小屋

 鍵はかかっていなかった。

 照明が自動的に点いた。二人は眩しさに目を瞬かせた。

 小屋の四方に開いた窓からは、周囲に広がる仄暗い水面が見える。こうして明かりに照らされて見ても水面はどこまでも広がっているように見える。

 小屋の中には上に何も乗っていない机と椅子がふたつずつ、灰色の戸棚も二本ある。殺風景な場所だった。

「ここはなんだ?」

 茶色が少年に聞くともなく発した言葉はかすれていた。その言葉の思いがけない大きさに少年は驚いていた。音を立ててはいけないような、そんな気配を感じていた。茶色も同じ気配を感じているのか、それ以上はしゃべらなかった。

 少年も茶色と同じことを考えていた。こんな場所に、おじさんと一緒に来たことはない。

 二人とも椅子に腰をおろした。水に濡れた尻が気持ち悪い。思わずくしゃみが出た。それにつられたのか、茶色もくしゃみをした。

 少し、緊張がほぐれた。

「脱ごう」

 茶色は勢いよく立ち上がると迷わず服を脱ぎ捨てた。床に落ちた服を拾い、両手で強く絞る。大量の水が床に滴り落ちた。

 少年はポケットの鍵を確認した。それから茶色と同じように勢いよく立ち上がり全部脱いだ。少年の服もすっかり濡れていた。

 頭を振ると髪の毛から水滴が飛び散る。濡れた身体からはゆらゆらと湯気が立っている。肌を覆う柔らかい毛が小屋の照明の青白い光を受けて白く輝いていた。

 戸棚を開けた茶色は中に布を見つけた。ひとつを少年に手渡す。もうひとつで自分の身体の水気を拭く。少年も真似をした。冷えていたのだろうか、布で身体をこすると気持ちよかった。

 布を身体に巻きつけた二人はそのまましばらく気が抜けたように椅子に座っていた。

 先に口を開いたのは少年だった。

「笛」

 少年は茶色の首にぶら下がった笛を指差した。

「ああ」

 茶色は笛に触れた。

「いつもぶら下げてる」

 そう言ってから笛を吹こうとする。少年が止めた。この場所に笛の音は合わない気がした。

 肩をすくめた茶色は手を布の中にまた引っ込めた。

「さっきは死ぬかと思った」

 少年は自分の声が少し震えていることに気がついていた。寒いからではなかった。思い出していた。

「オレも。オレが先に落ちたんだ、水の中」

 茶色は鼻をすすった。

「気がついたら水の中だった。手を振り回したら何かつかんだ。よかった。死ぬかと思った。本当に」

「それからボクのこと助けてくれたの?」

「そう。床があったから立てた。そこから手を伸ばした。届いてよかった」

 茶色の声も震えているように少年には聞こえた。

「寒い?」

 茶色に聞いた。

「いや、そうじゃなくて」

 茶色の声ははっきりと震えていた。

「オレより先に死なないでくれってさ」

 茶色が布に顔を埋めた。

 少年には信じられなかった。茶色が泣いているはずはなかった。

「なあ」

 茶色は顔を上げなかった。

「なに?」

 少年が聞いた。

「死んだらどうなるのかなあ」

「どうって……」

 答えられなかった。そんなことは考えたことがない。おじさんから聞いたこともない。本にも書いていない。

「あいつ覚えてるか」

 茶色はまだ顔を上げなかった。

「あいつって?」

「配給所で殴って、学校でひとりだったあの痩せた」

「ああ……」

 自分を殴ったあの痩せたガキの姿を思い返した。学校では誰とも一緒に過ごさず、少年や茶色が文字を教える部屋にも顔を出さず、ゆらゆらと揺れながらひとりで建物の中をふらついていた。

