第6話
望華さんは、あきらめたような何かを決意したような顔で僕を見て言った。
「店長はこの上のビルの三階にいます。お会いになりますか?」
僕は首を横に振った。会っても仕方がないだろう。
それより、望華さんはいつも店長を父と呼んでいたのに、今店長と呼んだのが少し引っかかった。
望華さんは続けて言った。
「一応確認しておきます、この店の正体にはもうお気づきですね?」
僕は、北見の教えてくれたとおりのことを話した。
「ええ、人間の五感を制御する装置、言うなればゴーグルのいらない、味覚や嗅覚にも働くVRですね」
望華さんはうなずき、僕は確認を続けた。
「映像や音響を使うだけでなく、舌や鼻の感覚神経の位置を正確に測定し、それらに電気的に働きかけて精密な疑似体験を味あわさせる……」
「そうです」
「それで、いきなり装置にかけられても疑似体験は不完全になるので、入り口の前の階段のところから徐々に装置の効果を強めていた、と」
「そのとおりです。店内と階段にはそこらじゅうに装置が散りばめられ、このプラネタリウム投影機も実際にはその装置の数を増やすためのプラットフォームでした」
もはや驚くにもあたらない。
「先日カナダで、同様の装置を用いた「コーヒー専門店」が摘発されたのはご存知ですか?」
それが北見の話した「事件」だった。装置の作動原理は北見の大学の研究と関わりがあったのだ。
摘発された店は、貴重な本物のコーヒーだと言って大金をせしめるために装置を使っていたのだった。
「その店は、昔ながらの値段で細々と開いていたこことは大分違ったようですね」
「この店はあくまでも、皆さんに本物のコーヒーを「味わって」いただくためのものでしたから」
それを聞いて、少しは安心することができた。
そして僕は、このタイミングで閉店となった理由をはっきりさせようとした。
「それで、やはり休業前日のあのときのことが……」
そう言うと、望華さんは少しうつむいた。話すのが辛そうだったが、しっかりとした口調で話し始めた。
「ええ……、装置の効果にも限界があって、徐々に五感を制御して催眠のような状態にして、お客様の記憶を呼び覚ますことでコーヒーの味や喫茶店の雰囲気を再現するだけで精一杯でした」
あのコーヒーは、まさに僕の理想そのものだったのだ。
「それで……、あのかたは青山さんだけを目指して一気に駆け下りてきたようでしたから、コーヒーや喫茶店のことを考えながらゆっくり降りてくるのと違って装置の効果に引き込まれることがありませんでした。そのせいで疑似体験が不完全になってしまい、奇妙な感覚にショックを受けてしまったんだと思います。カナダの店が摘発されたのも同じような事故が原因でしたし、やはりこのようなことがあっては……」
北見も、らいむは急に装置の影響下に飛び込んでしまったせいで相当おかしな風景を見てしまったんだろうと言っていた。
望華さんはますます言いづらそうにして付け加えた。
「それに、あのかたは……元々コーヒーが、そんなにお好きでは、ないようでしたから」
装置の原理を考えると、らいむに味の良さが分からなかったのはそのせいに違いなかった。
そう思って改めて考えると、プラネタリウム・カフェが閉店しなくてはならなくなったのは僕のせいだということになる。
らいむがこの店を知りさえしなければ、らいむがいきなりこの店に飛び込むこともなかったはずだ。僕がここを、本当にコーヒーが好きな人のための場所として誰にも秘密にしておけば、ここはずっとコーヒー好きが夢を見られる場所であり続けただろうに。
「僕が……あいつを連れて来たりしたから……」
僕がそうつぶやくと、望華さんは首を横に振った。
「これでよかったんです。店長はこの装置を生かそうとして、コーヒーに思い入れのない方を切り捨てるようなやり方を選んでしまいました。このコーヒー難でコーヒーの歴史をつなぐには、うちの店は本当は邪魔でしかないんです。本物の星空がなければ、プラネタリウムは美しい星空には見えないんですから」
確かに、あのときらいむが「本物のコーヒーってこんなに美味しいんだね」と言ってくれれば、こんな時代の中どれだけほっとする言葉になったことか。
しかし。
「ここですら本物じゃなかったのに……一体本物なんてどこに……」
僕が搾り出すようにそう言うと、望華さんは僕に近寄り、僕を見上げて表情を緩めて言った。
「大丈夫です。店長が地球何周分も飛び回って豆を探したのは本当ですし、店長はあと一歩のところまでたどり着いたんですから。コーヒー豆は今も世界のどこかに必ずあります」
僕は少し口をつぐんでから、望華さんに尋ねた。
「一つだけ、まだ気になることがあります、どうして今夜に限って、店長のことをいつものように呼ばないんでしょうか」
望華さんは力なく微笑んだ。
「あと一歩のところで店長があきらめたのは、元々病弱だった一人娘の望華さんの容態が急に悪化したと知らされて帰国しなければならなくなったからです」
「え?」
混乱してどういうことかと問うこともできない僕を置き去りにして、望華さんは話し続けた。
「結局店長が日本に着いたころには、望華さんは帰らぬ人となっていました。夢と愛娘の両方を失って絶望していた店長が出会ったのが、この「プラネタリウム」でした」
そう聞き終わったところで僕はその意味に気付き、脳がえぐられるような感じがした。
見る間に目の前の人の外見は絵のように不自然になっていき、ワンピースのすそから透明な青白いものになって、光りながら空中に揺らめいて溶けていった。
「プラネタリウムの中で私だけが、もう本物のない「想像図」でした……」
そう言う間にも彼女は下の方からどんどん溶けていき、ほとんど上半身だけになってしまった。あたり一面、彼女を中心とした青白い光に包まれていた。
僕は消え行く彼女の名前を叫びたかった。だが、呼ぶべき名前はなく、僕の口からはただおかしな音がかすかに漏れるだけだった。
もう彼女はほとんど腕と頭しか残っていない。僕がたまらず右手を伸ばすと、彼女はまだ残っている両手でそっと僕の手を包んだ。
彼女と直接触れ合うのは、これが初めてだった。
「青山さん。本物の星を、見つけてください」
彼女が完全に消えるところが見えたかどうかは、よく分からなかった。
気が付くと、僕は店の床に寝ていた。
明かりがほとんどなく暗い店内には、大まかな形だけ前と変わらない調度品と見慣れた投影機だけがあったようだ。
起きあがると同時に、スマートフォンがメールの着信を知らせた。
ぼんやりとした頭で電話帳に登録されていないそのアドレスを確認すると、planetariumのつづりを含んでいた。
本文なし。添付ファイルがひとつ。
開いてみて目に飛び込んだタイトルに一瞬嫌悪感を催した。Beetle Pearlとあったからだ。それは、世界各地から回収されたビートルパールをDNA検査することでコンゴウカタゾウムシが拡散した道のりを追う研究の論文であった。
なぜこんなものが届けられたのだろうといぶかったが、その理由に気付いた瞬間頭がはっきりした。
コーヒー産地であり、なおかつコンゴウカタゾウムシの手が及んでいない地域がどこか、これで分かる。とても重要な手がかりだ。
もちろんこの論文だけで豆が探せるわけではない。どうしても自分の足で確かめなければなるまい。店長と同じようにだ。
僕はドアを開け、階段を上った。天気はだいぶ良くなっていて、夜が明けるところだった。
階段を出たちょうど真前に、明るい星がひとつだけ見えた。明けの明星だった。
僕は探しに行かないといけない。
本物の星を。
プラネタリウム・カフェ M.A.F. @M_A_F_
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