カルテット番外編「花窓」

椎堂かおる

第1話

「人質? 人質ですって? どうしてアンタが、そんなもんにならないといけないのよ?」

 歯切れのいい早口で、女の声が言った。部屋の奥から聞こえてくるその声を、イルスは窓から夜の町を見下ろしながら聞いていた。

 大通りに面した大きな出窓は、細かい装飾が施された白漆喰の屋敷の三階にあり、真南に海を望むことができた。見下ろすと、色とりどりの花を溢れるほどに飾りつけたたくさんの窓と、それを照らす暖かなランプの光が、光の川のように眺められた。

 その光の川の中を、笑いさざめく人並みがゆっくりと行き交っている。絶え間ないざわめきは、少し離れた窓から聞くと、波の穏やかな海が奏でる潮騒に似て、耳に心地のいい。

 背もたれのない椅子を持ち出して腰掛け、出窓の張りだしに持たれかかったまま、イルスはもう、かなりの時間をここで過ごしていた。窓辺に腰掛けた時には、まだ、東の岬から顔を出したばかりだった月が、今ではもう空高く上っている。イルスは何度目かの欠伸をかみ殺した。

「大体何よ、あんたもう、海都の王宮とは縁がないんでしょ。師匠に頼んで、断ってもらいなさいよ」

 長い髪を結い上げていた金の髪飾りを外し、ほどけた髪を振りほぐしながら、部屋の奥に引っ込んでいた女が戻ってきた。彼女が部屋の中をうろうろすると、彼女の栗色の髪や褐色の肌に塗りこめられた、甘く香ばしい香料の匂いが漂った。

「聞いてるの、ボウヤ」

 イルスの襟首をぐいっと引っ張って、女は意地悪く言った。傾いた椅子から落ちそうになりながら、イルスはあわてて出窓の出っ張りを掴んだ。見上げると、真上から自分の顔を覗きこんでいる女と目が合った。鮮やかな青い瞳を引き立たせるため、女は目尻に金の粉で化粧をしていた。まつげの豊かな大きい目は、好奇心の強そうな勝気な笑みを浮かべ、面白そうにイルスを見下ろしている。

「師匠は?」

 襟首を掴まれたまま、イルスは不満げに尋ねた。女が、ふふんと思わせぶりに微笑した。

「まだウルスラの布団の中よ。決まってるでしょ。あんた、眠いんだったら、変な意地張ってないで寝なさいよ。いくら待ってたって、今夜は帰れやしないんだから」

 声をたてて朗らかに笑い、イルスの髪をくしゃくしゃに掻き回してから、女はイルスを出窓に押し戻した。憮然として、イルスは髪をなでつけた。

「エレン」

 苛立ちで低くなった声で、イルスは女の名前を呼んだ。鼻歌を歌いながら、部屋の中央にあるテーブルに歩み寄り、女はそこに置いてあった水差しから酒盃に水を注いだ。そして、思い出したように、なあに、と答えた。

「仕事はどうしたんだよ」

「今日はもう店じまいよ。残念。いい男だったのに。あたしったら、急に月の物がきちゃって、たまらないわ」

 水を飲みながら、エレンは切れ切れに説明した。イルスはため息をついた。

 師匠はなぜ、こんなところに入り浸るのだろうかと思い、イルスは忌々しい気分で、窓の下を走る通りに目をやった。色とりどりの瑞々しい花で飾り立てた美しい窓のひとつひとつには、華やかな化粧で褐色の肌を飾った半裸の女たちが座っている。笑いさざめきながら、女たちは通りをゆく男たちに歌いかけていた。そんな通りが延々と続くこの界隈を、地元の者は「十字の娼館」と呼び習わしている。それは、この館が、交差する二本の大通りに面して建てられた、大きな十字の形をしているからだ。

「アルマが終わる前に、誰かいい相手をみつけないと、ちっとも箔がつかないっていうのに、あたしも、どこまでツイてないんだか」

 苦笑しながら言って、エレンはまた、窓辺に歩み寄ってきた。窓枠の張り出しに頬杖をついているイルスのすぐ横に、エレンはひょいと身軽に腰掛け、恨めしそうに窓の下の通りに目をくれる。

「ねえボウヤ、どうしてあんたたち男は、アルマ期にしか恋をしないの? 4年に一度だけなんて、あんまりだわ。今年を逃したら、次はまた4年先。その頃には、あたし、21になってる。そんな歳になっても、決まった旦那のいない娼婦なんて、ろくでもないと思わない?」

