03:蒼い宝石――――――――――――――――――

第7話 青い宝石

 

 

 

 男が宇宙船を降りると鏡のような流体タラップが男の歩調に合わせて変形した。

 彼の到着したコロニーはこの宙域では極先進的な設備の小港コロニーである。

 無機質な直線と、金属の反射光、宇宙の黒に彩られた賑やかだが冷たい輝きに囲まれたコロニーの中で、男はソラを見上げた。

 その男の能面のような金属の顔に電子広告の光が照らされた。

 

「久しぶりねスレッジハンマー」

 

 見ると男の目の前にいつの間にか一人の女性が幽鬼の如く立ち上ってきた。

 それは陽炎のように皮膚が揺らぎ、赤い瞳は眠たげで何も見ていないような表情だった。

 薄紫色の皮膚に美しいグラデーションの皮膜を頭から伸ばしている水棲人の一種だった。

 

スミ……お前も呼ばれたのか?」

 

 スレッジハンマーと呼ばれた男が尋ねると女性は表情も変えず答えた。

 

「同じ狩人で、同じ宙域ですもの、いつか会うと思ってたわ」

 

 スレッジハンマーは表情一つ動かさずその女を睥睨した。

 

「そうか。実力ある能力者のようだが。今回のはそんなに大物なのか?」

「さぁね、でも居場所もお膳立ても、雇い主が勝手にやってくれるみたい。楽な仕事よ」

「ほう? 何か掴んでいるのか?」

「掴むも何も、このコロニーで足止めを喰らっているところよ」

「……そこまで手を回さねばならん程、強いのか?」

「さぁ? でも手回しがいい客は嫌いじゃないわ。面倒も少ないし」

「そこまで根回しが出来る輩が何故我々のような狩人に頼るんだ?」

「獲物は相当の実力者みたいね。後、足をつけたくないんでしょ。多分」

「……獲物はそんな有力者に狙われるほどの事をやらかしたのか?」

「フフ……ここらのルールを無視してそこらじゅうの首を狩りまくったみたいなの。捕まえてはならない首。仕事をしてはいけない場所。そういったものを悉く無視する本当の意味の無法者」

「同業者か……」

「スレッジは生意気な奴をいたぶるのはお好き?」

「いや。別に。どうも思わない」

「そうよね。ホント変わらないわ。貴方って」

「……すまない」

「……そこで謝っちゃうところも含めて、好きだし、嫌いだったわ」

 

 スレッジは息を漏らした。

 くぐもったその唸りからは手持ち無沙汰な心持が伝わった。

 スミはそんなスレッジを愛おしそうに、そしてまた、馬鹿にもした様子で眺めた。

 

「なんにしても久しぶりに貴方の仕事できて嬉しい」

「ああ、ありがとう」

「……また後でね」

「……ああ」

 

 そういうとスミと名乗る女性はそれこそ水に溶ける墨が如くその空間から霧散して消えた。

 スレッジはそれら一切の超常的現象にも眉一つ動かさない。

 そのまま顎に手をあてて、今回の獲物の名前を呟いた。

 

 「獲物の詳細は、調べる必要がありそうだな」

 

 スミを名乗る嘗ての相棒。

 そして自分、この宙域有数の実力者を集めて一体何を狩るというのか。

 凄腕の暴れ者。

 スミは侮っていたようだが、少し調べてみたほうがいい。

 

 スレッジは鏡面に輝くイリュミネーションの空間を抜けて、一人街へと消えた。

 

 夜空はどこまでも黒々と濁り、紫のネオン広告が目に五月蝿いこのコロニーで、スレッジは行きつけの店を探した。

 入植ブロックが追加されるたびに歪に肥大化するこのコロニーでは、人も、物も、この無機質な時間の中で刻まれる秒針のように機械的だった。

 ただ何もかもが過ぎ去るだけの世界。

 スレッジは一人その黒と銀の世界を彷徨った。

 端末をコロニーのネットにつなぎ、更新された地図を眺める。

 昔、若かった頃とは随分様子が変わってしまったこのコロニーの3D地図に、何か寂寞としたものを感じた。

 行きつけのバーはなくなっていた。

 情報はどこで手に入れよう。

 今夜はツテを探さなければならない、嘗ての情報屋は今どこで過ごしているのだろうか。

 なんにしても、酒が呑みたかった。

 酔う体質ではないが、静かな場所が欲しい。

 ここは相変わらず、自分にとっては五月蝿すぎる。

 銀の地面、黒い空、そして反射するネオン。

 それらは自分の孤独をあまりに鮮明に浮き彫りにしてしまう。

 闇が必要だった。

 喫茶店でもいいかもしれない。

 どこでもいい、この喧騒から、今は離れていたい。

 ほの暗く、仄かに明るい場所を探して、一人の男は人ごみに混ざった。

 

 

 ◆

 

 

 その日、ヌェリドキアスの船長は一人酒を飲んでいた。

 蟒蛇うわばみのような彼女だが今日はホロ酔いするまで飲んでいた。

 つまり、大量の酒を腹に押し込んでいる。

 ヤケ酒である。

 この宙域にきてからはや一ヶ月、ここの宇宙警察の怠慢か、はたまた癒着か、アテナやジェゾがいうには両方だったようだが、兎も角、主要な銀河級巨大コロニーが3っつも存在するこの宙域において、この中型コロニーはそれらの中継地であった。

