縁
「う~ん、その辺の説明も必要かァ。
端折るけど、神っていうのは突然奇跡が起こるものなんだよ。
で、仏っていうのは段階を積んでいくものなんだよね」
「ほう」
「俺の場合仏でもあるし、神でもあるし、鬼でもあるからこんな感じなんだけど」
エンマはそう言って剽軽に肩をすくめる。
「罪の清算が終わらなくて連載途中の打ち切り漫画みたいな展開だろうが何だろうが、神の奇跡ってのはそんな感じなのさ。
因果律なんてありゃしない、原因も無ければ経過もない。“神の奇跡”はそれこそが起点で始まりなの。」
女は冷たい目でエンマを眺める。
「理解させる気がない言葉をなぜ私はこうも大人しく聞かなければならないのか、甚だ疑問と忿怒が拭えない。
更に言うなら大人しく聞かなければならない、お前と私の立場と関係性にも理不尽を禁じ得ないがそんなことはまあいい。」
それまで言葉少なだった女の、滑らかな毒舌にエンマはいやいやと呟きながら顔の前で手を振るが、女はそれを気にも止めずに言葉を続ける。
「それで私が神になったとして、何を望む」
見透かすような女の瞳に、エンマは片手を白い上衣のポケットに引っ掛けて笑う。
「君は神だよ?
何でもすればいいさ。永久の力と魂を持って、したい時にしたい様にすればいい。
この地獄の中で、規律を作るならそうすればいいし、自由を望むなら漂えばいい。」
「何も私の聞きたい事の答えになってない事は分かってるんだろうな、この白髪頭」
「酷くない?!」
「知らん。
とにかく、私を神にすると言うのがお前の決定ならそれはもう覆ることなんてないんだろうが。早くしろ」
講義の声を上げようとしていたエンマは、鼻っ柱を折られて気を取り直すように態とらしく咳払いをした。
「んンっ
まアいいや。
じゃあ移動するよ」
エンマの世界はエンマの意識。
エンマが取る行動によって、あらゆるものが変化し影響し合う。
エンマが移動しようとすれば、エンマではなく世界が移動する。この世界の理そのものがエンマであり、その世界の一端である女も逆らう事などない。
女の発言は、エンマが女に自由であれと思うから自由なのだ。この世界にはまるでエンマしかいないように思うが、魂の奥に刻まれたものは残る。
だからこそエンマはその魂に役割を与える。おおよそ自我と言えるものがあるのは、エンマが干渉していない部分が残っているからだ。
「ただいまァ」
エンマの言葉の先には、広い空間がある。ただの白。ただ、白いだけ。何と無く遥か遠くに壁が見えるのが、建物の中であるという僅かな証明。
だが何も確かなものなどないのだ。形あるものの存在しない世界を構築しているエンマは、女を振り返りながら首を傾げる。
「さて、じゃァ早速始めなきゃね。」
エンマはそう言って、ポケットに突っ込んでいない手で女の腹部を指差す。
少しずつ、女を構築していた粒子が解けていくようにその腹部が欠落していく。その様子を見ても女の表情は特に変化もない。
「だから早くしろと言ってるだろうがこの芋む」
「ところでさ」
女の言葉を途中で切るエンマは、相変わらず笑っている。
「何でそこから消えてくんだと思う?」
「消えることに理由などない。私の罪は強制的に清算された。輪廻の輪の中に戻ることに、意味などない」
腹部の親指の先程のだった消滅は、拳大にまで広がる。その様子を分からないはずもないが、女とエンマは会話をやめない。
「君は同族を狩り続けたよね。
同じ様に罪を背負ってここにきた人魂は、君の大鎌に割かれて消滅していった。まあある意味、何度も何度も死んで蘇ってって言う苦の拷問から解放されるんだけど。」
「何が言いたい」
「ねェ、ここは俺の世界だ。
本当に君が見てたものってあると思うかい?」
女が目にしていた黒いモヤ。それを切り裂く自分。それを見ても何も感じない精神。いつからそれを始めた?
