恋心
うまく言い逃れられるはずはなかった。
少年が宮殿に行ったことがある、しかも何度も。茶色は飲み込んだ事実をすぐには受け入れられないようだった。
「宮殿に?」
確かめるように茶色は聞いた。
もう何もかも話してしまいたかった。
「山羊女の?」
茶色が念を押す。
「そうだよ。でも、ボクとおじさんが行けるのは図書館だけだ」
本当のことを言ったところで信じてもらえるのかどうか、自信はなかった。
「行けるんだな、山羊女の宮殿に」
茶色は椅子の上で身体を折り曲げ、自分の膝に顔を押し付けた。両手で頭を抱えた。目を閉じ、口を堅く閉じた。
静寂の中、動くこともままならない。かといって声を出すのも恐ろしい。
少年は喉を鳴らさないように唾を飲み込んだ。じっとしていることに耐え切れず、机の上で黒く光る謎の道具を手に取った。気がつくと内側のポケットにそれをしまいこんでいた。次に光る装置に手を伸ばす。帰りに使うことになるはずだ。
帰ることばかり考えている自分に気がついてハッとする。目の前の茶色になんと声をかけたらいいのか。声をかけたら聞かれてしまう。何か聞かれたら全て話してしまう。だから、声をかけられなかった。
「世界を知りたい」
沈黙を破ったのは茶色だった。
「山羊女は特別だ」
茶色は頭を抱え目を閉じたまま喋り続けた。
「儀式の夜は山羊女を見る。山羊女だけを。他の男たちと同じ。オレも山羊女の儀式を見る」
茶色の言うことを少年は黙って聞いていた。
「うまく言えない。どうしてだろう。山羊女は特別だ」
何を言いたいのか、何を言おうとしているのか、少年は真剣に聞いていた。
「山羊女が宮殿のテラスに出てくる前から苦しい。苦しめられる。早く見たいのに、出てきて欲しくない。誰もが見ていると思うと本当に苦しい。苦しくなる」
何がとは尋ねなかった。少年は茶色の話を全て聞こうとしていた。
「居住区の全部の男たちが儀式を見ている。それがなんだかたまらない。悲しくなることがある。オレだけが見ているんじゃないってことが」
おじさんと少年は見ていない、それを茶色には言ったところでどうにかなるとは思えなかった。本当のところ、少年は一度だけおじさんに隠れてこっそり儀式を見たことがある。
「山羊女が登場する前に気持ちがはちきれそうになる。やっと会えたと思う。儀式が終わる時にはもう会えないと思う。なんでだろう、自分でもわからない。あんな気持ちになるのはなぜなんだ」
一度だけ覗いた儀式で見た山羊女は肌を羽根のような衣装で覆っていた。居住区の男たちが言う山羊女のなめらかな肌や伸びた手足や布に隠されたあの場所があらわになる前におじさんに見つかって怒られた。それでも胸が苦しくなった。最後まで見たらどれだけ苦しいというのか。茶色はその苦しさを知っているのか。
「山羊女が出てくる前に喉がカラッカラになる」
口を開け夢中で望遠鏡を覗いていた。おじさんに望遠鏡を取り上げられたことにすぐには気がつかなかった。目の前のおじさんが見たことの無い怖い表情をしていた。
「つばを飲み込んで山羊女を待ってるんだ。目を離せないから。いつ出てくるか分からないから」
おじさんはなぜ望遠鏡を取り上げたのだろうか。なぜ、儀式を覗くことを禁じているのだろうか。
「出てきただけで吐きそうなほど苦しくなる。嬉しいのに、苦しい」
おじさんはなぜ儀式を見ないのだろうか。
「山羊女の相手に選ばれた剣士はどうして自分じゃないのか、どうして自分があそこに、山羊女の目の前に立つことができないのか。そんなことばかり考える。悔しくてたまらない。でも、目を離せない」
おじさんはどうして自分で見ないのに望遠鏡を作り居住区の男たちに渡すのだろう。男たちがそれで儀式を覗き見ることは知っているのに。
「山羊女がオレのものであって欲しい。誰のものでもあってほしくない」
茶色の気持ちが分からなかった。山羊女は誰のものでもない。
「山羊女の儀式をこんなに見たいのに、儀式には出てきて欲しくない。剣士に身体をさらして欲しくない。剣士と儀式の時を過ごして欲しくない」
茶色は何を言っているのだろうか。
「会いたい」
「誰と?」
つい、茶色に聞いていた。
「決まってるだろ」
茶色はまだ目を閉じている。
「どうして?」
茶色は何を思っているのだろう。
「どうしてって、そんなこと知らない。会いたい。ただ会いたい。理由なんて分からない」
「自分の気持ちなのに分からない?」
「分かるわけないだろ」
茶色は顔を上げ、少年をにらみつけた。
「分かるわけないだろ」
同じことをもう一度言った。
「教えろよ。どうやって行くんだ」
茶色の目は本気だった。
「それは」
「言えないんだな」
茶色は責めなかった。目がいつもの落ち着いた感じに戻っていた。
少年はその目から逃げるようにうつむいた。
「分かった」
立ち上がった茶色はまっすぐ少年のもとに近づき、両手で少年をくるむ布を首のあたりで締め上げるようにつかんだ。
「言えよ」
茶色の目が細くなった。敵を見る目だった。
何も言えなかった。いつもと違う茶色の表情を見るのが怖かった。
少年の喉元が締め上げられる。
苦しかった。恐ろしかった。もうやめて欲しかった。
布が容赦なく喉に食い込む。少年は口を開けた。苦しさのあまり舌が飛び出そうになる。
薄く開いた目で少年を見つめている茶色が何を考えているのか、少年には分からなかった。苦しさのあまり、許しを乞うことさえ出来なかった。
急に締めつける力が弱まる。少年は息を吸い込んだ。布はもう首を絞めてはいなかった。
「言えないか」
茶色は悲しげだった。
恐ろしい表情よりも今の悲しげな表情のほうが少年は辛かった。許してもらわないといけないのは自分のほうだと言いたい気持ちだった。おじさんとの約束はどうでもよかった。茶色を悲しませてしまったことが悲しくてたまらなかった。
それでも宮殿のことは言えない。どうしても言えなかった。
茶色は少年の肩に手を置いた。
「帰ろう」
穏やかな声だった。
少年は肩に置かれた手に触れ、うなずいた。
光る装置が水面を照らす。小屋の中の光に目が慣れてしまった。水面は来た時よりも深い暗さに飲み込まれているように見える。
少年と茶色は浅い水の中を並んで歩いた。二人とも無言だった。
少年は一度だけ立ち止まった。
振り返りながら、光る装置で四方の水面を照らす。
間違いない。
少年はやっと理解した。
この水面は、宮殿に向かう地下水道から見えるあの貯水池とつながっている。耳を澄ますと、微かに地下水道を流れる水音を感じる。とても遠くから、わずかに聞こえてくる。
前を行く茶色は少年を待たなかった。その差は開いていく。少年は追わなかった。茶色が乱暴に水をかきわける音が遥か彼方で流れる水の微かな音を掻き消した。
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