「知らねえよ」

 憮然として、イルスは答えた。エレンが今17歳なのだということを、イルスはぼんやりと計算していた。師匠の供で十字の娼館に連れてこられる度に、エレンと顔を合わせることになるのは、この娼婦がいつも客にあぶれているからだ。

 ちらりと横目で、イルスはエレンの横顔を盗み見た。窓辺のランプのぼんやりとした明かりと、青白い月明かりの中に浮かび上がるエレンの顔は美しかった。悔しそうに通りを見下ろす青い瞳は、真夏の海のように鮮やかだ。

 客を引くために窓辺で着飾っている時のエレンは、ほかの女たちよりもずっと、瑞々しい美しさをしているように見えた。彼女に客がよりつかないのは、娼婦にしては気位が高すぎる勝気な性格のためだ。

 エレンには、どこか、人を小馬鹿にしたようなところがある。エレンのあっけらかんとした雰囲気のおかげで、腹が立つというほどではないが、いつまでもボウヤと呼ばれるのには、正直言って辟易してしまう。

「ねえ、ボウヤ、あたしって綺麗じゃないのかしら」

 イルスに視線を向け、エレンは至極真剣そうな面持ちで言った。

「あたし、少し鼻が高すぎるんじゃないかって、年上の姐さんたちにからかわれるの。でもね、あたしは、そんなことないと思うのよ。あたしはこれでも、自分の顔を気に入ってるの。けど、男の人の好みって、女の考えるのとは違うらしいじゃない。あんたは子供だけど、一応男の端くれなんだから、どう思ってるのか聞かせてよ」

 イルスはあっけにとられてエレンの顔を見上げた。

「俺は子供じゃない。もう14だ」

「アルマも知らないくせに、なに生意気なこと言ってるのよ」

 素早くイルスの頬をつまんで、エレンは意地悪く笑った。あわてて体を退いたので、イルスは椅子から転げ落ちそうになった。

「海エルフの男は、アルマを知ってはじめて一人前なのよ。まともな男なら、今は子供を作るのに精出してるのが普通じゃない。あんたみたいに、廓に来ても、ぶすっと面白くなそうな顔してるのは、まだ子供だって証拠よ! ほら、外を見てごらんなさいよ。男はみんなアルマのせいで面変わりして、すっかり凛々しくなってるじゃない。なのにあんたは、いつもと少しも変わりゃしないわ」

 けらけらと面白そうに笑って、エレンはイルスを指差した。イルスはまるで面白くなかった。

「ねえ、それより、あたしの事どう思うのか答えてよ、ボウヤ」

「エレンは不細工だ。だから客がつかないんだ」

 仕返しのつもりで、イルスは憎まれ口をきいた。すると、エレンが急に笑うのをやめて顔をしかめ、彼女に似合わない気の弱さを見せた。

「そんな言い方ってないわ…。ちゃんと、可愛いって言ってくれたお客だっているのよ」

「そいつは目が悪かったんだろ」

 眉を寄せて自分の顔を覗き込んでくるエレンの視線から逃れて、イルスは言った。本心ではなかったが、エレンがあんまり癪に障ることを言うので、慰めてやる気にならなかったのだ。

 「ひどい。あんたなんか、山の連中に殺されちゃえばいいのよ」

 悪態をつくエレンの声が泣いていた。ギョッとして、イルスは顔をあげた。窓枠に腰掛けたまま、エレンは悔しそうに歪められた顔を隠しもせずに、睫の濃い大きな目から、ポロポロと涙をこぼしていた。

「な…泣くことないだろ!?」

 動揺して、イルスは椅子から立ちあがっていた。エレンは涙をあふれさせたままの目で、キッとイルスを睨み付けてきた。

「顔で商売してるあたしに、不細工だなんて、よくもそんな事が言えるわね。あたしが客を逃がして落ち込んでるっていうのに、少しは人の気持ちも考えたらどうなの? あんただって、自分の剣を侮辱されたら悔しいでしょう? それと同じよ。そんな簡単に言わないで!」

 エレンの声は強気だったが、ときどき嗚咽で震えていた。

「エレン…ごめん」

 目のやり場に困って、イルスはうろうろと視線をさまよわせた。

 怒って興奮したエレンの体からは、ますます甘い香油の匂いが漂ってきた。結い上げていた時に彼女の髪に挿されていた大輪の白い花が、髪をほどいた今では、すっかりずり落ちて肩のあたりに留まっている。膝丈の裳裾からのぞくエレンの足は、飾り気のない素足だった。そのつま先が、時折かすかに震えるのを、イルスはただ見下ろしていた。