あらゆる疑問が唐突に浮かんでくる。思考が妙にハッキリする。
「ここに生まれてくるのは、罪を清算して、また新たに生まれ変わる為。輪廻の輪から外れる程の罪を清算して、また輪廻の輪の循環に戻る為なわけ」
そもそもどんな罪で落ちてきた?
いやここは本当に地獄という世界なのか?
私は人間だった筈で、だから同族を狩っていた。人間だった。本当に?
抑え込まれていた疑問が湧き上がってくるような感覚。女は呆然と頭を抱える。
「それをさ、更生するチャンスがあるはずのココで切られちゃったらどうなると思う?」
エンマは笑う。
三日月のように。
「消滅するんだよ。人魂っていうのは特別でね、他の魂とはちょっと複雑さが違う。だから転生した後違うモノに生まれても、またいつかは人に転生が巡り戻って来やすいんだ。」
三日月のような目が、頭を抑える女の顔を覗き込む。
「俺の意識は世界で、この世界は俺だ。
俺が行きたい場所に行けるし、ないなら作ればいい。
だから、君に見せたくないものは見せないし、見せたいものを見せる事だってできちゃう」
端正な顔が不気味に映る。
初めて、女はエンマの顔を見た気がした。
そして、強烈な違和感を感じる。
「黒い、モヤ……」
「彼らにとっては、君が黒いモヤに見えてたよ?」
「……何故、わざわざ」
女の罪科と懲罰を決めたのはエンマで、その内容は同族を切る罪悪感が罪科と釣り合った時、清算されるというもの。その姿形が人であれば、よりその罪悪感は増しただろう。
「だって罪悪感があると、サクサク切れないでしょ?
サクサク切って貰わないと、人魂の数が多過ぎて人間の滅亡なんてできないからねェ」
「何がしたい」
「そもそも君は、君の罪が何か知ってる?」
「それはお前が…」
「そう、俺が忘れさせちゃったんだァ
君は犯した罪を覚えてない、だからその清算に当てられる意識は当たり前だけど殆どない。それでも人間だった意識だけはあるから、同族の魂を切り続ければいつかは罪が清算される。
だからモヤを掛けたんだ。黒いモヤ。」
「私がやる事はそれでも変わらなかっただろう」
消滅は腹部を貫通して、背中に至り、背後の白い空間が窓のように見えるところまで侵食している。
まだ話は終わらない。
「君の懲罰はこの世界で、魂を切る多さも、時間も関係ない。
だって君の罪は、とても軽いんだから。」
頭を抱える女を覗き込み、エンマはポケットに突っ込んでいた片手の人差し指を、女の眉間に当てた。ほんの僅か、ごく自然な動作で。
「あ、あぁあ…」
エンマにとって指先一本の動作は、女の頭を掻き回した。頭だけではない、身体全体が上下左右あらゆる空間に振り回されているような、痛覚も失っている筈の身体が痛みを上げる。
「痛い?久しぶりでしょう。
死んだ時以来なんじゃないかな?普通はだんだん感じなくなっていくものなんだけど、君は死んだ時から普通じゃなかったからね。
いや、死ぬ前からだったか」
「アァアアァアァ嗚ぁあッッ」
絶叫。
声にさえならない、音。
それは喉を介さず放出される。それはそうだ、女にもう身体などない。そんなもの、死んで以降あったことなどある筈もないのだから。
「君の記憶も意識も、認識も、俺がずっと握ってる。でも神になるならそうはいかない。
俺の枠の中から出て、独立するってことだからね」
エンマは両手をポケットに突っ込むとほくそ笑みながら一歩下がる。
「さあ、君はだれ?
君はどんなもの?