 金も人も物も、大量にこの宙域を通る。

 大河の流れの中に留まりうろつく小魚を食い荒らす肉食魚もまた、大量だった。

 少し取りすぎたのだ。

 ヌェリドキアスという外来種は、数ヶ月でこの河の生態系を変えてしまった。

 隕石群の中を亜光速でつっこもうが、灼熱の恒星の海にどっぷり浸かろうがビクともしない自慢の船だが、今回の嫌がらせは流石に応えた。

 大量に捕まえた犯罪者を裁く事に注力していた隙に、ヌェリドキアスの停泊する港に転移装置テロが起こり、船まるまる一つ分の下水に浸かる大惨事となったのだ。

 レーザービームも爆弾にもびくともしないヌェリドキアス。

 破壊工作なんて今まで何度もあった。

 宇宙怪獣に噛み付かれても傷一つつかなかったヌェリドキアス。

 まさかこんな手を使ってくるコッスイ奴がいるとは想像もしていなかった。

 転移装置はヌェリドキアスに直接設置され、あの美しい流線の背中から大量の下水が噴出した。

 しかも、あろう事かその時、犯罪者の輸送でヌェリドキアスの遮断膜は一部きってあった。

 その部分から進入した大量の汚水でひたひたになったわれらが愛すべき船。

 アレを見たとき発狂しかけた船長は怒りの余波で港のブリッジを砕いてしまったのだ。

 すぐにでも洗浄しなければならないのに、それに加えて弁償で余計な出費まで出させた船長に対してクルー達の反応は冷たかった。

 

 すこしは考えろ。

 船を愛しているならば、何故その船の復旧の邪魔をする。

 これだから考えなしは。

 船長失格。

 キャプテン失格。

 脳筋に付き合う私の給料を上げて。

 大丈夫だよキャップ、ボクはキャップがどんなにおバカさんでもずっとみっ味方だからっ!

 

 アホ。

 カス。

 バカ。

 ブロンド女。

 

「邪魔だからどっかいってくれる?」

 

 とてつもない厳しさだった。

 なんなのだろう、あいつらは。

 家長たる自分が家に糞尿を投げつけられて猛然と怒ったら同意くらいしてくれてもいいじゃないか。

 船だぞ?

 我々の家だぞ?

 

 旅人の家とは旅そのもの、行為の中にある。

 であるならば。

 我々船乗りにとって家とは船。

 故郷とは船。

 何故。

 何故あいつらは冷静でいられるのだ?

 ジェゾはいい。

 いつも通りだ。

 アテナもいい。

 奴はいつだって自己中だ。

 自室が汚れてなかったので極めて冷静だった。

 レックスは何故?

 船長と同じくらい宇宙船を愛して止まないあの男が、トルソも何故?

 いつも可愛くて愛くるしくて一生懸命なトルソが何故?

 ヌェリドキアスの面子が誰も味方をしてくれない事などいくらでもあった。

 だが今回だけはキツイ。

 精神的にあの光景はキツイ。

 あの美しい青と水色のグラデーションの外殻にこびり付いた糞。

 あの鼻のまがる臭い。

 蝶よ花よと可愛がって育てた美しい娘が汚されたような怒り。

 何故?

 今回ばかりは全員同じ気持ちだと思っていたのに。

 終わった。

 人に甘えてしまった時点で、それは船長のような女にとって、恥だった。

 人にゆだねる、寄りかかる。

 確かにそうしなければ、やっていけない時もある。

 それでも船長は海千山千の船乗りだ。

 こうした心持を託すのは、信頼できる相手だけだ。

 今回、船長のそれは過分だっただろうか?

 家を汚され、怒りに燃えて皆を焚きつけたのは、愚かな事だったろうか?

 いや、愚かなのはいい、いつもの事だ。

 それは重要ではない。

 問題は、それがソラの船乗りとして自然な所作だったはずなのに、総スカンを喰らった事だ。

 船長は傷ついていた。

 我が愛しきヌェリドキアスのクルーたちは、本物のソラの旅人ではなかった。

 自分の船をあんなにされて怒らない船員、ましてや船を穢されて怒った船乗りに対してあのような冷めきった態度であたってくる者など。

 ジェゾにだって、本当は怒って欲しかった。

 それは甘えだったのだろうか?

 面倒くさい女は嫌いな自分が、実はとても面倒くさい女だったのだろうか?

