飛ぶ男
身体の後ろに長くたなびく髪は尖塔からの光を浴びて金色に輝いていた。
屋根から屋根へと飛び移る時、言葉では言い尽くせぬ感覚に襲われる。何も足場の無い空間を飛んでいる。落ちたら確実に死ぬ。死は空を飛んでいる瞬間の陰で確実に待ち構えている。
それを飛び越える。空間だけではなく、死に至る瞬間を、楽々と飛び越えていく。
ガキどもは死を恐れぬ茶色を手放しで賞賛した。
自分たちだって生きていることにも死ぬことにもためらいも迷いも無いのにと言って茶色は笑った。
ガキどもはよく死んだ。
この世界では誰もが気軽に死んでいく。見捨てられ、徒党を組むしかなかったガキどもはあっけなく死んでしまう。ケンカだけでなく、ある日突然、理由も分からずにひとりで死んでいく。
命を賭けて空を飛ぶ茶色はガキどもの憧れだった。
どこにでも現れ仲間を守るその姿はガキどもの誇りだった。
わかっていた。自分がどうあるべきか。
空は支配した。茶色の飛翔を妨げるものは誰もいない。屋根と屋根とを隔てる空間は茶色のものだ。
地下も支配した。そう思っていた。空を飛び地下を走る自分に酔っていた。少年が現れるまでは。
居住区には分からないことが沢山ある。男たちもガキどももそんなことには頓着しない。分からないことは分からないこと。それ以上でもそれ以下でもない。
茶色は違った。
随分前から気がついていた。
歯がゆい。不安だ。認めたくない。
時々、分かりそうになってしまう。いや、分かっていたことを思い出しそうになる。身体のどこかで思い出されるのを待っている何かを感じることがある。
配給所に現れ男たちに望遠鏡を渡す男とそれについて歩く少年、彼らのことは前から気になっていた。男は何かを探している。何かを探すという行為そのものに心を揺り動かされる。
探すってなんだ。
あとをつけたのは一度や二度ではなかった。姿を隠して誰かを追うのは苦もないことだ。けれど、すぐに見失ってしまう。彼らは茶色の理解を超えていた。
配給所で殴られ意識を失った臆病者が追い続けていた少年だと知った時の動揺。学校で見た本の中の男たちと同じ髪形。他の誰とも違う。
彼らは何者なのか。
自分と何が違うのか。
知りたかった。
少年と再び出会い、少年を通じて文字を知り本を読み知識を得た。まるで記憶の底からほとばしり出るかのように何もかもがつながっていく。何もかも知っていた気がする。面白かった。ただただ、面白かった。
世界は広がった。屋根の上とも地下の通路とも違う、文字によってつづられた言葉によって描かれる世界。のめりこんだ。もう戻れなかった。怖いものなど何もない。先に進むことしか考えられなかった。
音の壁に阻まれた。思いがけず、あっさりと。少年が垣間見せてくれたまったく別の世界から荒々しいやり方で拒絶された。少年がたどりついた地下の世界に足を踏み入れることすらできなかった。
負けた気がした。
そしてまた屋根の上にひとり。戻ってきた。
ここに立つことができるのはこの世界では自分ひとりだということを茶色は自覚していた。
足下に広がる世界を見下ろす。
音の壁に阻まれたことで失っていた何かが少しずつ取り戻されていく。
叫びたい衝動に駆られていた。
胸を張り大きく息を吸い込む。
その視線に、山羊女の宮殿から聳え立つ尖塔が飛び込んでくる。尖塔は立ち並ぶ建物の屋根より遥か上、世界を覆う丸天井まで届いている。
いつか、あそこに立つ。無理な望みだとは思えなかった。
音の壁に阻まれたとしても、死んだわけではない。まだ生きている。屋根を飛び、地下を駆けることもできる。
宮殿に到達し山羊女すら支配するのだ。
茶色の瞳には力が戻っていた。
負けたわけじゃない。いや、負けたとしても、次は勝つ。
茶色は首に下げた笛を強く握り締めた。
何故だか無性に少年に会いたかった。
ただ、会いたかった。
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