“君”はなに?」
パンッと女の中で何かが弾けた。
「記憶の旅へ、いっておいで」
腹部に穴を開けながら、足元から意識を失って行く女が伸ばした先に入るのは、笑う三日月と、行ってらっしゃいの掌が、殊更にゆっくりと振られていた。
『気持ち悪い、近寄らないで!』
金切り声が耳障りで、幼い子供は温もりを求めて伸ばした手を引き寄せた。
近くまで寄っていたその幼女の手を気味悪がって、そこに匂いが残っているとでも言わんばかりに幼女の手が伸びていた宙を払う。
『おかあさ……』
女は抑え込んでいた恐怖が爆発したように声を荒げる。
『やめて!
母親?冗談じゃない!!こんなに似てない子が私の子な訳ないでしょうッッ』
幼女から遠ざかろうと必死で後退る女と幼女は、しかしその言とは裏腹に良く似ていた。顔立ちも、髪質も、肌の色も。
『早く目の前から消えて!』
金切り声を上げる女の瞳には、怯えがありありと浮かび、それを理解した幼女はとぼとぼと部屋を出て行く。
廊下を出て、殺風景な部屋にはいり何もない空間を見つめながらポロリと零す。
『私はいない方がいいんだね』
問いかける相手のいない筈の空間で、何かが蠢いた。暗い、暗い影が、部屋の隅で、机の下で、明かりと対になって。
『いつもいてくれるね。
一緒にいて。どこも行かないで』
幼女の言葉に合わせて、部屋中の影が蠢く。ざわざわとしたその空気に幼女は怯えることはない。
その瞳は茫洋として、まるで生物としての生気を宿さない。辛うじて動くその人形のような幼女の声に影が騒めいた。
幼女が言葉を発する毎に、話しかける毎に影は反応を返す。
幼女には昔から人には見えないものが見えた。それに触れる事も、話しかける事もできた。
だがあちらは幼女に話しかける事も、触れる事もできなかった。いつも、大きな影が幼女を覆っていたからだ。
その影に覆われて時を過ごして、幼女は少女になった。
影はやがて影ではなく人型を取るようになった。少女が目に見えぬものと会話をしていると、少女の周りが騒ぐ。周りが騒ぐと、少女の麻痺した感情が僅かに軋む。影は影として存在することをやめ、人型として少女の側にいた。周囲に見えたり見えなかったり、それは影の気分のようなもので少女はあまり気にしなかった。
ある日の朝、ふと思った事が口をついた。
朝の光を浴びて、朝露にその葉を揺らす木の葉を見て、自分はこの世界にいるのに、何も生まない。生産性のない存在なのだと感じたのだ。
誰と交わることも望まず、誰に望まれることもなく、少女は生まれてこの方ずっと孤独だ。全く知らなければ良かった。
だが周囲は幸福と支え合う温もりで溢れている。
『私このまま歳とるんだよね。
子供とかも生まないんだろうなあ』
そしていつもの昼下がり、影が忍んでくる黄昏時。
空に群青が混ざる前。
歩道橋の上から見た空は広かった。
日の沈む西の空には建物の障害もなく、沈み行く太陽が景色を燃やし赤く照らす。輪郭のみが明かりに照らされ、対照的にその内側が深い闇となる。
深い黒と鮮烈な赤のパノラマに、無粋なビルが群立する人工的な街で、少女は瞬きもせずに景色を焼き付けた。
立ち尽くす少女の傍では、その光景に興味はないのか景色に見入る少女を見詰める人型があった。
景色に心奪われる少女の視界を占領するように、少女の前に進み出ると、少女の顔に人型を取った影の顔が近づく。
まるで影は鏡のように、人の心理を写し取る。人それぞれに違った見え方をする影の姿は、少女にはぼんやりとモザイクがかかったように映っていた。
それは少女が誰にも何も望んでいなかったからだ。
だがその時、少女はその人型にはっきりと表情を見た気がした。
逆光でさえない、暗赤に染め上げられた視界で、肩口に強く充てられる圧力。
肩口に伸びる人型の腕。
三日月の口元に、ゆっくりと振られるバイバイの掌。
