乗り物

 身体が軽くなるような、浮くような、立ったまま傾いているような、今までに味わったことのない感覚だった。落ち着いたかと思った次には予測もできない方向に身体が動かされる。

 まず寒気を感じた。それから胸の中が掻き回されるような、モヤモヤとした気分にとらわれた。何度もあくびが出た。喉の奥から熱いものがこみあげていた。

 油断していると吐いてしまいそうだ。

「どうなってるの?」

 少年はうっすらと涙をにじませていた。

「宮殿に向かっている」

「どういうこと?」

 相変わらずおじさんの言っていることがさっぱりわからない。

「この部屋が我々を運んでいる」

 おじさんは素っ気なかった。

 少年はこみ上げてくるものを必死で押さえこもうとしていた。おじさんの言っていることはどうしてもわからなかった。

「地上の世界には乗り物というものがあった。この部屋はその乗り物のようなものだ。決められた軌道を行ったり来たりができるようになっている。我々は今、この乗り物に乗って宮殿に運ばれている」

「宮殿って?」

 震える声で聞いた。答は聞かなくても分かっていた。

「そうだ、山羊女の宮殿だ。とは言っても宮殿のテラスではない。我々は宮殿の図書館に向かっている」

 今日の行き先を思い出していた。図書館がどんな場所でどこにあるのか、事前にはまったく想像もしていなかった。

 今日は、今まで考えてもいなかったことばかりに出会う。

 目が回りそうなのは気持ちの問題だけではなさそうだった。

「居住区から見る宮殿は小さく見えるが、実際はかなり大きい。とはいえ、私も図書館以外の場所に行く方法はわからない。私が知っているのは、覚えているのは、いや、思い出せるのは、図書館に行く道順だけだ。他は、そうだな、うっすら何かを思い出しそうなと時はある。が、それだけだ。思い出しはしない。そもそも覚えていないのかもしれない。いや、分からない。分からなくなる」

 胸のむかむかはますますひどくなっていた。おじさんが平気そうに見えるのが恨めしかった。手すりを掴む手が汗ばんでいた。額の汗は冷え始めていた。足からは力が抜ける。その場にへたり込んでしまいそうだ。

「宮殿まではもう少しかかる。その前に、少しだけ腹ごしらえしておこう」

 おじさんは壁の一部に撫でるように触れた。壁の色が変わり、淡い光の複雑な模様が浮かんでくる。目を凝らしてよく見ると、模様に思えたのは光る小さな文字だった。おじさんが光る文字の上で両手の指を忙しく動かすと、手すりの少し下から平らな板がゆっくりせり出してきた。

 同時に、板の上、壁の一部が徐々に四角く黒くなっていく。黒くなったのではなく透明になっていた。透明になった壁の向こうが赤く光った。赤い光に何かが照らされていた。

 おじさんはまだ指を動かし続けている。今度はまた別の壁が開き、せり出してきた。

 コップが乗っている。

 今まで嗅いだことのない、美味しそうないい匂いが漂ってきた。

 おじさんはコップを少年の目の前のテーブルに置いた。

「暖かい飲み物だ」

 少年はコップを覗き込んだ。黒い液体が注がれている。美味しそうな匂いの元はこの液体なのだろうか。

「熱いぞ、気をつけろ」

 少年は胸のむかむかを忘れていた。それぐらい、この液体の甘い香りには夢中になってしまうような何かがあった。

 おじさんは自分の分のコップも取り出し、ゆっくりと飲み物を口に含んだ。

 おじさんの真似をして恐るおそるコップに口を付けてみる。確かにカップそのものが熱い。お湯を沸かして飲む時でもこんなに熱くは感じない。匂いは、香りは、それでもどうしようもないぐらい美味しそうで、早く飲みたくてたまらなくなる。

 熱さを我慢しながら少しだけすすってみた。

 甘く濃厚な香りがそのまま飛び込んできた。

 気がつくと夢中で飲み干していた。胸のむかむかは消え、気持ちが落ち着いた。

「いくらでも飲めるぞ」

 少年はおじさんが再び満たしてくれた飲み物を見て思わず笑い出しそうになった。

 もっと飲めるんだ。

 二杯目はゆっくりと、味わいながら飲んだ。

 こんなに美味しい飲み物は今まで飲んだことがない、少年は素直に感動していた。

 夢中で二杯目を飲んでいると、今度は、香ばしい、食欲をそそる匂いがしてきた。

 透明な壁が開いていた。匂いはそこから漂ってくる。透明な壁の向こうで赤く照らされていた皿がゆっくりと出てきた。

 おじさんは皿ごと取り出し、テーブルの上に置いた。見たことの無い、きらきら光るものが皿に乗っている。

「これも熱いぞ。気をつけて食べろ」

 おじさんがきらきらの包みを開けると、中から香ばしい匂いとともに丸いパンが出てきた。パンは上下に別れ、間には茶色い何かが挟まれている。配給所でもらえる肉と似ている。が、まったく違うもののようにも見える。

 おじさんの真似をして両手で持ったパンを大きな口を開けて頬張った。口の中はあの香ばしい香りで満たされている。一度噛むと、汁気とともに旨みが溢れ出してきた。もう一度噛むとさらに旨みが増してくる。

 少年は熱さも気にせず一気に食べきった。

「もうひとつ食べるか」と、おじさんが聞いた。

 少年は何も言わずにうなずいた。

 二個目も、たまらないほど旨かった。

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