 船長は渦巻く怒りと寂寞とした想い、そして圧倒的な孤独感に押しつぶされそうになっていた。

 畢竟、人とは心を持ったときから心に囚われた囚人なのだ。

 孤独という刑罰は死ぬまで続く。

 だからこそ、勘違いしなければならない。

 

 私は父。

 私は船長。

 私は女。

 私は親。

 私は船乗り。

 私は…。

 

(だからなんだ、そんな肩書きや関係なんて、本当の孤独の前では何の役にもたちゃしねぇ……)

 

「ごめんよ、ヌェリドキアス」

 

 船長は小さく呟いた。

 

「私の目は節穴だった」

 

 (あんなクルーをお前の腹の中に納めてしまった私を許しておくれ……)

 

「薄情もの」

 

 船長の怨嗟は続く。

 くぐもった黒いコートの中で消えるほどの、小さな呟きだった。

 このバーに流れるジャズの音に掻き消える程の……そう、船長は掻き消えたかったのだろう。

 薄暗い店内の闇、流れる静謐なムード、上手い酒、酔い、ゆったりと流れる時間。

 今だけは掻き消えて、何かの一つになりたかった。

 本当に、今夜は珍しいほど折れている。

 ここまで苛烈な人間が折れるほど、クルーたちを信頼し、支え、同時に寄りかかっていた。

 それを自覚した自分にまた折れた。

 ここのカクテルは美味い。

 この店でよかった。

 ヤケ酒でも、この馥郁ふくいくたる香りや、舌をすべる味の旋律が、何かを洗い流してくれる。

 慰めてくれる。

 本当は家族に慰めて欲しかった。

 いや、一緒に怒ってほしかった。

 何故自分はそこまで人に寄りかかってしまったのだろうか。

 クルーに甘えてしまったのだろうか。

 言い知れぬ孤独。

 纏まらぬ結論。

 もうだめだ。

 レックスではないが、人肌に逃げる奴の気持ちが今ならわかる。

 船長は今、ヌェリドキアスの船長となって以来恐らくもっとも脆い状態だった。

 

 そこにブ厚いドアを押して入ってくる一人のゴーレム族の男がいた。

 船長は何気なく振り向いた。

 

「久しいなマスター」

「……お久しぶりですスレッジさん」

 

 バーテンとその客はどうやら古い知己らしい。

 久方ぶりの再会だというのにお互い抑揚のない声だった。

 

(ここは静かでいい)

 

 船長はそう一人ごちた。

 

 

 ◆

 

 

 「あれはねぇよなぁ……」

 

 半蜥蜴人のレックスが固い鱗の顎を撫でながら呟いた。

 船長がいなくなったヌェリドキアスの停泊するデッキ、そのひん曲がって露出した合成鉄骨に座りながら忌々しそうにヌェリドキアスの洗浄作業を眺めていた。

 

「全くだ。あいつは船の事となると我を忘れる」

 

 龍人のジェゾも、砕けた硝子をその固い甲殻に覆われた素足で蹴り払いながら周囲を見回す。

 そして振り向くと、後ろで面倒くさそうに毛づくろいをする獣人のアテナに声を掛けた。

 

「すまんなアテナ。お前が防がなければ船長の“怒号”で港が壊れるところだった」

「本当よ、いい加減にして欲しいわ。あの人、加減ってものを知らないのかしら?」

「ヘヘ、お陰でオレたちが冷静でいられるんだけどな」

「まぁ……そうだけど」

「流石にあれはアテナも切れてたよな」

「当たり前でしょ! かなわないからってこんなこっすい真似されてっ! ヌェリドキアスは私の家でもあるのよ? 家に糞塗りたくられて平然としていられるとでも思うの?」

「まさか、だけどよ。怒りの炎も船長の大爆発で沈下しちまったな」

「……まぁ、そうね。お陰でコレからどうするか、考える気になれたわ」

「まずはこの始末をつけなければな」

 

 三人が固まるデッキの周囲にはロックがはずれ吹き飛んだ十を超える船が横たわっていた。

 設備が破壊された港の人々は怒り心頭の様子でこちらを睨みつけているが、船長の凄絶な怒号とその周囲に起きた様子に近づけず、文句も言えない様子だった。

 あれほどの衝撃波を至近距離で放たれてビクともしていない三人も、凄腕の超能力者なのだろう、それは荒ぶる宇宙怪獣の一触れにも等しい。

 迂闊なことをいってこれ以上の悲劇を招きたくは無かったのだ。

 幸い今は死者も出ていない。

 

「さて、では私が話をつけてこよう」

 

 ジェゾは堅い甲殻に覆われ平然とした顔で彼等を眺めた。

 船長が吹き飛ばして損傷したあれらの船の弁償をせねばならない。

 いくらヌェリドキアスの資金が潤沢だからといって、少々頭の痛くなる出費になりそうだ。

 だが、さっぴくところからはさっぴいてやろう。

 ジェゾはそう考え取り巻きを睥睨した。

 普段はこんな考え方を「いかにも無法者然としたコスさ」と感じるジェゾだったが、今その計略を断行するに迷いはなかった。

 この鹿爪らしい竜人も、今回の件には怒っていた。

 今彼の心の内では静かな怒りが炭火のようにシュウシュウと滾っている。

 

「ジェゾ。あんたみたいな強面が一人で行く気か?」

「お前もくるか? 飴と鞭だ」

「お~言うねぇ。だが悪いけど今は俺もあんまり繕った顔はできねぇぞ」

「うん?」

「オレもそれなりに……いや、ぶっちゃけかなりキてるんだぜ?」

「?」

「だからァ……飴にはなれねぇって事」

「……ああ。いや、お前が鞭だ」

「……」

 

 ジェゾのような強面に鞭扱いされて微妙な顔をしたレックスだった。

 お前が飴というツラかと、ジェゾを仰ぎ見たが、この竜人にその自覚はないのだろうか?