顔も判別できないその時間、シルエットだけしか判らないはずなのに、その口元だけが妙にはっきりと見えた。
今まで判別のできなかったモザイクのかかったような影の顔。
やっとそのモヤがとれたと思ったのに、こんな視界ではわからない。
『
誰かわからない、そんな時間。
でもやっと知りたかった影の顔が見れた刹那。
少女は背中に強い圧力を感じ、力の作用のなされるがままにその体が宙へ放り出される。
反射的に伸ばした手は、少女があらゆるものを諦めて以降初めて、感情を伴って伸ばした手だ。
“助け”を求めて。
『ずっと一緒にいよう』
人型の三日月の弧が深まり、幼い頃の幼女の望みが再び紡ぎだされる。
今度は請けた側の存在からの、望みとして。
そう言いながら、影は落下していく少女を見詰めるだけ。
ただ、見詰める。
風に煽られる髪、伸ばされた指先、強張る唇、影を見詰める視線。
その全てを見詰める。
『ずっと……』
反芻するように呟かれた少女の言葉は、落下していく空中に置き去りにされ、その言葉は誰にも届くことなく次の音で搔き消される。
ドサッ
歩道橋から地面に叩きつけられ、そのまま動けない少女の腹をトラックが踏み付け乗り越え、ひき潰す。
赤い景色の中、道路に咲いた赤い花は保護色のようになって見えない。
その光景をじっと、ただじっと、人型の影は見詰めた。
黄昏時が終わり、闇が空間を覆う頃、影はその闇と一緒に消えていった。
ふっと意識が浮上し、鉛のような瞼を無理矢理こじ開ける。
横たわる女の顔を、座り込んだエンマがにこにこと笑みを浮かべながら覗き込む。
「……私を殺したのは、お前か」
女の声は疲れ切った声色を宿している。当たり前と言えばそうだ。女の腹部の穴は、最早腹部に留まらず、拡大し胸下から腰骨までに広がっていた。
「そうだねエ
輪廻の輪に加わらなかったのは君が落下したことで、3人の死者と大勢の人が障害抱えちゃったりしたから。
まァ罪状を決めるのも、過去を見るのも俺だから君の地獄の沙汰を決定するのは楽だったなア。
狩人にしてからも、ココは俺の意識そのものだから、君の認識を変えることなんてちょっと意識すればそうなる。」
女はぼんやりとした瞳でエンマを眺める。
「君は人魂が核になってる。もし罪悪感で罪が清算なんてされたら、また人に生まれ変わっちゃうかもしれないでしょ?
だから人間には滅んでもらうしかないかなってね。
そうすれば転生先もなくなるし、君の延々と続く罪科の清算も強制的に終了して新たな役割が与えられる。」
「何で、そんな回りくどい―――」
「だって、清算の終わった人魂は狩人でも輪廻の輪の中に戻らなきゃいけない。
俺の意識がココな訳だけど、俺が“俺”を保つためにはルールが必要なんだ。
結局なんにでもなれてしまう俺が、俺という器を作るためのルールは‟役割”を侵さないこと。」
だからエンマはこんな回りくどいやり方をしてまで、女をずっと欺き続けた。
いや、欺くと表現するにはあまりにも自然で、当然の選択だった。
「ずっと、一緒にいるにはこうしなきゃね?」
小首を傾げながらそう笑うエンマに、女は一瞬目を見開くが心底呆れたように深い溜息をつく。
もう深く息を吸う肺もない体で、女はエンマに思いを伝える。
「じゃあお前は、ゴミのようなちっぽけな人魂の望みを叶える為に人類を滅亡させるなんて壮大な馬鹿を冒して、その人魂そのものまで1500年とかいう亀の首が伸びすぎてむしろ切れてそのまま首が延々と転がり続けてどっか行くくらいのくそ長い時間膜掛けたような状態にして肉体労働させ続けてたと。」
「え、あ、いやまアそうなんだけど。
なんかすっごい悪意ない?」
女を覗き込みながらそう零すエンマはポリポリここめかみを掻く。
「当ったり前だこの惚け。
1500年分の労働賃金雁首そろえて払え。この超絶ブラック大王が。」
「いやそれはだから罪k―――」
「はぁ??
