赤い堀

 目もくらむ高さの崖、その下に横たわる血のように赤い水を湛えた堀、堀の向こう、高い柵の向こうに広がる衛兵たちの居住区、世界の中心にそびえたつ山羊女の宮殿。

 崖の上で何も考えずに衛兵たちの区画を眺めるのが好きだった。

 崖は深く垂直に落ちていく。ギリギリまで行ったことがある。足がすくんだ。恐る恐る崖の下を覗き込んだ。遥か下の堀までの途中、ところどころに穴が開いている。穴の幾つかから僅かな水が絶えず流れ落ちていた。落ちた水が赤い堀の水面で立てる音はまったく聞こえない。それぐらい、崖は高かった。

 衛兵たちの区画は堀のすぐそばに立つ高い柵に囲まれている。高い柵とは言っても崖の上から見ると遥か下になる。足元に転がる瓦礫を思い切って投げてみたら届いてしまうのだろうか。いつもそう思う。投げてみたい衝動にうずうずさせられる。

 衛兵たちの区画は少年のいる居住区とはまったく違って見えた。

 時折、整然と行進する衛兵たちが見える。衛兵たちは何も言わずにただ黙々と歩き続けていた。少年もそれを無言で見つめる。一人二人の衛兵が早足で歩いている姿を見かけることもある。何をしているのかは分からない。おじさんに聞いてみたい気もするが、しょっちゅう寄り道していることを知られると怒られてしまいそうで言い出せなかった。

 衛兵たちの区画には樹木が生えている。おじさんは、衛兵たちの区画の樹木は本物ではないと言っていた。地上にあった本物の樹木は、とっくの昔に枯れ果ててしまったと、おじさんは言う。それでも、崖から見下ろす衛兵たちの区画の樹木の緑色はとても心地よく思える。樹木の下に並んだ衛兵たちの宿舎の明るい茶色の壁と落ち着いた朱色の屋根は、居住区の崩れかけの建物とは全然違う。居住区は建物に限らず何もかもが朽ち果てかけている。何もかもが埃っぽく乾いた灰色で覆われている。居住区の男たちの着ている服、配給所から持ってくる服も、新品の時から生気の無い灰色だ。コンベアを流れるパンも肉の入った袋も、薄い色彩の、ほとんど灰色と言ってもいい色だ。

 居住区で灰色以外の色、ひときわ際立つ色がある。闘いの最中に流される鮮血の赤だ。血の赤は男たちを駆り立てる。鮮やかであればあるほど、男たちの叫びが高まる。

 少年はよく知っていた。地面を染めた血の赤はあっという間に黒くなり、茶色になり、また灰色に覆われていく。どんなに鮮明な血の赤であっても、永くは続かない。血で覆われたはずの地面はすぐに元に戻る。何事もなかったかのように。

 居住区と衛兵の区画を隔てる崖の下に淀んだ堀の赤は変わらない。血よりもさらに鮮明な赤色は、いつ見てもまったく変わることが無い。見続けていると頭がクラクラしてそのまま高い崖の横をゆっくりと落ちて音も無く赤い堀に吸い込まれてしまいそうな、そんな気がしてくる。だから、少年はなるべく崖の下を覗かないようにしていた。一回か二回、三回ぐらい。目を回しながら崖の下の赤い堀を覗き込んだあと、少年はまた衛兵たちを見る。衛兵たちの揃った動きは見ていて楽しい。自然と心が弾む。

 おじさんからは衛兵たちに見つかるなと言われていた。少年には彼方で動きを揃えながら行進する衛兵たちが居住区を見上げているようには見えなかった。それでも、崖のふちから大きく顔を出すことはしなかった。衛兵に見つかるとどうなるのかは分からなかったが、なんだか怖かった。

 衛兵の任務は山羊女の宮殿を守ることだと、おじさんは教えてくれた。衛兵にはもうひとつ大きな義務があった。山羊女の夜伽の相手を選ぶための闘技大会への参加だ。闘技大会では剣や槍を使い命をかけて戦う。大会は勝者が最後の一人になるまで延々と続く。敗者のほとんどは闘技大会で追った怪我が癒えたらまた闘技大会に出場する。運の悪いものは大きな怪我を負って衛兵の任を解かれる。もっと運の悪いものは闘いの場で命を失う。

 衛兵達の区画のその向こうにそびえ立つ山羊女の宮殿の一番下の階層に闘技大会の会場となる闘技場がある。居住区の男たちは延々と続く期間中ずっと、望遠鏡を使って闘技大会を見続ける。闘技大会が終わってしばらくは望遠鏡は使われない。居住区の男たちは部屋の中に望遠鏡を放り出してしまい、どこにやったかも忘れてしまう。やがて、ある夜、予告も無く山羊女の夜伽の儀式が始まる。男たちは慌てて望遠鏡を捜し、儀式を見つめる。夜伽の儀式の夜、居住区の建物の宮殿に向いた窓からは望遠鏡が突き出される。宮殿のテラスで繰り広げられる遠過ぎて何も音の聞こえない夜伽の儀式を居住区の男たちは言葉も無く見続ける。

 薄く暮れた夜の世界では堀の赤い色はもう見えない。滑らかな水面が宮殿の尖塔の灯りを跳ね返す。

 少年は夜の居住区を歩いたことは無い。日中よりもっと危ないとおじさんは言う。部屋の中で、おじさんがぶつぶつと本を読むのを聞いて過ごす。眠くなったら寝る。

 そんな生活を繰り返しているはずなのに、少年は、なぜか赤い堀の水面に映った尖塔の灯りを見たことがあるような気がしてならない。日中こうして赤い堀を見下ろしていると、世界を覆う丸天井が次第に暗くなり、山羊女の宮殿から丸天井の一番高いところまでまっすぐ伸びている尖塔の半ばから一直線に注がれるあの鋭い光が水面に捕らえられそこからまた鋭く崖を駆け上がってくるような、そんな生々しい光と闇とが目の前で再現されるかのような、そんな気がしてならない。

 どれぐらい堀とその先の衛兵たちの区画を眺めていたのだろう。そろそろ帰ろうと、地面に置いていた鞄を持ち上げ、しっかりと肩にかけた。

 どこかで瓦礫が崩れる音がした。

 少年があたりを見渡すと、少し先のほう、小さな瓦礫が堀に向かって投げ飛ばされているのが見えた。瓦礫はそのままゆっくりと崖に沿って落ちていく。少年は思わずその先を目で追った。あっという間に赤い堀に到達した瓦礫は音も立てずに水面に吸い込まれていった。ほどなく、ごく薄く、丸い波紋が広がっていくのが見えた。

 少年はもう一度あたりを見渡した。さっきの瓦礫は誰かが投げたには違いないが、どこにも人影は見あたらなかった。

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