星巡りの歌―イーハトーブ幻燈詩

@Motegi

星巡りの歌―イーハトーブ幻燈詩


 卓上のランプが薄暗い部屋を照らして、うず高く積まれた本にその光を投げかけ、陰鬱なる影を落としていた。どこか遠いところから来たうす暗い雨雲が降らす雨が、閑静な街を霧のように包み込み、路地を叩く雨音を窓越しに響かせていた。

 昼前には青空が広がり、連なる家々の壁や屋根の色、そしてその軒先に植わった植木鉢の目の覚めるようであった緑は、午後からの暗い空模様によって全てモノクロームとなって隠れ、それまでつまらないがらくたの集まりであった私の部屋は、黄色の電燈によって燦然と輝いた。

 熾熱灯に照らされ、幾重にも反射した光の魔法にかけられた、普段は本棚の奥で灰色な日常の風景に調和していた本たちが、一斉に私をその物語へと誘う。

時を越えた幻想の効果を前にしては、長い年月を経て黄色くなってしまったものですら手に入れた当初の輝きを取り戻したかのように見えた。

 本にはそれぞれの記憶がある。一つ一つ全ての本の表紙と題名を見る度に、それを買った時の様子や初めて読んだ時の驚きと楽しさ、そして今に至るまで数え切れないほど読み返してきた日々の楽しさが駆け巡る。

私はその宝石のような古今東西の珠玉の名作から、銀河の星の光の粒のように美しい装丁の本を手に取った。

 表紙には今にも風を感じそうな爽やかな野原を覆う満天の星空。そして遥かな大宇宙に思いを巡らす少年の絵。これは私の蔵書のなかでも特別な意味で珍しいものだ。

 しかしながら私はその本を他の本と同じ棚に並べることをしていなかった。それはとても長い間、日の当たらない所に在りつづけた。

 夜空を写しとった美麗な挿絵が明らかに他とは異質な雰囲気を帯びており、その装飾が他の書物に悪い影響を与えることを懸念してできるだけ遠ざけておきたかったのである。

 ちょうどダイヤモンドの輝きが、小坂鉱山の黒鉱や優美な花崗岩のような他の点で優れた性質をもつ鉱石の素晴らしさを相対的に減じてしまうかのごとく。

 それは優れ過ぎたがために私の目のつかない所に追放される必要がどうしてもあった。元来私はそうした装飾を好まない。巧妙な言語表現はどんな美しい絵をも上回ると、私は信じていた。しかしそれら優れた絵のなかに隠れたものに、文章の芸術家である彼が描きたかったものがあるとするならば、そこからまた学ぶものがあるかもしれない。

 本は読まれるためにある。長年友とし、つきあってきた古書で得られる知識は、新しい本を読んで得られるものよりも深い。

 窓を凍らせてしまいそうな寒々とした雨音が私の心を寄せては反す波のごとく締め付けるのに対して、頁をめくる鮮やかな音は密度の増した淀んだ空気をかすかにかき混ぜ、あくまでそれは温かみをもった冷たさを保っていた。

 プリオシンコースト―幼年期に確かに耳にした魅惑的な響き。

 化石の眠る銀河の浜辺、断続的に響くツルハシの音、スコップの先から、銀色の砂がこぼれる。

 嗚呼、百二十万年を経つるもなお変わらない静かな浜辺で一心にツルハシをふるう者たち。

 君たちは何ゆえに死せるものを掘り起こすか

 それは生きるためか

 まだ誰も知らぬ死を見つけて戦慄するためか

 プリオシン海岸の文字を示す壊れた標識と対をなすように、測量の器械は鈍く妖しい鉄の光を発した。

 白い骨は想像を超える遥か彼方から、光の速度でメッセージを伝えてくる。

 曰く、僕たちはここにいる―と。

 その言葉を理解するには、まだ人はあまりにも未熟だった。

 短く鋭い警笛を発して、汽車は白鳥の停車場を出た。

 車窓を流れる海岸を、水晶のように透き通った水が満たしていった。

 駅で買った星々の路線図の黒曜石の魔力に魅入られ、しばし私はまどろんだ。ああ、桜の花が散っている。この広い宇宙のどこかには、月夜にこんな桜が一面に咲き乱れる星もあるかもしれない。そしてそこには兎たちが、大喜びで跳ね回っているのだろう。

 天の理を読む場所。アルビレオ観測所は今日も昴の強く青い光や、変わらぬ北極星の淡い光―今日もどこかで砂漠の隊商が果てない砂の王国をさまよっていることだろう―に望遠鏡を向けるのに忙しかった。

 規矩を手に遠大で広い宙の法則に挑む学者たちの俗世界から離れた庵は、なんと美しい輝きを、潭水の如くたたえていることか!