 まぁ、それでいいならそれがいいのだろう。

 それにこのフツフツと煮えたぎる怒りを少しは吐き出せると思うとレックスは少し胸すく思いがした。

 吹き飛ばした船の弁償はせねばならない。

 だが、ヌェリドキアスにこれだけの装置を組み込む輩はさぞ目立っていたはずである。

 港の管理人もきっとグルだろう、金を握らされたか、権力に脅されたか、それともただただ怠惰だったのか。

 何にせよ、その対価はきっちり払ってもらわねばならない。

 船長はあれで良かったのかもしれない。

 今の怒りが収まり冷静になればここの管理者は生きてはいなかっただろう。

 具合によっては話すらできずにくたばっていた可能性もある。

 そう思うと今この状況は幸運だ。

 船長は嗜虐的な性格ではない、瞬間的に爆発し、あとはすっきりというあとくされの無い怒り方をする。

 まぁその爆発で粉みじんになる小悪党からしてみればたまったものではないだろうが。

 だが今のレックスにはそれでは足りない。

 レックスはジェゾやアテナと違い、船やソラの旅そのものに生まれながら愛着をもった船乗り気質の人間だった。

 これだけの事をしたのに船長の鉄拳一発でくたばってもらっては困る。

 われらが船に文字通り引っ掻けた輩には、それ相応の償いをしてもらわなければ。

 レックスはにたにたした笑顔で港の関係者らの群に歩を進めた。

 船長のあまりの怒りとそれが起こした事態に対応する忙しさで、引っ込んでいた怒りがまたふつふつと湧き始めていた。

 その湧き上がる炎は、何かをじっくり燃やすまで収まりそうにない。

 

(ジェゾが止めるところまではやっちまおう)

 

「レックス」

「なんだい? ジェゾのダンナ」

「出来るだけ自重しろ」

「はぁ? こんだけやられて我慢しろってか?」

「違う。今日は流石にお前を止めたりする気がおきそうに無い。だから止められると思ってやりすぎるなよ」

 

 レックスは驚いた顔でジェゾを見た。

 ジェゾはレックスの驚愕に答えずただただ港の群集に目を遣っている。

 

「嬉しいねぇ……」

「おい、自重しろよ?」

「ダンナ。今の言葉でそういう気になれたんだ。いや、マジで」

「……そうか」

 

 そうだ、誰だって怒っている。

 怒ってないのはトルソだけだろう。

 船長の怒号に怖がって、ヌェリドキアスの有様に泣いて、ただただ悲しんでいる。

 今は汚れたヌェリドキアスの自室に引きこもって一人めそめそ泣いている。

 それを思うとまた怒りが湧いてくるレックスだった。

 しかし、今、それと同じくらいの喜びも感じてはいる。

 隣に並び立つこの偏屈者の竜人は、平時はあまりにも冷静で、動じず、つまらない中年男だ。

 だが、それでも矢張り自分と同じ不動星ポラリスを抱く船乗りだった。

 それが解った。

 先ほどまでの残虐な熱は少々すっきりしたものに変わっていた。

 どちらにせよ、それはすぐに発散されるのだ。

 

 

 ◆

 

 

「あんた賞金稼ぎか?」

「あん?」

 

 いつの間にか船長の横でスレッジが飲んでいた。

 というより、空席がそこしかなかったのだ。

 そこでちびちびと竜人酒を飲んでいた船長に、スレッジが話しかけてきた。

 

「すまん、同業者の気がしたんでね」

「……」

「本当にそれだけだ、口説いているわけじゃない。気に障ったなら謝るよ」

「まぁ、口説き文句にしちゃ剣呑だ」

 

 船長がそういうとスレッジは口も空けずにフフンと笑った。

 船長にしても、別に悪い気はしていない。

 今はただだらだらとこの燻りが冷えるまで時が過ぎるにまかせている。

 多少の面倒ごとや、他人との会話が億劫なわけじゃない。

 ただただ、今の自分が脆い。

 その自覚が警戒心となって現れただけだった。

 

「仮に口説き文句だったとして」

「うん?」

「今の私はそんな隙だらけに見えるか?」

 

 彼女はなんとなく。

 他人の意見が欲しかった。

 なんでもいい、話しかけてきたのは相手側だ。

 話がつまらなかったらさっさとここを出て、別のバーを探すか、このゴーレムの男を追い出すのか。

 彼女にとってはどちらでもいい。事の成り行きはなんでもよかった。

 

「漬け込む気にはならんが、自棄になっているようには見えるな」

「まぁ、当たってるな」

「重い話か?」

「いや、誰も死んだわけじゃねぇよ……ただ」

 

 そこで船長は息を吐いた。

 アルコールの熱が口から漏れてバーの空調に吸い込まれていく。

 

