邂逅
何者かの気配を感じる。
おじさんは本を読む声を止め、顔を上げた。
薄暗い部屋の隅に見慣れない若者が立っていた。少年と同じぐらいの年頃、少年よりやや低い背丈。痩せている。不健康なほどではない。居住区の男たちとは違い、髪を短く刈り込んでいる。暗がりの中でもはっきりと分かるほど明るい茶色の髪だった。
おじさんは本を閉じた。
「教えてくれ」
若者はそこから動かなかった。
「何を」
おじさんも動こうとはしなかった。
「宮殿への行き方」
若者の声は落ち着いていた。
おじさんは返事をしなかった。
「アンタのことはずっと前から知ってる。アンタと一緒にいる子どものことも」
「そうか」
この若者を知っているような気がしていた。
「知ってるんだろ?」
若者の声は自信に満ちていた。
その言葉におじさんは動揺していた。考えていることを見透かされたわけではないはずだ。宮殿への道を知っているかどうか、そう聞かれたはずだ。
頭が痛み始めていた。忘れてしまった過去につながる何かを思い出そうとすると頭が痛む。この若者は何かを思い出させる。目がかすみ、顔が歪む。
かすんだ視線の向こうで、若者もまた顔を歪め歯を食いしばっているのが見える。
次の瞬間、若者が目を大きく開けたまま両手で頭を抱えた。自然に口が開いた。そこから一筋のよだれが床に向かって伸びた。
おじさんは細く詰まり息苦しい喉から、かすれた、言葉にならない、あえぎのような声を絞り出した。
その途端、悪夢から覚めた時のように痛みが消える。元から痛みなどなかったことに気がつく。息は上がっていた。胸は大きく上下していた。
低い唸り声が聞こえた。若者が大きく開けた口から息を絞り出していた。次の瞬間、飛び出しそうなほど見開かれていた若者の目が閉じられた。頭を抱えていた両手は軽く曲げた膝に添えられた。身体を前に倒し、前後に揺らしながら息を整えていた。
見上げるようにおじさんを見る目に浮かんでいるのは戸惑いに見えた。
「何が見えた?」
聞く前から答は分かっていた。
「青い、通路」
若者が途切れ途切れに答えた。片手の甲で無雑作に口を拭った。
この若者も覚えている。自分と同じように過去の記憶を持っている。
はっきりと理解していた。探していたのはこの若者だったのだ。自分が育て、文字を教え、世界を共に読み解く仲間とすべきだったのは目の前にいるこの若者だった。ずっと待ち続けていたのはこの若者だ。待てなかったのか。いや、間違えたのか。偶然なのか。必然なのか。それとも何か意図された、計画された偶然なのか。
「思い出した」
若者は疲れた顔に薄く笑いにも見える表情を浮かべていた。
「オレは知ってるんだろ?」
若者はまた顔を歪めた。
「多分」
おじさんが答えた。
「でも、思い出せない」
若者は顔をゆがめたまま笑おうとしていた。
「時間はかかる」
「いつまで?」
若者は身体を起こした。そして、ゆっくりと後ずさった。
「分からない」
おじさんは首を振った。本当に分からなかった。
「アンタもアイツも一緒だな。何も分からない」
若者の声に怒りや蔑みは含まれていなかった。淡々と何かを受け入れていた。
「そうだ。我々に分かっているのは、分かっていないということだけだ」
おじさんは頬杖をついた。この若者との対話に激しい疲れを感じだしていた。
「オレは待たない」
すっかり落ち着いた若者は部屋の出口に向かった。
おじさんは何も答えなかった。
扉の閉まる音に続いて廊下を駆けていく足音が聞こえた。
やがて、消えた。
おじさんは大きくためいきをつき、物憂げに本を開いた。ページをめくろうとして手を止める。足音が聞こえた気がした。
耳を澄ましてもなにも聞こえない。
おじさんは静かに首を振り、本の世界に戻った。
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