月なき夜の底の匂い

秋ノ

月なき夜の底の匂い

 私が二年通った大学を辞めたいと告げた二ヶ月後に母は死んだ。

 首吊り自殺だった。遺書などはなかったという。

 実家から遠く離れた東京でその訃報を電話越しに耳にした時、それほど私は驚かなかった。ああ、本当に死んでしまったんだ、とまるで他人事のようにしか思わなかった。母の死を心から嘆き悲しむことができたならばどれだけ良かっただろう。


 大っぴらにできない死因だけに母の葬儀は近しいものだけが集められ、しめやかに執り行われることになった。

 年始の挨拶でしか顔を合わせたことのない叔母が私を気遣うように「もしお父さんには相談できないような困りごとがあったら言ってね」と言葉をかける。

 母を死に追いやった原因を探るような叔母の視線にひどくいたたまれない気持ちになる。きっと母を殺したのは私だ。私の親不孝が母を殺したのだ。私が母に大学を辞めたいと告げたことを、そして今でも辞めたいと思っていることをここにいる私以外の誰も知らない。

 抑揚のついたお経を聞き流しながら、頭の片隅ではこの母の死が大学を辞める口実になるかもしれない、なんてそんな親不孝を上塗りするような自分勝手なことを考えいた。


 あの日、大学を辞めたいと告げた私の言葉に母は涙を流した。

 そうして私のことを「贅沢だ」と言った。

 私だってそんなこと分かっていた、分かっているつもりだった。

 ただそれ以上に親の稼いだお金を使って大して面白いとも思えない大学の授業を受けて日々を消費していくのに耐えられるほど無頓着ではいられなかった。

 初めは小さな綻びだった。友人たちと「大学の授業なんてかったるいよね」「就職のためだから」なんて笑い合うことに小さな罪悪感のようなものが芽生えるようになっていた。その綻びを誰に伝えることもなく抱え込んでいたら、日を増すごとに大きくなっていっていつの間にかぽっかりと穴があいていた。

 夜、ひとりで眠ることに嫌気が差して、朝、目を覚まして大学へ行く準備をするのがひどく億劫になった。

 金銭面で苦労することもなく大学に行けるということが誰でも享受できるわけではない「贅沢」であること、そんな「贅沢」が両親の並々ならぬ苦労によるものだということは、私なりに分かっているつもりだったからこそ、私は大学を辞めたいと思ったのだ。


 事あるごとにヒロイックに酔いしれ、悲壮感を表情に滲ませて「死にたい」「あの時死んでしまえばよかった」と口にすることのできる母のことを軽蔑していた。

 こういう時、母は自身の子育てが失敗したのだということに嘆き悲しむばかりだった。

 母が否定的な言葉を積み重ねるごとに、私の中の自信や存在価値が音を立てて崩れていくのが母は分からないのだ。だから私の気持ちなんて知らずに「死にたい」なんて口にできるのだ。

 自分の本心を言葉にする前に、頭で素早く当たり障りのない言葉を選んで何気ない嘘を重ねるようになったのはいつからだろう。

 自分がひどく駄目な存在に思えてしまうから、母に心配されるのが、母が嘆き悲しむのが嫌で、今までいくつも嘘を吐き通していくつかは後から現実にしてきたけれど、それももう無理だった。

 だからこそ、私がそれこそ死んでしまう前に大学を辞めたいのだと告げた。


 私の思いなんてよそに自身の死を軽々しく口にできることも、ひと思いに死んでしまうこともできる母のことが、私は憎いと思うと同時にたまらなく羨ましかった。

 もし、あの日私が同じように「死にたい」という言葉を母に向けて切実そうに放ったとしたら母はどんな顔をしただろう。より一層嘆き悲しむ顔を容易に想像できたし、その顔を想像した上できっと私は「死にたい」という言葉は飲み込むのだろう。


 それでも死にきれないくせに、と思っていた矢先、母はこうして自らの言葉通り死を選んだ。

「あなたのためを思って言っているのにどうして分からないの」

 本当に私の為だというのなら、自分の幸せを私に押し付けないで。

 私の瞳の奥に湛えた孤独に気が付いてよ。

 頭の中でぐるぐると巡る鬱々とした思いなんてなんでもないんだって匙にすくった熱々のスープを冷ますみたいにひと息で吹き飛ばして。

 私の憂鬱をひとのみにして笑ってみせてよ。

 口にすることができない言葉が澱のように溜まっていく。

 そんな願いすら、きっと私には贅沢なのだ。

 



 ひと通りの葬儀が終わり、私はしばらく実家に滞在することにした。

 風呂上がりにショーツに足を通してベッドに腰掛ける。

 手近にあった薄手のカーディガンを直に羽織るとそのままベッドに横たわり、スマートフォンを手にカメラを起動する。

 まだ濡れている髪の湿っぽい匂いとコンディショナーやボディソープの甘ったるい匂いが混ざったぐずぐずとした匂いで満ちる部屋に無機質なシャッター音が寂しく響く。


 SNS上に際どい画像をアップロードし衆目に晒すことがいつの間にか癖になってしまっていた。

 規制されてしまわないように肝心なところは決して写さず、自分の身体の丸みを帯びたラインがはっきりと分かる画像をいくつか選んでアップロードしてゆく。

 送信ボタンを押してから、アップロードされるまでにかかるちょっとした間がいちばんどきどきする。いちばん生きている感じがする。きっとそれは自傷行為に似ている。

 私の心が満たされていく一方で、瑞々しさや弾力が失われていくのが分かった。

 しばらくすると私宛に下心を隠そうともしない下世話なメッセージがいくつか届く。その文面があまりにもばかばかしくて、それでも目の前で起こっていることなのだと思うと、なんだか私が生きている世界って案外他愛もないな、とどこかほっとする。

 夜更かしをしていると、刹那的に満ち足りた気分になったことに対する自己嫌悪で眠れなくなってしまうと分かっていたので、ひと通りメッセージに目を通し満足すると早々にスマートフォンを手放し目を閉じる。


 しんとした思い出の詰まった自分の部屋で次第にまどろんでいく中、そうして初めて母が死んでしまったのだという実感がじわじわと沸いてきた。


 お母さんからの愛は、私なりにちゃんと受け取っているつもりだったんだよ。

 ねえ、お母さん。

 私、どうすれば良かったの。

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