「……思い違いをしてただけだ」

「思い違い?」

「仲間のクルーによ、相手の気持ちってのか? ……わかってなかったんだ。それでちょっと、グレてるのさ」

「誰が悪いという話ではなさそうだな」

「それはわからねぇ……仮に船を傷つけられたら、船乗りなら誰だって怒ると思うんだが、どう思う?」

「場合によるな」

「因縁と嫌がらせだ」

「それは怒るな」

「だろ? だけどよ、オレの仲間は……怒らなかった。怒ったオレにドン引きしてやんの」

「フフフ……」

「笑うなよ」

「いや、あんたが怒ったら、さぞ苛烈なものだろうなと思ってな」

「さぁ、自分じゃわからねぇ、でも、一緒に怒って欲しかった。そう思ってた自分が、なんだか情けなくてよ。もう何に疲れてるのかわからねぇよ……」

「青い宝石を失ったか」 

「あ?」

「いや、オレのいた故郷の星では、星の自転軸の直線上の近くに、大きく光る恒星があったんだ。それを、故郷では、青い宝石と呼んでいた。大気の関係で、ともかく南の空に、それはそれは大きな、南極星があったんだ」

「ああ、不動星か」

「それを故郷では青い宝石と呼んでいた。古代からの崇拝対象さ。決して揺るがず、光り輝き続ける」

「だが惑星の自転軸なんてコロコロかわるもんだぜ」

「まぁな、それで不動星もころころ変わるだろう。でも、オレの先祖達が生きている時代、南の空には青く輝く宝石があった……今も見れるんだろうが……今はもうその星が南極星ではないだろうな」

「青い宝石か。口説き文句みてぇだな」

「口説いちゃいないさ」

「ヘン……」

「兎も角、あんたはその青い宝石を見失っているように見える」

「そんなもの元からねぇよ」

「そうだな、だが誰だって、何か揺るがないものが欲しくなる時は、ある。拠り所が欲しくなる時がある」

 

 船長はふて腐れた顔でグラスを覗いている。

 其処には自分の仏頂面が映っていた。

 ゆらゆらと揺れる液体の波は、移ろう何かのようだ。

 揺らいでいるのは自信か、信頼か。

 

「青い宝石か。あんたは、もってるのかよ、そういったもんをよ……」

「……持つ持たないじゃないんだ。少なくとも、人にそれを望むのは、間違っている。人の心は星の軸より遥かに揺らぎやすいものだ。アンタは、隣人に重荷を背負わせ過ぎたんじゃないか?」

「……」

「決して手に入らないから揺らがない……そういう事もある」

「……」

「それにその仲間だって、怒ってるんじゃないか?」

「あ?」

「船を傷つけられて怒らない船乗りなんていない」

 

 船長は黙って氷をみていた。

 カランと音がして琥珀色の液体に透明な縞模様が混ざり合った。

 

「人は怒り方も、愛し方も、全部違う、だから時々、勘違いしてしまう。オレも昔は、青い宝石を信じてた。昔は仲間がいたんだ。スゴ腕の、信頼できる奴だった。恋もしたよ。でも、やっちゃいけないことをしてた。他人に自分の信頼のすべてを押し付けていた」

「それで……どうなったんだ?」

「別れたよ」

「今は?」

「最近久々に会ってしまってね」

「会いたくなかったみたいな言い方だな」

「まぁ、もう彼女の事を、きちんと見れない。彼女はオレにとって、青い宝石だった。別れてから、会わなくなってからの方が……都合のいい存在になっていたと知ったよ。会いたくなかった……正直」

「なんだよ、偉そうに。お前も他人に押し付けてんじゃねぇか」

「そうだよ。それで少し折れて。静かな場所を探したんだ」

「ふん、同“業”者ねぇ」

「フフフ……そうだ。同業者だ」

「ヘッ……」

 

 それ以上、喋らなかった。

 二人とも、酒をちびちびと飲み、浸み込むに任せた。

 そして船長は先に席を離れた。

 

「ありがとよ」

 

 ただそう一言、ゴーレムの背中に告げた。

 振り返らず、外に出た。

 追いかけてくるような無粋な奴じゃない。

 そう感じていた。

 ふぅーっと荒い息を夜空に溶かすと、彼女はソラを眺めた。

 そこには満天の星空が広がっている。

 あの星のどこかに、誰かの青い宝石があるのだろうか。

 

 『リンデ・ヴァル・クラーカ・ヌェリドキアス……』

 

 船長は自分の故郷の、失われた言葉を呟いた。

 彼の、青い宝石の話で思い出した。

 自分の船に、何故、彼女の故郷の不動星。

 北極星ヌェリドキアスの名前をつけたのか…。

 彼女の故郷の不動星もまた、美しく輝く恒星だった。

 

 ――宇宙において、不動星ヌェリドキアスは自分の進む先にある。―

 

 そういった意味だった。

 

(進もう)

 

