記憶
熱く黒く苦く香ばしい飲み物はコーヒーというものらしい。二杯目をもらった。
「本物じゃないけどね」
山羊女は乾いた笑いを浮かべた。
「全部にせもの。コーヒーも、トーストも、この花も」
山羊女の声は聞いていて心地よかった。随分以前、おじさんが歌ってくれたことを思い出す。おじさんの歌。茶色の楽器。山羊女の声は歌を、音楽を思い出させる。おじさんのそれより遥かに軽やかで、心がくすぐられる。素晴らしい瞬間。
ただ、何を言っているのかよく分からないことがある。
「ずっと待ってたのよ」
少年を見ていなかった。テーブルの続く先、どこか、そんなところを見ていた。
「でも、しょうがないわね。違った」
そう言ってまた少年を見つめる。
山羊女の目は輝いている。濁りが無かった。深いところまで真っ直ぐに届いてくる。見つめられると目を離せなくなる。逃れられなくなる。
美しかった。何もかもが。
これが、美しいという言葉の本当の意味だったのかと少年は思う。本を読むだけでは分からなかった。
ため息は出ない。むしろ息は止まる。止まり続けてそのまま消えてなくなってしまいそうだ。
「帰るならいつでも言って。そうそう、荷物はまとめてあるから」
「荷物?」
我に返った。何か身近な話だ。今ここではないどこか。
「着てた服とかカバンとか。服は洗ってあるから。マントはここに来るはずのヒトのものだと思ったんだけどなあ。それと、物騒なもの持ってるのね。どこで見つけたの?」
ベッドの傍らの小さな台に綺麗に畳まれた服やマント、ポケットの中身やカバンが載せられている。少年が誰にも言わずに服の奥のポケットで持ち歩いていた銃が無雑作に服の上に、目立つように、置かれていた。
ここではないどこか。自分は確かにそこにいたはずだ。
山羊女が言っている物騒なものが銃だということは分かった。
「地下で見つけた」
どう語っていいのか、言葉が見つからなかった。
「なんだか分かってるわよね?」
山羊女の問いに少年はうなずくだけで答えた。
「不思議ねえ。そんなもののことが分かってるのに、何も思い出していないなんて。ねえ、本当に何も思い出さない?」
もう山羊女の表情にも口ぶりにも落胆は微塵も含まれていなかった。
少年は何も答えずに立ち上がった。吸い寄せられるように畳まれた服やカバンの台に近づく。
もちろん、色々思い出す。おじさんのこと。ガキどものこと。太め。名前を授けた男たち。茶色の長い髪。短く刈り込まれた輝く髪。炎。
そう、炎のことも。
銃と一緒に笛が、茶色から最後に渡された笛が、ボロボロの紐もそのまま、置いてあった。
少年は笛を手に取った。
「大事なものなの?」
山羊女が声をかけた。
「ああ」
紐を首に回した。軽い。忘れられないのに、とても軽い。
「その笛もねえ……、鍵なのは知らないのよね」
山羊女はため息をついた。
「いや……、知ってる」
「驚いた。鍵のことは知ってるの?」
山羊女の声は、それまでより一段高かった。
「そうじゃなきゃここには来れない」
「そう言われるとそうね。でも、じゃあ、やっぱりなんで本当に何も思い出さないのかしら」
山羊女は首を傾げた。
「何も思い出していないのに、ここまでたどりつけるものなのかしら」
少年に言ったのではなかった。独り言のような、自分に聞いているだけの言葉。
どうやってここにたどりついたか、少年にはよく分かっていた。居住区の地下に降りて音の壁を越えて地下水路を抜けて……。
不安になっていた。
おじさんだ。おじさんが全てを教えてくれた。
おじさんはなんで知っていたのだろうか。何度も繰り返した疑問を改めて考える。思い出したということなのだろうか。そういえば、おじさんはいつも何かを思い出していた。山羊女の言う、思い出す、ということとおじさんの記憶は関係しているのだろうか。
そして、と少年は思った。
茶色が見つけた笛は偶然だったのだろうか。
茶色もまた、何かを思い出していたのだろうか。
おじさんと茶色はよく似ていた。それは知っている。
自分はあの二人とは違う。自分は何も思い出さない。まったく。少しも。
それはどういうことなのか。
「自分で見つけたんだ。ここへの道を」
少年は嘘をついていた。
ごく自然に。
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