お前が突き落として起きた事故ですけど?ちょっと長時間存在しすぎて脳みそ溶けてんじゃねえですかこのジジイ」
「あれ……おかしいな。
しおらしい時の記憶が戻った筈なのにさらにお口が汚く……」
「失敗したかな……」と呟きながら指を額に伸ばしてくるエンマを、女は強く睨む。
「ばっちりきっちり戻ったわ。
だけどひとつ言うと、そもそももうこの世界にいる時間の方が圧倒的に長い。人間だったのはあくまで過去で、私はもう‟私”だ。
人間だった時の‟私”じゃない。
お前がさっき言ったんだ。自分を保つための器にはルールがいると。」
エンマは伸ばしていた指を途中で止めて目を見開く。
「あらゆるものにとって、そのルールってのが蓄積してきた情報。つまりは記憶だ。
なのにお前はそれを消して、この世界に私を呼んだ。情報の塊である人魂から情報を抜けば、それは全く新しい別のものだ。
‟私はこの世界の狩人”であって、お前の求めた人間じゃない」
この世に常定のものは存在しない。あらゆるものは常に変化していく。種が木となり、それが削られて木材となり、多くの過程を経て形成された鉄と合わさり机となるように、どんな存在でも一時、仮に寄り集まって形成されているだけ。それには変化が訪れ、変形し変化していく。
人の概念として、それは情報だ。多くの情報が寄り集まって、一つの人間を形成している。それは記憶なのだ。記憶とは人格そのもの。
その記憶を真っ新にしたものは、器が例え同じでも全く違うものに成長する。
同じ実から落ちた種が、違う環境で育てば違う形をなるように。
「―――でも、君は‟君”の記憶を持っているだろ?」
「ああ、そうだ。
今‟知った”、誰かの記憶だ」
エンマは愕然とする。
「じゃあ俺がしたことって何?」
きょとんとした顔で、エンマは尋ねる。
「お前がしたことは、ただでさえ短かった人間という命の時間を更に短くして、一緒に居られたはずの時間さえその人間を殺したことによって消滅させただけだ」
「俺が、消した……?」
何を言っているのか分からない。
表情で如実にそう語るエンマは、今まで様々なことを成してきた掌を見詰める。
少女を包み、少女を撫で、少女を慰め、少女の温もりを知った手。
判決を下し、号令を出し、少女を押し、少女を消した手。
「あ、アァ……」
エンマは頭を抱える。小さく苦痛の、空虚と絶望の声を上げながら。
「……」
消えゆく体を、女は眺める。
生前の記憶を思い出しながら。
―――もし、死後の世界があって。
―――もし、そこでも今の「私」があるなら。
―――「私」は何を望んでいるだろうか。
人間だった時の記憶は、まるで何かの物語をなぞっていくようだ。
あの時の少女は、少女のままではなかった。
もう、別の何かになってしまった。
だが女は考えるのだ。
―――「私」は何を望んでいるだろうか。
「もう、お前の望んだ人間はどこにもいない。
お前が消滅させた。」
「あぁああ……」
壊れたオルゴールのように、目を見開きながら頭を抱えて蹲るエンマはふと焦点が合ったように女を見る。
慈愛に満ちた表情で、女に手を伸ばす。
「君は、君じゃない。
君の皮を被った別のモノ―――」
もう半分ほども消えている女の首に手を伸ばして、万力のような握力で首を絞めつける。
笑いながら。
「人間じゃない、わたしは…、もうべ、つの」
エンマは慈愛の笑みを浮かべながら首を振る。
「もう、何も言わないでいいよ。
わかった、もう、十分わかった―――」
腹部から円形に拡がった穴は、体の構造など無視して拡がっている。腕も縦に半分以上が欠けているが、指先はまだ残っている。
