しばらくは外の明かりが届いていた。歩くうちに光は弱くなっていく。何度か角を曲がり長い梯子を降りた。外の光はもうほとんど届かない。

 茶色が言っていた通り、通路のあちこちがうっすらと発光している。今まで気がつかなかったのが不思議なほど、ここの通路は明かりに満ちていた。が、それだけの明かりではやはり心もとない。前を歩く茶色の影を確認するのがやっとだ。それなのに、茶色はまるで全て見えているかのように歩いていく。

 光る装置さえあればと思っていた。装置はまだおじさんの部屋から持ち出していない。いつかはと思っていた。おじさんのところから出ていくのであれば、その前に持ち出しておきたいものがいくつもあった。

「見ろよ」

 立ち止まった茶色が先を示す。暗闇にしか見えなかった。

 茶色は手すりにつかまって待っていた。ようやく追いついた少年も両手で手すりをつかむ。

 ぼんやりとではあったが、手すりのすぐ向こうに広がる空間が見えてきた。低い天井に覆われている。床が何か違う。よく見ると床ではなく、水面だった。見渡す限りの空間が恐ろしいほどの量の水で満たされていた。

 匂いはしなかった。

「ここは……」

 少年が言葉を続けるかどうか迷っている間に、茶色は手すりを乗り越え、その先の僅かな空間に立った。

 暗い水面はゆるやかに波打っている。風は感じなかった。

 茶色がそっと片足のつま先で水面に触れた。小さく波が立つ。ゆっくりと足を水面に入れていく。

 次の瞬間、手すりから手を離した茶色は水に向けて飛んだ。

 驚く少年の目の前で、膝までの高さの水面に立った茶色が大笑いしていた。その笑い声が低い天井に跳ね返って響き渡る。茶色はそのまま歩き出し、遠くに向かおうとした。

 少年も手すりを乗り越え、こわごわと水に足を入れる。大丈夫だ、立てる。茶色のあとを追う。

 茶色は少年から逃げるように足を速めた。

 地面とは勝手の違う水の感触に戸惑いながらも少年は全力で茶色を追った。

 二人は水を跳ね飛ばし息を切らしながら走る。水面はどこまでも続いている。

 少年の目の前を走る茶色の姿が派手な水しぶきとともに消えた。

 少年の足があったはずの水面の下の床を踏まずに沈むこんでいく。床が消えてなくなっていた。身体が前のめりに倒れていく。突き出した両手が何の抵抗も無く虚しく水面に突き刺さる。

 水中に飲み込まれるまでにかかった時間は瞬きするほどの間だった。

 両手を振り回す。何かをつかもうとしていた。両足をばたつかせる。何かを蹴ろうとしていた。目を開けた。暗い水の中で何も見えない。下なのか上なのか、どこかに光を感じた。身をよじる。鼻からどっと水が入ってきた。苦しくなって咳をする。鼻と口が水でふさがれる。のどまで水で満たされる。上を向いているのか下を向いているのか。光を見失った。滅茶苦茶に手足を動かす。一瞬、手が水面の上に出た気がした。その手をさらに伸ばそうとした。身体が一気に沈みこんだ。

 手をつかまれた。そのまま強く引っ張られた。

 頭が水の上に出たのがわかった。口から水を吐き出す。すぐには息を吸い込めなかった。酸っぱいものが込み上げてくる。必死で吐き出す。吐いて吐いて、ようやく息を吸い込む。顔が水面についてまた水を飲み込んでしまった。

 ずぶ濡れの茶色が少年の手を引っ張っていた。茶色のもう片方の手は水面を這う長い綱をつかんでいた。少年は茶色の力も借りながら、なんとか床のあるところに這い上がった。

 座り込んだ少年の隣で茶色も力が抜けたように座った。座ってしまうと水に胸まで浸かった。二人ともしばらく声が出なかった。息が弾んでいた。

「ありがとう」

 やっと声が出た。

「いつかのお返し」

 茶色が苦しげに息を吐き出した。

 音の壁のことだ。あの時、猛烈な音にやられて半ば意識を失った茶色を少年は死に物狂いで運んだ。茶色があの時のことを口にするのは初めてのことだ。

 二人とも言葉が続かなかった。とにかく苦しかった。

 戻るのかと聞こうとしたのと茶色が先に見える光を指差すのが同時だった。

「あそこまで行けそう」

 茶色はまだ先に行こうとしている。

 水の中を思い出していた。騒がしさのあとは不思議なほど静かだったこと。息を吐き出す音だけがはっきりと聞こえたこと。恐怖はそれほど感じなかった。身体が沈みこんでいった時に感じたのは諦めに似た終わりの感覚だった。

 改めてあの感覚を思い出すと身体の芯から冷たさがこみ上げてくる。少年は少し震えた。

 茶色は立ち上がり、先に見える光に向かって歩き始めた。

「大丈夫、ここまで来れる」

 茶色の声が水面と低い天井で跳ね返る。

「その紐につかまって。そこは大丈夫」

 信じていた。その声に支えられて歩く。

 水の中から伸びた階段の途中で茶色が待っていた。

 階段の先には小屋がある。広がる水の中で、そこだけが乾いた場所になっていた。

 ずぶぬれの二人は小屋の扉の前に立った。二人が立つのがやっとの小さな空間だった。

 茶色が扉に手をかけた。

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