とりかえっこ ②

 有馬家に着いて僕が駐車場にBMWを停めていると、先に降りていた兄が五百坪はある屋敷の敷地をぐるりと眺めて「これは全部、おまえ一人で相続したのか?」と訊いてきた。「そうだ」と答えると、「おまえは運がいいよなあー」と恨みがましい言い方をされた。

 二十年前、あの時〔とりかえっこ〕を止めよう言った僕に「これは遊びじゃない」と突っぱねたのは兄の方だったくせに、そのことを忘れて、自分だけを引いたみたいな顔をされたら堪ったもんじゃない。――内心、僕はムッとしていた。

 屋敷の玄関を開けて中に入る。

「なあ、和久。住む所に困っているんだ。こんな広い屋敷だし俺もここで暮らしてもいいか?」

「兄さん、明日からしばらく僕は旅行だから無理だよ。通いの家政婦さんとお手伝いさんにも暇を出したくらいだから……」

「――そうか、長い旅行なのか?」

「たぶん、三ヶ月くらいかなあ……」

 屋敷の中の長い廊下を通って、兄を部屋に案内した。

 広々としたリビングには黒い革張りの応接セットとホームバーのカウンターがある。生前、お酒が好きだった父親が世界中から集めた銘酒の瓶が棚に飾られている。

「おおー、すげえ! 高そうな酒ばっかり置いてる」

「僕はあまり飲まないから好きな酒を飲んでもいいよ」

「そうか、それは有難い」

 物欲しそうな顔で兄は棚の酒類を見ていたが、

「あっ! あれは?」

 ひとつの瓶を指差した。

「ドン・ペリニヨンだよ。特別の日に飲むシャンパンで、ヴィンテージもの」

「飲んでみたい!」

「これはドンペリの中でも最高級品エノテーク・プラチナだよ」

「飲みたい、飲みたい!」

 子どもみたいにはしゃぐ兄だった。

「――じゃあ、二十年振りの兄弟再会を祝してドンペリを開けるとしようか」

 ポンッと威勢のよい音を立ててコルクが天井に飛んだ。

 バカラのシャンパングラスにドンペリを注いで「乾杯」とグラスをカチッと当ててから僕らは一気にグラスをあおった。


「プハーッ、うまい!」

 高級なシャンパンも品のない兄が飲むとチューハイにしか見えない。

 しかも、いつの間にか兄は僕の手からドンペリの瓶を奪い、口に咥えてラッパ飲みをしていた。こんな下劣な人間が飲むには勿体なさ過ぎるお酒だが、――そんなことは構わない。

「なあ、和久。俺とおまえは双子なのに、おまえだけ贅沢な生活をして不公平じゃあないか。同じ父親なのにおまえはセレブで俺はどん底の生活なんて……」

 酔いが回ってきたせいか、兄がぐちぐちと文句を言い出した。

「俺はガキの頃、お袋の男に殴れたり蹴られたりして散々な目に合ってきたんだぜぇー」

「……兄さん、百万円取ってくるからここで待っててよ」

 そんなことは僕の知ったことじゃない。リビングに兄を一人残して僕は部屋から出て行った。

 二十年振りに邂逅した兄は零落れいらくした敗北者だった。

 もしかして〔とりかえっこ〕をしなかったら、今の兄の姿が自分だったかも知れない――。同じ双子でも育った環境によって大きく変わるものだと、兄を見ていて僕はそう確信した。


                    *


「兄さん……」

 部屋に戻ると、あっちこっちの引出しを開けて物色中だった。僕が声をかけると背中をビクッとさせて、決まり悪そうな顔で振り向いた。

「そんなところに金目かねめのものは置いてないよ」

「いやー、ちょっと、親父の写真が見たいなあ……と思ってさ」

 苦しい言い訳でしかない。

 持ってきた百万円の札束を見ると、僕から引っ手繰るようにして、お札を数えはじめた。そんな兄を見ていると――まるで、ビデオテープで再生されている自分自身を観ているようで、言いようのない嫌悪感だった。

「これっぽっちじゃあ、足りない。もっと金はないのか」

 百万円をジャンバーのポケットに捻じ込みながら兄がいう。

「いいや、兄さん。今日はこれだけにしてくれよ」

「この家なら、かなりの現金があるだろう?」

「――もう帰ってくれないか」

「うるせい! 早く金をよこせっ!」

「断わる!」

「なんだと、この野郎! ぶっ殺すぞっ!」

 いきなり兄が殴りかかってきた。ミゾオチに膝蹴りを入れられて、うっと呻きながら僕は前屈みに倒れて気を失った。

 