「それ、でも……」
もう胴体と繋がっているのは皮一枚の指先を、エンマの頬に必死に伸ばす。
ゆっくり、ゆっくりと上がっていくその指先と一緒に、ゆっくりと、締め付けられた喉から女の思いが絞り出される。
「‟私”は、お、まえと……い―――」
その言葉も指先も、その必死さには応えられることなく消えた。
頬に届くことなく指先は消え、耳に響くことなく言葉も潰えた。
―――ああ、またか。
―――また、「私」の手も、言葉も、届かない。
女はもう体のどこも動かせない。唯一自由になったのは、瞼だけ。
黄昏時、最後まで見つめ続けた。
ここまでの順序は、予め決められていたかのように2度同じことを繰り返した。
だが、今回は違うことをしてみよう。
最後まで見詰めることなく、瞼を女は閉じた。
その瞬間目尻から落ちた雫を最後に、全ての感覚を消失していく。
―――最後に見詰めなおすのは、自分か。
瞼を閉じて、感覚も殆ど消え失せ、最期の瞬間にいるのは「自分」だった。
女は、生前の「自分」である少女と向かい合う。
『結局、望みは一緒だね』
少女は邪気のない表情でクスクスと笑う。
「あの阿呆は神懸かって阿呆だからな、やることも最高に間抜けだ」
女は少女と向かいながら、憮然とした表情で溜息をつく。
『一緒にいたい。
それだけのことが、史上最高に難しいんだよ』
「全くだ。
1500年も人を傍に置いておいて、仕舞には首を絞めるとはな。労働基準法を超えてることに目を瞑ってやってたのが何でかもわかってない。」
『‟私”は不器用だから。
それもずっと変わらないね』
不器用なことに自覚も心当たりもある女は、図星を突かれて肩を竦める。
「だがそれよりも次元違いの不器用が相手だからな、5000歩譲歩どころか歩み寄ってやったつもりなのに結末が望む相手に消滅させられるとは泣けてくる」
『‟私”が殺されたことなんて塵ほどにも感じないくらい傍にいたいのに―――』
「あいつには伝わらなかったな」
少女の足元が消えて行く。少女の足元から光の粒子が昇っていく。
「人間まで消滅させて、1500年も労働させて、一緒に居たいと望む当人まで殺して、神にまでしようとして」
『それでも、叶わない』
女と少女は、同じ思考回路を持つようにお互いの不足を補う様に、言葉を継いでいく。そしてお互いに苦笑しあう。
どこか、晴れ晴れとした余韻を残して。
『なのにこの瞬間にまで思うのは―――』
「一緒に、いたい」
少女はクスクスと笑って、手を振る。
「またね」そう言いかねない気軽さで、バイバイと。
いつの間にか足元から昇っていく粒子が顔さえも覆い、見えなくしている。女に向けられる挨拶が判別もつかなくなり、やがて埃が風に吹かれたようにふわりと舞って、女の足元に忍び寄る。
―――最後に見たのが「自分」の掌とはな。
女は生前を思い出す。
伸ばした手が掴まれることはなく。
言葉は宙に置き去りにされて。
最期まで見詰めたその顔は、あの人を食ったようなへらへらとした笑いを浮かべていた。
ふっと笑って何となく、もう一度その手を何もない空中へ伸ばしてみた。
結局、掴まれることのなかった手を。
「……なにっ満足気に消えようとしてるのさッッ」
その瞬間女はハッと意識が引っ張られるのを感じた。
グッと手が引かれる。
今までも、これからも、掴まれるはずのなかった、手が。
「―――っっ」
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