第5話
それからというもの数週間は、大学の授業にも出ず部屋に閉じこもっていた。外に出るどころか、体を動かす気力自体湧かなかった。
一応、以前を思い出して本物に極力似せた代用コーヒーも用意してはみた。どんな代用コーヒーよりも本物に近いという自負のあるものだが、飲む気になれなかった。
まともな食事も取らず、ほとんどの時間を、ただベッドの上にうずくまって過ごした。過ごすという言葉どおり、時間が過ぎるのをただ待っていた。
僕は別にカフェイン中毒というわけではない。そういうネガティブな飲み方に陥らないよう気をつけていた。
しかし、治まらない頭痛は曇天や外出しないことのためだけではなかった。
絶えずプラネタリウム・カフェのことが頭の中に渦巻いていた。もはや何の未練があるのかと自分が可笑しかったが、まだあの店の全てが終わったわけではないのだ。
あそこには、確かめなければならないことがいくつもある。
そう思うと、なんとか起き上がって、店の扉の張り紙が張り替えられていないか確認しに行くことができた。
数日に一度、そうしてプラネタリウム・カフェに向かい、前と変わらない休業の張り紙を見て、また土饅頭のようになりに部屋に帰るのだった。
そんなことを何度も繰り返してようやく、張り紙が変わっているのを見ることができた。
やっと地に足が付いた感じが取り戻せた。それは同時に、この店で僕がやるべき事をやるときが来たということだった。張り紙の内容はこうだった。
「皆様の大変なご愛顧を頂戴してきた当店でしたが、コーヒー豆の調達ルートの断絶等の都合によりX月Y日を持ちまして正式な閉店とさせていただかなくてはならなくなりました。そこで、閉店当日の一日だけ店を開いてお別れ会としたいと思います。最後に残った豆とともに、皆様のご来店をお待ち申し上げております」
その日付は三日後だった。
そして、プラネタリウム・カフェが開く最後の日。
僕はいつものカウンターではなく、ごく目立たない隅のテーブル席に座った。
顔を覚えるほどの常連客は皆そろって、今日の日を惜しんでいた。誰もがその味を舌に刷り込むように、一口一口ゆっくりとコーヒーを味わっている。
望華さんがお盆を両手に歩み寄り、いつもと同じように注文するより先にブラックを一杯目の前に置いた。
「もう、お気づきなのでしょう」
望華さんがつぶやいた。
「どなたよりもうちのコーヒーをお誉めになって、産地の秘密を気にしていらっしゃいましたし……それに、そんな怖いお顔をして」
閉じこもっている間でだいぶやつれていたし、眉間にしわが寄っているようだった。
「ええ、大体は」
そう言いながら僕は小さな包みを取り出して開けた。望華さんは僕の手元をじっと見ていた。
店長はカウンターの前に立ち、お別れの挨拶を始めた。
「お集まりの皆さん、今日だけでなく日頃のご来店、ご愛顧本当にありがとうございました。そもそも私がこの店を開こうと決意したのは……」
他の客は店長の言葉に聞き入っていた。
北見の言った、このコーヒーの正体を確かめる方法を、頭の中で繰り返した。
「普通ならコーヒーには絶対入れないようなものを入れるんだよ」
望華さんの見ている前で、包みの中から、発泡性の入浴剤の錠剤を取り出した。
それをコーヒーに沈めた。
全く泡立つ気配はない。
望華さんは全く目をそらさず、真剣に僕を見ていた。
一気に飲み干して、カップを置いた。
中に残ったのは、濡れただけでまったく輪郭の崩れていない入浴剤だけだった。
「今夜十二時に、お一人だけでご来店下さい」
そう言うと、望華さんは僕のカップを取り替えてお代わりを注ぎ、他の客の呼ぶ声に応えてその場を離れ、いつもの明るく上品な看板娘の顔に戻った。
「それでも、往年と変わらない値段で本物のコーヒーをご提供できたことは、これから先も変わらず私の誇りであり続けるでしょう!」
店長の挨拶は続いていた。
出直したその夜の空は、赤みを帯びた嫌な曇り空だった。ほんの少しだけ、もっと鮮やかな黒色をした晴れ間が覗いていた。
例の階段を再び下りる間、なにか冷たく張り詰めた雰囲気を感じた。食肉加工所の冷蔵庫ではないかと思うほど、重く冷えて感じられる扉を開けた。
すると店内は、一面の星空と化していた。
壁も天井も鮮やかな闇に浮いた星でいっぱいになり、床さえそうだから宇宙空間さながらだった。壁や調度品の輪郭がかすかに浮かび上がっていた。
その光景に、僕は驚かなかった。
大体そんな感じになっているだろうと思っていた。
ツァイスⅣ型投影装置と望華さんだけは星に覆われず、部屋の真ん中に浮かんでいた。
望華さんは長い髪をおろし、喪服のような黒いワンピースを着て投影装置の前に立ち、満天の星空に黒い穴を開けていた。
「青山さん、プラネタリウムへようこそ」
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