 ここではみなが、せはしく明滅する仮定された有機交流電燈に過ぎないのだ。

 (あらゆる透明な幽霊の複合体)

 そしてそれら「間違いのない」数理は、因果の時空的制約のもとに提出される命題に過ぎず、それに捉われることのなんと愚かであることか。

 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 全てが完全なこの四次世界でのみその数式は証明可能となる。

 (それが虚無ならばある程度まではみんなに共通いたします)

 そこはまさに南十字星の下だった。汽車はそこで長い間、とても長い間停まっていた。確かにそこは、時を超越していた。

 「ここ、座ってもいいかい?」

 好奇心にあふれた、澄んだ目をした少年が聞く。その溌溂とした声につられて思わずうなずくと、彼は僕の前の席に向き合って座った。

 汽車が再び走り出すまで、彼は私の顔をしばらく黙って見ていた。そしておもむろに私に話しかけた。

 「君、前にも僕と会ったことがあるね。確かあの時の君はちょうど僕と同じくらいの年だった。それから君はしばらくここには来なかった。」

 「ああ、覚えているとも。時間が無かったわけではないけど何故か来る気にならなかった。悪いことをしたね。」

 「そんなことはないさ、ここは君らが長くいるべきところではないから。」

 彼は私の覚えている彼よりもとても大人びて見えた。それは非常に長い年月が過ぎたということを私に感じさせた。

 「君は来なかった。その間、君はたぶん多くの世界を旅してきたんだろう、いろんなものと出会い、君はずいぶん大きくなった。どうだろう、[彼]の遺した謎は解けたかな?」

 「ここに来る前は解く気でいた。でも解けなかった。」

 彼はくつくつと笑って、

 「よく言うよ。はじめから解く気なんてなかったくせに。」

 「そうかもしれない。だって解きようがないじゃないか。だってそれは―」

 「「[彼]にも分からなかったから。」」

 二人の声は同時に同じ言葉を発した。

 そしてその時、彼の顔はぱっと輝いた。

 「不思議だね。君がそう言うとは思わなかった。」

 「誰にも教わらなかった。そんなことが有り得るだなんて。」

 「全ての物事は起こり得るのさ。決して有り得ないことでもね。でもこの世界には意味がないというのかい。」

 「まさか、ちゃんとあるよ。でもそれが何故かは分からない。」

 きっと私は悲しい顔をしているに違いない。

 「それが分かる時が来るといいね。」

 「いや、きっと来ないだろう。それに、なんだか来て欲しくない気がする。」

 「それは何故?」

 「あの時、私は君が羨ましかった。君のいる世界がとても輝いて見えた。つまりここが。それでもやはり私は君と同じ世界に住むことはできないし君と同じようになることはできない。」

 「それは―」

「何故なら私の物語はまだ終わっていないから。」

「すごいね。大正解だ。君は君の世界を創らなければならない。でも僕はこの世界から離れられない。水に沈んでしまったから。僕ずっと、この終わりの見えない鉄道で旅をしなけりゃならないんだ。でもね、僕は幸せなんだ。だって窓の外の世界はこんなに綺麗なんだから。」

 「君にとってここはすでに天上世界なんだね。」

 「そう、ここが僕の終着駅さ。でも僕は罪を犯した。僕は彼を置いてきてしまった。仕方のないことだとはいえ、彼にはかあいそうなことをした。ずっとずっと、僕は彼といっしょに行くつもりでいた。彼も同じ気持ちだったろう。僕たちはあの時、確かに一つになっていた。それは君もそうだろう。」

 「君を見ていると、私は何だかあの二人の童子を思い出すようだ。」

 「そうだ。確かに彼らもかあいそうだった。でも彼らはたくさんの心を救ったじゃないか。でも僕はそんなことはできない。」

 「何を言っているんだい、君は私たちをここで救っているじゃないか。君のおかげで私はこの切符を買えたんだ。そして君の代わりに、ほんたうのさいはひを探しに行けるんだ。」

 私はポケットの中にいつのまにか入っていた紙切れを出した。それは確かに鉄道の乗車券だった。

 そこには三次空間―Southern cross駅経由―銀河ステーションと書かれていた。

 「君はもう、降りなければいけない。彼のように。そして外の世界で、また[彼]のように君だけのさいはひを探さなければならない。ありがとう。君がここに来てくれて嬉しかった。そして楽しかった。またこの列車に乗りに来てくれるね?」

 「分からない、これが最後かもしれない。でもきっと乗りに来たい。」

 もしかすると私の物語が終わる時、この列車の世話になるかもしれないとは言えなかった。

 汽車が止まった。

 「それでは、さようなら、また逢う日まで。」

 「さようなら、カムパネルラ。」

 彼はどこからか出した車掌の帽子を被りながら鞄を手にとり、私の切符を切ると前の車両に移っていった。

 私は列車を降りた。

 どこからか聞こえてくる、銀河ステーション、銀河ステーションという声に負けないように、彼は声を張り上げて、外に身を乗り出しながら、「出発、進行」と叫び、銀製の笛を鳴らした。

 この駅で降りたのは私だけだった。

 私は烏瓜を川に流して叫ぶ子どもの歓声を聞きながら、銀河の祭りの通りを通って家路を急いだ。

 空を仰ぐと、燃えるように赤い蠍の天の火が輝いていた。

 ふと気づくと、確かに持っていたはずの黒曜石の銀河の地図は氷のように溶けてしまっていた。

 私は私にかけられていた魔法が解けたことにしばらく呆然としていた。

 確かに現実に起こった出来事、私が迷い込んだ四次元空間は不安定ながらも、三次空間よりももっと真に迫っていた。私ははじめて、この世界の真理を見た気がした。

 私は私の幻想が、あの貝の火のように傷ついて壊れぬようそっと、いつも読んでいる本の棚に移した。

 銀河鉄道の夜 宮沢賢治

 その字は今日、はじめて本当の意味をもって収まるべきところに収まったのだということを、私は知った。

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