宮殿

 浮いているような感覚が失われ、身体の重さをずしりと感じる。まるで夢から覚めたようだった。

「ここは宮殿だ」

「宮殿?」

「そうだ、ここは山羊女の宮殿だ」

 そう言われてもピンと来なかった。

 通路の様子がまた変わった。幅は狭く、けれど、天井は高くなっている。光の感じも違うことに気づいた。ここでは壁全体は光っていない。天井と壁の隅がにまっすぐ二本、細く鋭い光が続いていた。

「胸元のボタンを押せ。姿を消すんだ」

 おじさんに言われるまま、少年は胸元のボタンを押した。

 同じタイミングでおじさんもボタンを押したのだろう、おじさんの姿が少年の視界から消えた。

 その向こう、横につながる通路との角に丸くて小さい黒い塊が宙に浮かんでいた。

「あれは?」

「静かに。しばらく動くな」

 黒い塊の表面で光の点がせわしなく点滅している。黒い塊はゆっくりと通路を横切ろうとしていた。

 少年はじっとしたままその黒い塊を見つめていた。

 黒い塊が動きを止めた。表面の点滅は続いている。それとは別に表面に赤い丸が浮かんだ。赤い丸はこちらを見つめるように光ってから何度か左右にゆっくりと動いた。

 少年は息も止めていた。が、そろそろ苦しくなってきていた。小さく息を吐く。吸い込む。慌ててまた息を止める。

 赤い丸がスーッと消えてなくなった。少しすると、黒い塊はまた動き始め、ゆっくりと通路を横切ってから、角の向こうに消えていった。

 黒い塊が消えてからもおじさんから声はかからなかった。少年は身動きもせず、おじさんの声を待った。

 どれぐらい待っただろう。おじさんが目の前に現れた。

「どこにいる?」

 おじさんは少年を見つけていないようだった。視線が少年を捕らえていなかった。

 少年は自分がボタンの効果で消えていることを思い出した。

 慌てて胸元のボタンを押す。

 おじさんと目が合った。

「もう大丈夫だ」

 ホッとしているのはおじさんのほうだったのかもしれない。

「先に進もう。図書館はもうすぐだ」

 複雑に曲がりくねった道を、おじさんは迷わずに進んだ。

 おじさんが宮殿と言う場所に来てから初めての階段が見えてきた。おじさんが近づくと階段が動き始めた。おじさんは動く階段に乗った。階段の動く速度に合わせて手すりも動いている。少年も恐る恐る続いた。

 階段の動き続けるその先は今までとは違う明るさに包まれている。空間が大きく開けているのが見えた。その明るく広い空間に向けて階段は動いていく。そのまままっすぐ、広い空間を貫くように続いている。

 ゆっくりと目の前に現れた光景に、少年は目を奪われていた。

 明るい光は、全てが輝くガラスで覆われた一方の壁から降り注いでいた。どれぐらいの高さなのだろう、天井を見上げると後ろに倒れそうになってしまう。階段は宙に浮かぶように続いている。さっき通り過ぎた場所がもう遥か下になっていた。

 動く階段から降りると、その先に広がるガラス張りの壁の大きさがよくわかる。上から下まで境い目の無いガラスの壁の向こう、遥か彼方には灰色の小さな建物がびっしりと立ち並んでいた。

「あれは……」

「居住区だ」

 少年は窓ガラスに近づこうとした。が、すぐに足がすくんでそれ以上は近づけなくなった。近づけば近づくほど足元が見えてくる。恐ろしいほどの高さだった。

 居住区の建物は不思議な秩序を持って立ち並んでいる。その手前には、細い、それでいてくっきりとした線になっている赤い堀が見える。堀の内側、窓から見える足元の方向は、緑の混じる衛兵達の区画だ。広い訓練場の端では小さな人影が並んで動いていた。整然とした動きは赤い堀に沿った崖の上から見ているのと同じのはずだ。けれど、崖の上から見るより小さな人影は、なんだか本当に誰かの姿なのか、それすら疑わしく思えてしまうほどだ。

 もう一度、顔を上げて居住区に目を向ける。密集する建物の向こう、居住区の終わり、世界の果てが見える。そこにあるはずの深い溝は建物の影に隠れて見えない。溝の向こうの壁はそのまま世界を覆う丸天井につながっている。ここから見ても、世界が丸天井に覆われているのはよくわかる。視線をそのまま上に向けてみる。ここからでは、世界の中心、山羊女の宮殿の尖塔は見えない。

 少年は自分が今どこにいるか、まだよく理解できなかった。山羊女の宮殿のどこかなのだろうか。尖塔が見えないほど近くにいるということなのだろうか。

 いつか、ここにひとりで来よう。

 少年は心に決めていた。

「こっちだ」

 おじさんが手招きしていた。

 おじさんはガラスの壁の反対、大きな白い壁の前にいる。

 おじさんはフードを外していた。少年もフードを外した。

 フードをかぶっていなくても、ここは静かだった。

 おじさんの前の壁が扉になっているのが、近づくにつれて見えてきた。

 おじさんは目の高さにある装置に向かって何かをつぶやいた。

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