 「いいのよ、ボウヤ。あたし、なんだかイライラして、やつあたりしちゃった…」

 少し経ってから、エレンが言った。鼻をすすりながら、エレンが涙で濡れた目をこすると、彼女の手のひらに、目もとを化粧していた金の粉が移って、きらきらと光った。

「あたし、ここが嫌いなの。早く、誰かの子供を孕んで、ここを出て行きたい」

 髪に挿していた白い花を抜き取って、エレンは、腰まで届く長い髪に、指を漉き入れた。明るい褐色の髪からも、甘い匂いがこぼれる。

「あたしね、これでも、生まれは貴族なのよ。でも、都がバルハイから海都サウザスへ移った頃から、家が傾いて、お金に困ったお父さんが赤ん坊だったあたしを、娼館に売ったの。もし、あたしの運命がもうちょっと違う風になっていたら、今ごろ、貴族の姫様だったのよ。あたし、つらいときは、自分が本当は湾岸の大貴族の娘なんだって想像してみるの。きれいなドレスを着て、毎日、夜会に出るのよ。素敵な剣士と恋をしたり、外国の商人と話をしたりね」

 涙に濡れた顔で微笑んで、エレンは冗談のように言った。

 イルスは憂鬱な気分になった。エレンの想像するような夜会が、海都サウザスでは、今夜も催されているのかもしれなかった。その夜会を開いているのは、イルスの父である族長、ヘンリック・ウェルン・マルドゥークだ。古都バルハイから海都へ都を移し、数知れない貴族たちを切り捨ててきたのも父のやり方だ。父は貴族を嫌っている。イルス自身も、居丈高な湾岸の大貴族たちが嫌いだった。

 でも、その父のやり方が、多くの没落貴族を生み出し、エレンのような娘を数知れず娼館へと送りこんできた。エレンは、イルスが何者なのかを知っている。イルスは、エレンからいくら恨み言を言われても、自分には文句う権利がないような気がした。

「海都の夜会に出たことがある?」

 涙を拭きながら、エレンが微笑んだ。イルスは首を横に振った。

「あんたも可哀想な子よね、ボウヤ。あたしの方が、まだ幸せなのかもしれないわ」

 照れくさそうに笑うエレンを眺めて、イルスは肩をすくめた。

 イルスは今まで、自分が可哀想だと思ったことは、一度もなかった。師匠からはいつも、何かにつけ、お前は強運な子だと言われ続けてきた。師匠にそう言われると、確かに運は良い方だという気もするし、エレンに哀れまれると、それなりに自分は哀れなような気がした。結局のところ、自分の運の良し悪しなど、イルスには興味がなかった。

「ねえ、ボウヤ、あんた踊れる? 今日のお客はね、踊るのが好きだっていって、あたしに教えてくれたの。楽しかったわ。あたし、もうちょっと踊りたいの。あんた相手になりなさいよ」

「音楽もないのに?」

 うんざりして、イルスが椅子に戻ろうとすると、出窓に座ったままのエレンが、悪戯っぽく笑って椅子を蹴倒した。

「あたしが歌ってあげる。それでいいでしょ」

 出窓からぽんと身軽に離れ、エレンはイルスの目の前の床に飛び降りた。楽しげに笑いながら、エレンはイルスの返事などお構いなしに手を掴み、気持ち良さそうに歌い出した。

 呆然とするイルスの手を握ったまま、エレンはひとり勝手に陽気になり、歌いながらくるくると舞った。色鮮やかなエレンの裳裾が、浜辺で開く大輪の花のように浮き上がり、乾いた甘い匂いのする褐色の髪が、エレンの頬に乱れ掛かった。臆面もない大声で歌うエレンは、まるで酔っているように見えた。実際、少しは酔っているのかもしれなかった。イルスが知っている娼婦たちの大半は酔っていて、素面の時を見ることなど殆ど無い。

 裸足のつま先でくるりと舞って、エレンは歌いながらイルスの腕の中におさまった。間近で目があうと、エレンは子供のように笑って屈みこみ、ちょっとだけイルスの鼻に自分のそれをくっつけた。イルスが驚いて体を退こうとすると、エレンは意地悪く笑って、イルスの腕を引き戻した。

「あんたじゃ背が足りないわ、踊りの相手にもなりゃしないじゃない」

「うるさい。そのうち育つって師匠が言ってた」

 むきになって、イルスは反論した。少しは気にしていたことだった。女にしては背の高いエレンに言われると、余計に腹が立つ。

「あんたって、何でも師匠の受け売りなのね。師匠が何でも知ってると思ってるの?」

「師匠は何でも知ってる」

「あら、そうよね。なんにも知らないボウヤよりは、ずっとね!」

「俺がなんにも知らないって言いたいのか?」

「なによ、あんたが知ってることなんて、剣の使い方だけじゃない」

 楽しそうに笑って、エレンはイルスの眉間を人差し指で強く突ついた。憮然とそれを避けながら、イルスは無性に気まずかった。エレンの胸元からは、猛烈に甘い香油の香りが薫っていた。普段は鼻につくその匂いが、今はなぜか心地よかった。