「あいつ、死んだよ」

「エッ?」

「朝起きてこないから見に行ったら死んでた。皆で廃棄口に捨てたよ」

 少年は声を出せなかった。なんと言っていいか分からなかった。

「ずっと病気だったみたいだ。たまにおかしなこと言ってた。何か聞こえるとか、ずっと見られてるとか」

 茶色は淡々と続けた。

「死ぬのかなって思ってたよ。でも、思ったより早かった」

 茶色は背中を丸めた。

「なあ、滅亡した地上の世界には医者ってのがいたんだろ。前に言ってたよな」

「ああ……」

 茶色は少年の話したことは細かいことまで何でも覚えている。それに少年はいつも驚かされる。

「医者ってのがいたら死ななかったのかな」

「どうかな……、わかんない」

 少年には本当に分からなかった。多分おじさんにも分からないだろうと、なぜか少年はそう思った。

「そうか……」

 茶色の声は物憂げだった。

「皆すぐに死ぬんだ。簡単に死ぬ。それで、すぐに忘れる」

 茶色が赤くなった目だけを布から出した。

「なにを?」

 茶色が何を言おうとしているのか本当に分からなかった。

 おじさんの話だけでなく茶色の話も分からないことがあることに少年は嫌気がさすことがある。分からない自分が悔しいだけではなかった。わからない話をするおじさんや茶色が少しだけ苛立たしかった。

「なにをって、なにもかもだよ。死んだ奴のことなんてすぐに忘れるんだ、みんな」

 顔を上げた茶色は少年をじっと見つめた。

「オレのことも忘れるか?」

 茶色は少年にそう聞いた。

「忘れないよ。なに言ってんだよ。死なないよ」

 茶色が何を聞こうとしているのか全く分からない自分がもどかしかった。

「どうやったら忘れない?」

「どうって……」

 茶色の質問に答えたかった。何を話したらいいのか教えて欲しかった。

「死んだ奴のことを忘れないためにはどうしたらいい?」

 茶色は真剣だった。

 本で読んだことを思い出していた。一度息を大きく吸い込んだ。うまい答かどうかは分からない。何度読んでも意味が分からなかった。けれど、もしかしたらそういうことなのかもしれない。

 少年は静かに話し始めた。

「滅亡した世界ではヒトは名前を持っていたんだ」

 茶色に伝わるよう言葉を選びながら話した。

「名前?」

「そう、名前。ヒトが永遠にヒトの記憶に残るためには名前が要るんだ」

「どういうこと?」

「名前っていうのは伝えるためのものだ」

「何を?」

「モノやヒトや色んなことを」

「難しいな。難しい」

 茶色が首をひねった。

 少年は頭をかいた。もっと分かり易い言葉を見つけたかった。

「名前っていうのは……、そう、誰かを忘れないためのものなんだ」

「分からない。難しい」

「ごめん、ボクもよく分からない。けど、名前があると忘れないでいられるんだ。そういうもんなんだ」

「その名前っていうのはなんなんだ」

「んー、だから、名前だよ」

「わかんないな」

「ごめん、ボクもわかんない。でも、ボクらは服のこと服って言うよね、それが服の名前」

「全然わかんない」

「パンはパンだろ、パンがパンの名前」

「なに言ってんだよ、わかんないよ」

「だから、笛は笛だろ、笛が笛の名前なんだよ」

「全然わかんないよ」

 茶色は笑い出した。

 少年も釣られて笑った。

 ひとしきり笑ったふたりは、笑い過ぎて目から溢れた涙を布で拭いた。

「じゃあさ、オレの名前はなんだよ」

 茶色が改めて少年に聞いた。

「ボクらには名前は無いよ。この世界では誰も名前を持ってない」

「地上では名前があったのに?」

 茶色は食い下がった。

「名前は誰かにつけられるものなんだ」

「どういうこと? この世界には名前をつける誰かがいないってこと?」

「そうかなあ。そうなのかもしれない」

 少年も分からなくなっていた。

「やっぱりよくわかんないな」

 茶色はしばらく考え込んだ。

「どうしたの?」

 少年が聞いた。

「あいつにも名前があったら忘れないのかな、と思ってさ」

「あいつって?」

「ほら、もう忘れただろ」

 茶色は肩をすくめた。

「ああ……」

 痩せたガキのことだと気がついて少年は口をつぐんだ。

 確かに、もう忘れてかけている。

 茶色は布を巻いたまま立ち上がった。

「忘れたほうがいいのかも知れない」

 茶色はとても小さな声で言った。

 少年は聞こえなかったふりをした。

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