 船長は心の中で呟いた。

 自分の愛する船。

 その名に恥じぬ船長に戻るために。

 ソラを漕ぎ出す旅人にとって進む位置こそ軸に等しい。

 真っ直ぐに進むと、そのはるか彼方で輝く星が、まるで不動星のように見えるものだ。

 自分は旅人だった。

 なぜ不動星ヌェリドキアスを人に求めてしまったのだろうか……。

 それも、守るべき部下に。

 信頼と押し付けは違う。

 少なくともその一点において、船長は自分の過ちを認めざるを得なかった。

 あのバーであった岩人ゴーレムは、今の状況の先輩のようなものだったのかもしれない。

 信じている。

 頼っている。

 それがいつの間にか腐りはじめて甘えになる。

 そういった人間を蛇蝎の如く嫌っていた自分がまさかそんな状態に陥るとは。

 

(同業者か……)

 

 いつの間にか船長の身体は温かい熱に満たされていた。

 それは酒で酔った熱でも、怒りの余熱でもない。

 それは魂のうちから漏れるまっすぐとした熱だった。

 真っ直ぐと進む推進力のための熱だ。

 

 (ありがとよ)

 

 改めて、口の中で呟いた。

 誰に届くわけでもない言葉とともに、船長は港に戻った。

 その足取りにはもう、先ほどまでの惨めな迷いは一切なかった。

 

 その頃、バーではヤンキーのような蜥蜴族の男がスレッジの横にズカっと座った。

 

「なぁ兄ちゃん奢ってくれよ」

 

 にこやかな顔をしたそのヤンキーは、まるで作り物のような皮膚をして張り付いた笑顔で笑っていた。

 一見すると若者だが、何か剣呑な闇を抱えたような覇気があった。

 徹底的に薄っぺらく、どこまでも絵にかいたようなパンクな若者。

 そのステレオタイプを完全に模倣したかのようなありきたりさが、あまりにもありきたりすぎて逆に超越した何かを感じさせた。

 

「お前か……見てたのか?」

「何を?」

「いや、いい。なんでもない」

「気になるネ」

「金になるような話じゃないさ。ただちょっと、隣の客と話をしてただけだ」

 

 そういわれると蜥蜴人の張り付いた笑顔が消えた。

 相貌がくりぬかれた闇のようになり、何かを貪欲に吸い込もうとしている。

 スレッジはその面を見て、彼もまた、そう生きるしかない人間なのだなと思った。

 自分にはない器用さがあるが、それでも凄まじい歪さを持っている。

 こうした人間が何かに混ざって生きていける場所等ない。

 彼もまた、城を作り上げなければ生きていけない人間なのだ。

 

「あんたが?」

「久々に人の言葉を聞いた気がしたよ」

「あんたがそういうんじゃ、堅気じゃないじゃないか。充分情報になるぜ、どんな奴だ?」

「売らんよ。楽しかったからな」

「女か?」

「くだらんな。そうした間柄の話ではない」

「ほーん」

 

 その男にはまだ詮索するような油断ならぬ気配があったが、それよりもスレッジは仕事の話を進めたかった。

 

「それより教えてくれ。今回の獲物の詳細を」

「うん……たまげるぜ?」

「お前が言うなら、相当な獲物なんだな」

「ここ一ヶ月の滞在で億単位の首を7人も捕まえてる」

「……随分無茶をするな」

「お陰でこの宙域、ちょっとした戦争が起こるぜ。マフィアのボス、その対立候補。政治犯。搬送業者。あらゆる方面の有権者が捕まってでっけぇ“権力の空白地帯”が出来ちまった」

 

蟒蛇うわばみのような賞金稼ぎだな。そこまでいくとちょっとした災害じゃないか。何人で仕事をしてるんだ?」

「それがよ、5人しかつかめてねぇ……」

「裏にもっといるのか?」

「しらねぇが実働部隊は5人しかいねぇ」

「……冗談だろ?」

「本当だ。そいつらヌェリドキアスって名前の戦艦でこの宙域中の首を潰して回ってる」

「誰を殺せばいい?」

「船長の女性だ」

「能力は?」

「掴めない。ただ……別宙域のつてで聞いたところによると、その女、アダマスと呼ばれてたらしい」

「アダマス?」

「不滅の宝石、アダマンタイトさ」

「不滅……?」

「死なねぇわきゃないだろうが、兎も角、やたら頑丈な奴らしい。もう一人、竜人族のゾディ・ジェゾって奴も厄介だ。元宇宙警察で、住んでたコロニーを宇宙怪獣にぶっ壊されてからずっと追っかけてるらしい。ヌェリドキアスのメンバーになるまでに一人で何匹も狩ってた化け物だ」

「メンバーは5人だろ? 他は」

「次に気をつけたほうがいいのはレックスとかいう奴だな。オレと同じ蜥蜴人で、超能力者だ。瞬間移動か何かの能力を持ってるらしい、兎も角すばっしこい。それと5年前からの経歴がぷっつりだ。多分偽名で、過去を清算してるな」

「後の二人は?」

「こいつらはねらい目だ。種族不明の餓鬼とライカンスロープの女だ。女のほうは少々やるようだが問題ない、どこにでもいるような常識の範疇での優秀な超能力者だ。つまり、取るに足らん」

「子供のほうは種族不明?」

「ああ、どこの辺境から拾ってきたのかしらねぇが、クラゲみてぇな体つきのチビだ。いつも今言った4人の内の誰かに守られている。こんな無茶な仕事してて、よくガキなんか抱えるもんだ」

