銃
何度絞っても水が出てくる濡れた服を二人はなんとか着込み、顔を見合わせた。
「ひどいな」
茶色は身体に張り付いた服をつまんで持ち上げながら笑った。大きく手を振ると、絞りきれなかった水が粒になって飛び散った。
肌にまとわりつく服に閉口しながらも、茶色は机の引き出しを漁り始めていた。
「見ろよ、変わった道具がある」
引き出しの中から持ち上げた道具には丸いガラスが四つ埋め込まれていた。
「望遠鏡みたいだな」
茶色は片目でひとつのガラスを覗き込んだ。
「これ、本当に望遠鏡だ。大きく見える」
居住区の男たちと同じように茶色もおじさんが作った望遠鏡で闘技大会を覗いているのだろうか。山羊女の夜伽の儀式も。
今までそんなことを考えたことは無かった。
少年は動揺を抑えながら道具を受け取り、両目で二つのレンズを覗いた。
「望遠鏡がふたつくっつけてあるのかな」
茶色は心の底から不思議そうな顔をしていた。
「そうみたい」
「なんで?」
「わからないな」
少年は首を振った。茶色の質問に答えくても知識が足りない自分が悔しかった。
おじさんに見せたらどうだろうか、少年はそう思っていた。おじさんならこの道具が何か、なんで両目で覗けるようになっているのか、その理由を教えてくれそうな気がした。
茶色は引き出しを次々と開けていく。空の引き出しが続いた後、最後に開けた引き出しには何かの道具が入っていた。
ひとつは少年にはよく見覚えのある装置だった。
茶色がその装置を手に取った。
「これは……」
細長い装置をしげしげと見つめる。
「光るんだ」
茶色の言葉を最後まで待たなかった。
「光る?」
「そう。貸して」
受け取った細長い装置を慣れた手つきで操作した。先端から眩しい一筋の光が迸り出る。真っ直ぐ伸びた光は壁に明るい点を描いた。
「光を覗いちゃダメだ」
少年は少し得意げだった。
「これで帰りは暗くない」
少年には地下は暗過ぎた。光る装置の発見は思った以上に気持ちを落ち着かせていた。
「すごいな。これはすごい」
注意されたにも関わらず光る先端を覗いてしまった茶色は目をしばたかせていた。
少年はおじさんと初めて図書館を訪れた日のことを思い出していた。鍵を使って開けた扉。それまで知らなかった地下の世界。音の壁を越え、湯気の立つ地下水道を歩いた。宮殿、図書館、図書館の棚を埋め尽くす本。
胸が苦しくなる。あの時から何もかも変わってしまった。茶色が現れて、全てが変わった。おじさんと離れて暮らせば図書館にも行けなくなってしまうだろう。
それでも、自由に暮らしたい気持ちが止まらない。もう戻れない。
少年は小さく首を振った。今は考えない、自分にそう言い聞かせた。
「こっちはなんだ?」
茶色がまた何か見つけた。手の上で重さを確かめている。
「重い」
少年は両手で慎重に受け取った。かなり重い。
堅い金属で出来ているように見える。表面は滑らかなところが多い。複雑な部分もある。瓦礫の中の鉄筋のように錆びてはいない。
細く伸びた片方の先に丸い穴が開いていた。反対側は手の大きさに合わせて作られているようだ。握ってみると凹凸がちょうど指の形に合っている。
ひんやりとした感触だった。輪になった部分に指がちょうど入る。そこにある曲がった棒に指があたる。
片手だと重い。両手で持ち直す。伸びているほうの先の丸い穴をのぞいてみた。穴の中に綺麗な線が斜めに何本も刻まれていた。
「なんだろう」
少年の声もかすれていた。唾を飲み込む。のどが乾いていた。
使い道が想像もできない。それなのに、この道具の精巧さと緻密さと滑らかさと無骨さと単純さとに心を奪われる。
けれど、両手でも長く持っているのは限界だった。
慎重に机の上に置く。重く硬い音がした。
「なに?」
茶色は答を求めていた。
「分からない」
少年は首を振った。見当もつかなかった。
おじさんがレンズを磨き望遠鏡を作り上げるための道具は知っている。それのどれとも似ていない。本の中で様々な道具を見たこともある。この道具と似たものを見た記憶は無い。
おじさんは図書館に世界の全てがあると言う。けれど、図書館の本に世界の全てが書き表されていたところで、図書館の本を全て読むことなど不可能だ。それに、知りたいことがあってもそれが書かれた本をあの膨大な本の中から見つけるのはあまりに難しい。ほとんど不可能。見つけられなければ無いのと変わりないことを少年はもうとっくに理解していた。
茶色が道具に手を伸ばし、片手で握った。一度ぶら下げるように道具の先を床に向ける。肘を曲げずに肩の高さまで静かに持ち上げた。肩から肘、その先の手と道具、道具の先端の穴とが一直線に並ぶ。手を横にゆっくりと動かす。道具の先端が少年に向けられた。茶色は片方の目を閉じ、もう片方の目で道具越しにじっと少年を見つめる。
動きが止まった。
少年は突きつけられた道具の穴から目を離せなくなっていた。額にじっとりと汗が浮かんでくる。何か言おうとして何も言えなかった。
茶色がゆっくりと道具を動かす。肘を曲げた。道具を自分の頭に近づけ、先端をこめかみに押し当てた。
少年と目があった。
茶色はにやりと笑った。
「ダメだ、重い」
そう言うと手を下ろした。
茶色の額にも、うっすらと汗が浮かんでいた。
「ここは熱い」
茶色は道具を机に置くとホッとしたようにそう言い、また椅子に腰をおろした。
「なんなんだろうな、これ」
茶色は机の上の道具をあごで示した。
「今度、宮殿の図書館で調べてみるよ」
少年はおじさんとまた図書館に行こうと考えていた。おじさんのところに戻って、また一緒に図書館に行こう、そこでこの道具のことを調べてこよう。
少年は何の気もなくそう言った。
茶色の目の色が変わった。
「宮殿?」
茶色はきつい口調で聞いてきた。
おじさんとの秘密は幾らでもある。全てを茶色に話しているわけではない。
図書館が宮殿にあるという話は茶色にはまだ言っていなかった。おじさんとの約束、絶対に言わない秘密のはずだった。
茶色が食い入るような目で少年を見つめていた。
「宮殿?」
茶色がもう一度、少年に聞いた。
少年は失敗に気がついた。
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