「それだけ知ってれば十分だって師匠が言ってた」

「また師匠?」

「うるさいな、今日にかぎって、なんでそんなに絡むんだよ!」

 エレンの腕を振り払って、イルスは声を荒げた。なんとなく馬鹿にされているような気がして、じりじりと腹が立った。

「だって、あんた、ちっとも寂しそうな顔しないんだもん。憎たらしいのよ」

 きゅうに肩を落とし、エレンは無理に笑っているような顔をした。

「……………」

 なにか言い返そうとして口を開いたまま、イルスはしばらくの間、進退極まっていた。予想もしていなかったことを言われて、返事のために用意した憎まれ口が使えなくなってしまったのだ。

「元気でね、ボウヤ。厭な事があったら、ここへ逃げてくればいいんだから。あたしはどうせ、ずっとここにいるに決まってる。だって、ちっとも旦那がつかないんだもの」

 紅で染まった唇で、エレンは綺麗に笑った。そして、甘い匂いのする指で、イルスの耳を引っ張った。

「俺、逃げたりしないよ。エレンには分からないかもしれないけど、人質が逃げたら、大事になるんだぞ」

 耳を引っ張られながら、イルスは抗う気もせず、ぽつりと答えた。

「そんなの、あんたの知ったことじゃないでしょ。海都の夜会にも呼んでもえないのに、人質がなによ、そんなもん糞食らえってもんじゃない?」

 おどけて目配せするエレンに、イルスは苦笑した。

「戦になるぞ」

「それがなに? 腹の立つ敵なんて、あんたの剣でみんな倒しちゃいなさいよ」

「親父殿が困るだろうな」

「そりゃそうよ」

 うふふと笑うエレンの顔は、とても楽しそうで、化粧がすっかり崩れていても、今までイルスが見た女の中で、一番綺麗だった。

「エレン」

 首をかしげて、イルスは微笑むエレンの顔を見上げた。

「化粧してないほうが綺麗だ」

 エレンが憎たらしそうに笑い声をたてた。

「あんたってズルイ」

 きゅうに笑い止んで、エレンがぽつりと言った。なんのことを言われているのか、イルスにはわからなかった。

 エレンの長い指が、イルスの肩に触れ、しなやかな腕がイルスの背を引き寄せた。

「死んじゃイヤよ、イルス。ちゃんと無事に戻ってきて。みんな待ってるから。あたしも、待ってるからね。あんたが帰って来るところは、ここよ。あんたにはちゃんと、帰って来る場所があるんだからね!」

 イルスを抱きしめて、エレンは密かな声でしっかりと言い聞かせるように言った。

 イルスは何も考えられず、ぼんやりと、天井の漆喰がまだらになっているのを見上げた。どこか遠くから、賑やかな音楽が聞こえ始めた。いくつもの弦をかき鳴らす、心が浮き立つような音に合わせて、力強い太鼓と銅鑼の音が流れてくる。だが、それも遠くに聞くかぎりは、どこか気だるく、夢の中で聞く音楽のようにおぼろげだった。

「エレン…」

「なあに?」

「ほんとは寂しいよ」

 柔らかなエレンの肩に頬を押し当てて、イルスは目を閉じた。

 エレンの温かい手が、イルスの髪を撫で、背中を撫でた。イルスがエレンの背に腕を回すと、エレンはイルスの耳に彼女の頬を優しく擦り付けた。エレンの体は温かく、眠気を誘う甘い香りがした。エレンの長い髪が、イルスの背に落ちかかり、さらさらと乾いた音を立てた。

「エレーン、エレノア! お師匠がお帰りよ。ボウヤに教えてやって」

 部屋の外から、女の声が廊下伝いに聞こえてくるのが分かった。

 イルスは薄く目を開いた。遠い音楽とざわめきに混じって、軋む階段を降りてくる足音がいくつも聞こえた。

「もう行かないと」

 去りがたい思いのままイルスが告げると、エレンは顔を上げ、華やかに微笑んだ。淡い金色にかがやく目元も、大きな蒼い瞳も、白い歯を見せて微笑む唇も、全てが美しく思えた。それはまるで、夜の窓辺を飾る、華麗な花のようだ。

 花窓を見上げる遠くの路地裏で、音楽は、まだ続いてた。



      ---- 完 ----

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