「穴だらけな構成だな。少なくとも油断ならん気はせんぞ?」

「だがそいつらを敵に回した奴らは全員、換金されて今は牢獄の中だぜ?」

「ふむ……」

 

 スレッジは思案気に靄がかった暖色のランプを見つめた。

 

「……子供を殺すのはやめたほうがいいな。」

「ハッ。お前さんらしい意見だな」

「違う」

「何が?」

「それ程の実力者がもし、その子供に本当に愛情を注いでいるなら、絶対に殺すのは最後だ。最初に殺せば足枷がなくなる」

「ああ、成る程」

「子を取り上げられた鬼子母神と遣りあう気はない」

「だな、女はわけがわからん」

 

 スレッジは其処で黙った。

 それは女如何の話ではないだろうと思ったが、こうした人の心情を解しない欠落が自分にもある。

 彼と蜥蜴人は部分が違うだけで、五十歩百歩だった。

 だが昔は、この男と、スレッジと、スミはパズルのピースのようにがっちりと組み合っていた。

 欠落した穴や生きぬく上でとがらせた牙が、がっちりと組み合って、運命のように一つの生き物となった。

 だがソレも磨耗し、今は決してあの頃のようなチームは組めないだろう。

 だから彼らは独立し、今ここで一人一人として再会している。

 往年の齟齬にうんざりした気持ちと、何かにこの再会を感謝したい気持ちが複雑に絡みあっている。

 スレッジはそれを吐き出せず困惑していた。

 きっと皆そうなのだろう。

 スミと自分は二度と触れ合うことがない。

 眼前の蜥蜴人とスレッジ自身はこれ以上距離を縮める事がない。

 全てもう終わっている事なのだ。

 この蜥蜴人に名前はなかった。

 生まれたときからの名無しだ。

 スラムで育ち、生き抜くために情報を売り買いする、嗅覚を磨き、誠実さを嗜み、感情を伏せる所作を培った。

 この胡散臭い作り物のようなヤンキーの所作も男の本性ではない。

 そもそも昔は蜥蜴人ですらなかった。

 脳移植を繰り返し、今はたまたまこの身体なだけだ。

 前回スレッジが出会った時は赤色の蜥蜴人の体だった。

 もしかしたら蜥蜴人の身体が気に入っているのかもしれない。

 

「……青い宝石だな」

「あ?」

「……もう手に入らないんだな」

 

 スレッジはこの困惑を吐露した。

 それぐらいは、この男と自分は未だに心安い関係ではあったのだ。

 

「あんた、いつかオレのことをわけがわからんといったよな?」

「ああ」

「あんたも充分わけがわからん」

 

 そういわれるとスレッジは鼻で笑った。

 もう二度と青春は戻ってこない。

 殺伐とした青春だったが、それでも皆若かったのだ。

 彼が遠く過去に見つめる輝きは、二度と帰ってこない。

 過去とは不滅の輝きを放つ青い“アダマス”だった。

 何者もあの輝きを奪うことは出来ない。

 

「ありがとよ」

 

 不意にスレッジの脳裏にあの女性の声が思い浮かんだ。

 それがじんわりと湯気のように浮き立ち、あの姿が脳裏に現れた。

 異性としても魅力的な人物だったが、今、彼の胸に宿る熱は恋ではないのだろう。

 一人寄る辺がなく、彷徨って、似たような苦悩を抱える他人に出会った。

 そしてその女性はスレッジのように深く押し黙るのではなく、素直に吐き出し、怒っていた。

 その真っ直ぐさが羨ましかった。

 これはどこまでも内に向かう望郷の想いだ。

 彼は古巣に帰ってきた今が一番、古巣から遠い場所にいるように感じていた。

 だから、その切望は叶わないのだろう。

 その痛みを癒してくれる場所等なかった。

 諦めるしかない。

 

 だからこそ、あの女性と出会えてよかったと彼は思った。

 折れてもまだ自分の中にはあの女性と通うだけの何かが残っていた。

 枯れ朽ちても匂い立つ何かを感じた。

 久々の仲間と、久々に大きな仕事をこなす。

 それでいいではないか、と彼は心の中で頷いた。

 不動星の残滓が、まだ心の内で輝いている。

 

 (オレは充分に救われている)

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「……嘘でしょ?」

 

 銀色に輝く街道を歩くアテナは危機感を覚えた。

 雑踏に紛れてまっすぐこちらを睨む〝殺意〟を感じていたからだ。

 こんな雑踏で?こんな町の真ん中で?まさか本当にやる気なのだろうか?

 信じられない。危機感よりも先にあまりの現実味のなさが先だった。そしてその感覚をアテナは知っている。

 それは船長が怒り狂う時、先ほどのデッキを破壊した時。ジェゾが己の正義を行う時、粛然しゅくぜんとした執行の時。

 つまり、絶対的な強者が殺意を振りまいている時。

 それがアテナの味方であればただの大いなる面倒ごとの始まりに過ぎない。

 しかしアテナの敵が振りまくそれはつまり、アテナ側の死を意味する。

 

「っち……本当に冗談じゃないわ」

 

 アテナは再びつぶやいて舌打ちした。

 

「どうしたの? アテナ?」

 

 そういってトルソが不安そうにアテナの顔を見上げる。

 今、アテナは一人ではない。繁華街に向かい自動清掃ロボットを大量に購入しようとジェゾ達と別れたのだ。それがまさかこんな殺意に街のど真ん中でさらされるとは思っていなかった。

 まさかこの一帯にいる人間をすべて殺すつもりだろうか、それとも自分だけを殺す術をもっているのだろうか?

