地上

 ぶつぶつと言いながら机に向かって本を読むおじさんの傍らで、小さな少年が椅子に座ってじっとおじさんの声を聞いていた。少年はまだ床に届かない足を何度も交差させていた。両手を口に当て、急にこみあげてきたあくびを押さえる。目にうっすらと涙が浮かんだ。

 昼時を告げる宮殿の鐘の音が聞こえてきた。

 小さな少年はそわそわと何度も腰を浮かせる素振りを見せる。

 おじさんはその素振りに気付かずに本を読み続ける。

 小さな少年はついに大きな口を開けて我慢していたあくびをしてしまう。

 おじさんはそれにも気付いていなかった。

「相変わらずだね」

 部屋の暗がりに突然現れたマントの男が苦笑混じりにそう言った。

 小さな少年は驚きのあまり目と口を開け身体を半分椅子からずり下ろしたまま固まっていた。

「怖がることは無い」

 おじさんは本から顔を上げずに言った。

 マントの男、少年は、ゆっくりとフードを外した。

 おじさんは本を閉じ、顔を上げた。

「おまえか」

「そうだよ、ボクだよ」

 少年はおじさんではなくまだ動けないでいる小さな少年に微笑んだ。

 小さな少年は目が覚めたように小さく震え、椅子からずり落ちるように降り立ち、今度はそのまま固まった。

「何をしにきた。また、何か取りに来たのか」

 おじさんは怒ってはいなかった。少年がこの部屋から様々な道具を持ち出したことを責めたことは一度も無い。

「いや、もう持っていくようなものは無いよ」

 少年は、立ったまま固まっている小さな少年がついさっきまで座っていた椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「懐かしいな、この椅子」

 少年が座るとその椅子は小さく見えた。

「話はなんだ」

 おじさんはまばらにヒゲの生えた少年の顔をじっと見た。

「話なんか無いさ」

「では、何をしに来た」

「別にいいじゃない、たまに来たって」

「わたしが居ない時に勝手に入っているだろう」

「気付いているって分かってたよ。勝手に入ってるわけじゃない。ボクだってこの部屋で暮らしてたし、まだ鍵だって持ってるし」

 少年は小さな少年を見た。小さな少年は何も言わず、ただ目を丸くして少年を見つめていた。

「しばらく外に出てろ」

 おじさんは小さな少年に向かい、手を扉のほうに振った。

 小さな少年は急に動き出し、パタパタと小さな足音をさせて扉の外に消えていった。

「ここから連れて行ったのは元気か」

「ああ、炎のこと? 元気でやってるよ」

 少年は何かを思い出したかのように含みのある笑いを浮かべた。

「炎? なんだそれは?」

「名前だよ。ボクは皆に名前を授けてるんだ」

 得意げな少年を見ておじさんが顔をしかめた。

「炎は優秀だよ。ボクの代わりに皆に色んなことをちゃんと説明してくれる。絵を描くのがうまい。あ、それと、楽器もできる。ボクは絵も楽器もダメだ」

「奴は危ない」

「あ、おじさんもそう思う? 分かるよ。ボクもそう思う」

「宮殿には連れて行っていない」

「知ってるよ。行きたがってるけどね。ボクも教えてないよ、大丈夫」

 少年の目は笑っていなかった。

「なぜ、火を使っている?」

「ああ、そのこと? だって、おじさんが見せてくれたんじゃないか、火を」

 少年の目が挑むようにおじさんに向けられていた。それを押し返すおじさんの目も、決して負けてはいなかった。

「何が望みだ」

「ボクらは地上をめざす」

「地上?」

 おじさんの声が少しばかり高くなった。

「そうさ、地上さ」

 少年は口の端を上げた。

「地上は……」

「滅亡したって言いたいんだろ?」

 少年はおじさんの言葉を待たなかった。

「もうその話はうんざりだよ。考えてもみてよ。おじさんは世界が滅亡したのは食料の不足だって言うよね。でもさあ、じゃ、なんで地下のこの世界は食料が充分に供給され続けてんのさ。ここで食料が足りなくなることが無いんだったら、おじさんの言う地上の世界だってなんとかなったんじゃないの。それにさあ、そもそも食料の供給がこの世界だけで閉じてるってこと、考えるとおかしいよ。この、地下の世界の生態系は閉じちゃいない。どこかが補ってるんだ。それが地上だって考えるの、不思議じゃないよね」

「何を……」

「待ってよ、まだあるよ」

 少年は口を挟もうとするおじさんを制して続けた。

「山羊女の儀式の審査員っていうの、あれは誰? あの人たちはどこから来てるの? おじさんは分かってるの?」

「それは……」

 おじさんは手を頭に当てた。

「また痛んでるんだよね。思い出そうとしてるんだ。多分、おじさんは知ってるんだよ、あの人たちが地上から来てるって。あの人たちはここの男たちとも衛兵たちとも違う。皆はおばさんって呼んでる。おばさんってなに? ボクは知ったよ。そう、これだけは自分で考えても分からなかった。だから本を探して知った。おじさんは知ってるよね、おばさんっていうのは年をとった女だ。女っていうのはこの世界には山羊女しかいないはずだよね。だったら、あの審査員のおばさんたちはどこから来てる?」

 少年はおじさんの顔色をうかがった。

 おじさんの顔は激痛に歪んでいた。

「いいよ。言うよ。あの審査員のおばさんは地上から来てるんだ。そうだろ? どうしてそれを教えてくれなかったんだろう。不思議だよ。都合が悪いことは忘れたふりなのかな。それともおじさんの言う、本に書かれていない滅亡後の世界の話なのかな。まあ、今のボクにはどっちでもいいんだ。地上があることが本に書いてなくたって、自分の頭で考えれば分かることだったってことさ」

 少年はそう言い放つとすっくと立ち上がった。

 おじさんは身体を前に倒し、目を閉じ、苦しげに唸っていた。

「かわいそうに」

 少年はおじさんを見下ろして言った。

 出て行ったはずの小さな少年が扉の隙間から部屋の中の様子をうかがっていた。

「安心してよ、あの子はまだ連れて行かないよ」

 少年はおじさんの背中に手を触れた。

 しっとりと汗ばんでいた。

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