べた話をすると、やはり事前に調べて知っていたらしい亜希子が、笑いながら言った。

「パパは何でも心配しすぎよ。二頭飼いなんて、どこでもやってることだし、ゆっくり馴れさせていけば、大丈夫じゃない?」

耕輔も、明るく追随する。

「これだけ美人の猫だったら、俺が小むぎだったら大喜びだけどなー」

確かに、心配しすぎなんだろう、と思う。ネットの情報に振り回されて何でも悪い方に考えがちなのは、確かに悪い癖だ。

そうかもな、と応じてシュウマイを食べながら、小むぎに目をやった。

家族の会話を理解しているのかいないのか、小むぎは、何か言いたそうに、こちらをじっと見つめているように見えた。


「うわーっ、何じゃこりゃー!」。

翌朝。ジーパン刑事の台詞みたいな耕輔の大声で、目覚めた。せっかくの日曜、ゆっくり寝たかったのに……と、そのまま寝直すか起きるか迷った末、好奇心に負けてベッドを出て、様子を見に行く。

てまりのケージの前には、すでに亜希子と小夏も集まってきていた。

「どうしたの?」と覗きこむと……

「うわっ!」思わず声が出た。てまりのうんちの中に、大量の小さな芋虫がうねうねと蠢いているのだ。

「きっ、気持ちわるっ……」。

「虫下しが効いたのねー」と、亜希子が冷静に説明した。

「猫のお腹の中って、こんなに虫がいるの?」。

「きっと、小むぎの時もこうだったんじゃないかな。ほら、飼うことになった後、うちが初めて飼うんですって言ったら、一週間くらい待ってくださいって言われたじゃない? きっと、こういうのを見てショックで返さないように、全部クローバーの会の人がやってくれたんだよ」。

亜希子はティッシュペーパーでうんちと虫を厳重にくるんで、トイレに流した。

その日から、小むぎとてまりの「お見合い」を慎重に進めることになった。いきなり、てまりをケージから出して小むぎの前に出し、「さぁ、仲良くしてね」という訳にはいかない。

最初は、てまりをケージに入れたまま、小むぎに見せる、というのがセオリーらしい。ここは、あくまでも先住猫である小むぎのテリトリー。どっちが「上」でどっちが「下」なのか、明確にしておく必要がある、ということなんだそうだ。……何だか、先輩・後輩の序列に厳しい、日本の会社みたいだ。

そして最初の「ご対面」は、最悪の結果だった。興味深そうに近づく小むぎに対して、てまりが全力で威嚇。小むぎも喧嘩腰になってしまい、しばらくほっとけば馴れるかも、という願いも空しく、ずっと険悪なムードのまま、その日を終えた。

不思議なのは、てまりは、小むぎ以外の家族(つまり人間)には、とても愛想がいいということだった。

小むぎのいないところでケージから出すと、子どもたちとよく遊び、寝るときには夫婦のベッドに来て一緒に寝た。

器量良しで甘えん坊、そしておてんば娘、というのが我が家のてまり評で、家族みんなてまりが大好きだったのだが、なぜだか、その後も小むぎとは決して仲良くならなかった。

ケージから出して対面させるようになると、互いに追いかけ回して、フギャーと大声を出して喧嘩ばかりしている。最初は、「遊んでいるようなもんで、そのうち仲良くなるだろう」とたかをくくっていたのだが、二日たち、三日たっても、いっこうにその気配はなかった。

じゃれているのとは明らかに違う、本気の威嚇をしあっている二匹を見ていると、こっちもいたたまれない気持ちになってくる。

「二頭飼い」に対する我が家の認識が甘かったことを、痛感せざるを得なかった。


そんな調子で、一週間近くが過ぎた。

家族みんな、小むぎが大好きだし、てまりも大好きだが、当の二匹は和解するそぶりもない。少なくとも二匹にとって、いまの環境が快適でないことは明らかだったし、次の転勤でもっと狭い家に引っ越したら、と思うと、この状況は放置できなかった。

ついに亜希子が、思い詰めたように口を開いた。

「……てまり、仁保の実家に返そうか?」

もう、誰が最初に言い出すか、という段階だった。これ以上、時間がたつと、どんどん返しづらくなるだけだ。

小むぎの噛み癖を治そうという我が家の目論みは、あっさり崩れ去ったわけだ。

亜希子は、顎の下を撫でられて気持ち良さそうに目を細める手まりを見つめながら、悲しそうに言った。

「いい子、なんだけどね……」

返す言葉が見つからず、黙っていた。

いま思えば、最初に感じていた、安易に「二匹目」を飼うことへのモヤモヤ感みたいなものが、当たっていたのかもしれない。

だけどそれは下衆の後知恵だし、そもそも、あれが「安易」だったのか、じゃ「安易じゃない」二匹目の飼い方ってどうなのか、と問われたら、答えようもなかった。

きっと、誰も悪くない、のだと思う。でも、誰がいいとか悪いとかじゃなくて、うまくいかないことがあるのが、「生き物を飼う」ということであり、「家族になる」ということであり、それはたぶん、動物を飼うことでも人間どうしの関係でも一緒なんだろう、というすごく当たり前のことを、てまりを見ながらぼんやりと考えていた。

「明日、仁保に行こうか」

そう言うしかなかった。


仁保の「猫おじさん」は、てまりを返しにいっても、嫌な顔ひとつせずに、というかむしろ満面の笑みで、受け取ってくれた。

嫁に行って寂しいと思っていた愛娘が嫁ぎ先に馴染めず帰ってきて、それはそれで嬉しくなくもない、といった感じだったのかもしれないし、こちらのばつの悪さを察しての気遣いだったのかもしれない。いただいた「猫家系図」と、キャットフード、猫砂は、開封していなかったのでそのままお返しした。お詫びの菓子折りと一緒に。

「やっぱり、一緒に暮らすって、簡単じゃないんだね」

仁保川沿いの広い県道を家に向かって走っていると、助手席の亜希子が、窓の外を見ながら呟いた。

「そりゃそうだよ。人間だって、何年も付き合って結婚した男女が、ハネムーン帰りの成田空港で離婚したりするじゃん」

「小むぎとてまりは、お見合いさえせずにいきなり、だからね」

亜希子は小さく笑った。

運転席の右側には、仁保川の土手が青々とした腹を見せて先まで続いている。日一日と、陽射しは強さを増し、山々の緑が濃くなっていた。

「そういえば、せっかくてまりに、ノミ取りとか虫下しとかしたのに……」

「あの家に戻ったら、全く意味ないね」

笑いながら山の向こうに目をやると、青い空に入道雲が見えた。

「今年、まだハモ食べてなかったね」

「今夜、食べに行こうか? ハモしゃぶにハモフライ、食べたい!」

「耕輔と小夏も喜ぶね」

てまりはいい猫だったけど、我が家とは縁がなかった。

「縁」というのは、ほんとうに不思議なものだ。そんなことを考えながら、うちの家族がいまこうして幸せに暮らしているのは、決して当たり前のことじゃなく、ちょっとした奇跡なのかもしれない、とふと思った。

そんな奇跡が集まって、重なって、世の中はできている。そう考えたら、フロントガラスの向こうの見慣れた風景が、いつもよりちょっと鮮やかに見えた。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫にまつわる七つのお話 まき @komugi-m

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