「起きろよ! 和久」

 汚いブーツが僕の頭を蹴った。

 気が付いたら、ベルトで後ろ手に縛られて床に転がされていた。

「金庫の場所と鍵と番号を教えろ!」

 とうとう兄の本性が出たようだ。

「兄さん、何をする気だ?」

「和久、よく聴け! 今日から俺が有馬和紀ありま かずのりになって、この家の財産は全部いただくぜ。おまえは俺の代わりに土の中にでも埋まってろ! あははっ」

「なに言ってるんだ!? 正気なの兄さん……」

「ああ、正気だぜ。こんな貧乏くじみたいな人生とはおさらばだ。ガキの頃、おまえと名前を〔とりかえっこ〕しただろう? もう一回〔とりかえっこ〕して俺の和紀をかえして貰うだけだ。すぐには殺さない、おまえにはいろいろ教えて貰うことがあるからさ」

「兄さんがこんな恐ろしい人間だと知っていたら家になんか入れなかったのに……」

「おまえは昔から甘ちゃんだったからなあ」

 たしかに子どもの頃は、兄の言いなりだった。

「それから、これは……兄弟のおまえにだけ教えてやるが……」

 口を歪めてニタリと笑うと、わざとらしく声をひそめる。

「……高二の時にお袋を殺したのはこの俺だ。酔っ払って夜中に帰ってきて絡みやがったから、アパートの階段から蹴り落としてやったんだ。警察では事故死ってことでがついたけどな」

 母親殺し! この凶暴な人間が僕の片割れともいうべき双子の兄弟なのか。――なんと、おぞましいことだ!

「おいっ! 早く金庫のを教えろ。鍵は、鍵はどこだ?」

 ポケットからサバイバルナイフを取り出して、僕の喉元に押しつけた。こんな物騒なものを持ち歩いている兄は完全に犯罪者だ――。

「ポケットにある。上着の右側のポケットに入れてあるんだ。奥の方まで手を突っ込んでみて……」

「ああ、こっちのポケットだな。――よおし!」


「うぎゃあ!」

 僕のポケットを探っていた兄が悲鳴と共に手を引っ込めた。その手には何本かの注射針が刺さっている。

「イテテッ! 何をしやがる!?」

「その注射針には毒が塗ってある。ヒオスチンというアルカロイド系の毒薬だよ。麻酔にも使われていて、ゆっくりと眠るように死ねる」

「和久、お、おまえ……。嘘だろう!?」

「嘘なもんか。もうすぐ眠くなってくるよ。そして二度と目覚めない」

「な、なんでこんなもんを……最初から俺を殺す気だったのか?」

 手に突き刺さった注射針を抜きながら、兄は狼狽ろうばいしていた。

「――そうでもない。兄さんがこんなことさえしなければ、三ヶ月後には遺産として有馬家の全財産を相続できたんだ。遺言状を作成して弁護士にそうするように頼んで置いたのに……残念なことだよ」

「この家の遺産をこの俺が……?」

「僕は余命三ヶ月と医者に宣告されている。脳の奥に悪質な腫瘍があって手術もできないんだ。おまけに進行も早くて……。実は明日からホスピス・緩和ケア病棟に入院して抗がん治療は受けないで、ゆっくりと死を待つ運命だったんだ。だが、兄さんと会って考えが変った。――僕は死ぬ前に〔とりかえっこ〕した、本当の名前に戻りたいと思った」

「今日、おまえと会ったことは偶然じゃないのか?」

「そうさ。兄さんのことはね、興信所に頼んで調査済み。恐喝と詐欺で二回服役しているね。結婚歴は三回いずれも離婚、子どもはいない。サラ金やヤミ金から約二千万円の借金を抱えている。ね、そうでしょう?」

 さっきまでの悪ぶった兄は鳴りを潜め、今は恐怖で顔が引きつっている。

「あの喫茶店に現れることは知っていた。――だから、僕は賭けたんだ。もしも、ホスピスに入院する前に兄さんと出会えたら〔とりかえっこ〕した、僕の本当の名前を還して貰おうと……。兄さんにはお金を渡して外国にでも行って貰い、その間、僕は和久に戻って生きてみたかった、死ぬ前に……。最初から殺す気なんてなかったさ。――だけど、ひどい人間なんで双子の僕としては、兄さんを残して逝けないと判断したから」

「お、おい、げ、解毒剤をくれ……」

「――ないよ。病気がひどくなって苦しんだ時、僕が自殺するためのものだから」

「ゲ、ゲームオーバーだ。こんな遊びは止めよう」

「兄さん、これは遊びじゃないんだ」


                     *


 意識が朦朧もうろうとしてきたのか、やたらと首を振って睡魔すいまと闘っている。兄さん、そんなことをしても無駄さ。致死量のヒオスチンが体内に摂取されているんだから……。

 やがて、崩れるように倒れて永遠の眠りに着いた。

 死体の手から落ちたサバイバルナイフを拾って、後ろ手のいましめを外した。ああ、心も身体も自由になった。どうせ、死ぬのなら最後に曽我和久そが かずひさに戻って、残された生命を燃やし尽くしてから死んでやる。

 ホスピス・緩和ケア病棟に行くのはもう止めた――。


「兄さん、僕らの遊び〔とりかえっこ〕やっと終わったよ」


 不様な姿で床に転がっている、もう一人の自分。――さよなら、和紀かずのり。僕の双子の兄さん。

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さつじん脳 泡沫恋歌 @utakatarennka

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