失望

 どこにいるのか分からなかった。

 鮮烈な匂いがした。固めたパンを蒸し焼きにして炭にする時に嗅いだことのある匂いに似ている。それよりも遥かに心地よく、かぐわしく、胸の中に満ちて、食欲を刺激される。

 腹を空かせていることに気がついた。今まで感じたことのない猛烈な空腹だった。とにかく何か食べたい。

 身体が重かった。いや、身体の芯は軽い。軽く感じる。疲れが消え失せている。なのに、ちょっとでも動かそうとすると、まるで上から押さえつけられているかのよう。途端に動きにくくなる。どうしようもないほど動かせない。力が入らない。重い。肌触りの良い柔らかい布に、深く沈み込んでいる。

 目を開けた。

 目の前は白く輝いている。何も見えなかった。近いのか遠いのか、それさえよく分からない。手を持ち上げようとする。やはり動かない。鼻から大きく息を吐く。胸がゆっくりと潰れていく。いつまで経っても息は吐き終わらない。布に、さらに深く沈む。

 どこかから、一定の高さで続く小さな音が聞こえてきた。

 目の前の白い光が動き出す。

 音が変化する。大きくなる。

 周りの光景が見えてくる。遠ざかる白い光、蓋のような何かの両側から、落ち着いた光に包まれた空間が現れてくる。匂いが、食欲を刺激するあの匂いが強くなる。

 身体が動いた。手が、自分の思った通りに動いた。

「起きた?」

 声が聞こえた。聞いたことのある誰かの声だ。

 爽やかな、少し甘い香りがした。声のほうから漂ってくる。すぐに消えた。いや、消えなかった。うっすらと漂い続け、気持ちを明るくしてくれる。身体が軽くなってくる。

 あの食欲をそそる匂いも、爽やかな甘い香りも、聞いたことのある声も、皆、同じ方向からだ。

 顔を向けた。

 明るい。

 広い。

 誰かいる。

「起こしちゃった?」

 その誰かが声をかけてきた。

 誰に?

 自分に、か?

 見たことのない服だった。手足がむき出しだ。ひどく細い。

 腹が鳴った。

 テーブルの前でてきぱきと動いている細い手足の誰かがコロコロと笑った。

 それが山羊女だということに少年はようやく気がついた。

 身体を横たえていたのはベッドだった。

「トーストなんてワタシも久しぶり」

 トースト?

 山羊女の前の広いテーブルには見たことのない色鮮やかな何かが乗せられた皿が幾つも並んでいた。

 食欲をそそる匂いはそこからだった。

「サンダル使って、足元の」

 山羊女の言っているサンダルが何か分からなかった。

 足元を見た。普通とは違う形の靴が置いてある。

 おそるおそる足を乗せた。次の瞬間、足を覆う部分が足の形に合わせるように柔らかく変化した。不快感は無い。軽い履き心地だった。

 驚きを隠したまま、少年はテーブルに近づいた。

 テーブルの真ん中に置かれた背の高い輝く器からは細長い緑色の何かが何本も伸びている。その先には、目に焼きつく深い赤、白から青を経て紫、粉をふいたような黄色、様々な色の細かい、華やかな何かが豊かに飾られている。

 本で見たことがある、少年は思った。

 花だ。花というものだ。

 山羊女が静かに椅子に座った。

 少年も椅子に触れてみた。深い茶色の細い材料でできた軽い椅子。座ってみた。わずかに軋む音がした。心地よい固さだった。

 椅子に座って改めて部屋の中を見渡す。汚れの無い白い壁に囲まれた明るい部屋にいるのは少年と山羊女だけだった。

 テーブルの上に並んだ皿には見たことのないものが乗っていた。

 いくつかは想像がついた。配給所の細長く丸いパンとは違う四角いパン、色の違うスープ、多分、肉。

「召し上がれ」

 山羊女は光り輝くフォークを手に取り、深い皿に盛られた緑色の何かを口に運んだ。

 あれも多分、本で見たサラダというものだ。

 少年はサラダではなく、四角いパンに手を伸ばした。どうやら食欲をそそる匂いの元はこれだ。

「マーガリンしかないけど、いいわよね。ここだとバターは無いの。残念だけど」

 バターという言葉は本で読んだことがある。料理、そうだ、料理に使う、それと、パンに塗る。

 塗るのか。でも、どうやって?

 山羊女も自分の皿からパンを取り、両手で裂くようにちぎった。小さなナイフを持つと、パンの皿の横にある別の小さな皿に置かれた黄色い塊をナイフで器用に切り取り、そのままパンに乗せ、ナイフで押し付けながら少し広げる。そのパンを口に運び、頬張る。

 少年もこわごわと山羊女の真似をした。

 匂いだけではなかった。目を閉じてしばらく味を感じ続けた。

 なんという美味さなのか。

 パンだけで味わってみた。柔らかく甘く、それでいて深みのある味わいが口の中に広がる。パンだけでも意識が遠くなるほど美味かった。

 もう一度、黄色い塊を塗った。

 これだ。この美味しさ。こんなものが食べられるとは。

「もっとあるわよ」

 緊張がほどけたのが伝わったのだろうか、山羊女が優しい笑顔で言った。

 猛烈な空腹がよみがえってきた。

 何も言わずに食べた。どれもこれも、ずっと食べ続けていたいほど美味かった。飲み物はただの水のはずだった。そのただの水ですら泣きそうなほど美味かった。

 先に食べ終えた山羊女が見守る中、少年はひとりで延々と食べ続けた。

「思い出した?」

 ようやく食べるのを終え、舌を焼くように熱く暗闇の中で目を閉じた時のように黒くほのかに苦い、それがまた美味い、不思議な飲み物を飲んでいる時になって、山羊女が笑顔で話しかけてきた。

 少年は考えていた。寝ている最中、夢かと思ったこと。

 寝たままいつの間にか服を脱がされていた。身体を斜めに起こされ、頭から足の爪先まで、暖かい水が身体の表面を柔らかく撫でるように流れていく。いや、流れていったような気がする。髪の毛も髭も、寝ている間に何かされた。

 よくは覚えていなかった。よく見ると着ている服には見覚えが無い。顔を触ってみると髭が無くなっている。髪の毛もいつものようにごわごわと固まってはいない。

「身体に暖かい水がかかっていた」

「ああ、それはあの睡眠装置の機能だから。寝ている間にグルーミング機能で何でも済ませるようになってる。でも、そういうことじゃなくて」

 山羊女は何を聞こうか迷っているようだった。

「思い出さない? ここのこととか。地上のこととか」

 それでも聞かずにはいられないようだった。

「本で読んだこと?」

 少年は逆に聞いてみた。

「違うわ」

 山羊女は戸惑っているようでもあった。

「居住区のこと?」

「そうじゃなくて、分かるでしょ、思い出してるなら」

 じれったそうでもあった。

「分からない」

 山羊女は急に何かに気がついたかのように息を飲み目を見開いた。

「もしかして、本当に何も思い出さない?」

「だから何を?」

「そう……」

 山羊女の表情が沈んだ。

 失望が、少年にも伝わった。

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