 そんなアテナの思考を待ってくれる筈もなく、刻一刻とその巨大な殺意は背後から迫ってきている。

 アテナはトルソとつないだ手をしっかりと握ると前を向き速足で歩き始めた。

 

「いくわよトルソ。 厄介事なの」

 

 そういうとトルソは一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐにアテナの顔色を見て察し、状況が切迫したものだと理解した。

 緊張した面持ちでコチコチと足早にアテナの後ろを歩くトルソ。

 アテナはトルソの身を案じた、この子だけは巻き込んではならないと。

 アテナは苦笑した。

 いつから自分がこんな人間になったのか、自分以外の人間を優先するような間抜けに……と。

 ヌェリドキアスのメンバーをいつもバカにしているアテナだが、そんなバカについて言っているだけの理由が自分にもあったのだとこんな状況になって気付いたのだ。

 「切迫した状況でこそユーモアさが必要だ」そんな事をジェゾが真面目くさった顔でいっていた時を彼女は思い出していた。

 信じられない事だった。今この状況で自他ともに認める自己中心的性格のアテナが、トルソの事をなによりも優先している。そしてその切迫は目前にきている。この人込みの中、やらかす気なのだ。本当に嘘のような状況だった。何もかもが宙に浮ついている。まるで重力装置をきった宇宙船の中のように。

 

「トルソ……」

 

 アテナはにやついた口元をそのままに眼だけを爛々と光らせていった。強く深い声音だ。

 トルソも緊張してピクリと動いた。

 アテナはいつの間にか静かに鼻で笑いを漏らした。

 その手から伝わるか弱い痙攣すら愛おしかった。

 不思議そうに見つめ、困惑に溺れかけているトルソにアテナは優しく目を向け言う。

 

「アレ、持ってるわよね?」

「う、うん」

「なら、一人で戻りなさい、いい? 全速力よ?」

 

 そういうとアテナは雑踏の中、最も人込みの多い場所でトルソと手を放す。

 二人は阿吽の呼吸で人々の中に紛れこみ、トルソは手製のフードを被ると光学迷彩によって透明となり、そのまま走り去る。アテナは堂々と街道を曲がり人込みから離れると足早に店舗の角に隠れた。

 

 殺意の気配が刻々と迫ってきている。アテナは黙って人垣を睨みながら腕のデバイスを「緊急支援要請」にスイッチする。これでジェゾ達にアテナの居場所と状況が伝わる。下水転移装置の犯人だろうか、あんなにも矮小な手を使うものが、ここまでの殺気を放って迫りくるなど彼女には考えづらい事だった。

 何者なのか、アテナはその姿を目に焼き付けようと人垣を、気配を殺して観察する。獣人であるアテナの嗅覚をごまかすことはできない、アテナは緊張から来たのであろう息苦しさの中、それでも殺意の臭気、その正体を探る。

 まだ遠いが、建物越しに確かにそれは止まった。アテナが隠れていることを見透かしている。何かがいる、人垣の向こう側、この店舗を隔てた向こう側に。

 

 アテナの能力は球体のシールドを生成することである。自衛はもちろん、獲物を捕獲する際にも使える檻にもなり、シールドに人を挟み込めば切断する凶器にもなった。不意の一撃で捕まえるなり、傷を負わせるなりして全力で逃げる。臭いを覚え、顔を特定し、ジェゾ達に伝える。それが自分の、ヌェリドキアスの船員としての務めだと感じていた。

 心臓が早鐘をうち頬の毛が逆立って背筋までうねる様だった。荒くなってくる息を抑え必死に機を探っていた。

 嗅いでいる臭気がどんどん濃くなるが相手は全く動いていない。何をするつもりなのか、バリアを薄く張って備えようと深呼吸したその時、アテナは異変に気付いた。

 殺意が濃すぎる。それは肌が触れるほど近く、吐息が耳を撫でるほどの距離。そして何より。

 

 ――息ができない――

 

「……カッ!」

 

 アテナは苦し紛れに振り向いたが、そこには何もいない。シールドを全開にしたアテナはそれでもなお続く息苦しさに焦りを覚え、一つの仮説に到達した。

 

(この能力は、毒っ!?)

 

 詰まる喉と漏れる空気の中、アテナは必至で人垣に突っ込み、臭いの元に突進する。そこには明らかに常人とは異なるオーラを放つ一人の海洋人の女性がいた。その姿は浴衣とドレスの中間のような衣装に金属の長いネックレスを纏った妖艶なものだった。

 アテナは唸ることもできない喉をグルゥオウと響かせその女の頭をシールドで挟み込んだ。

 凄惨な光景が広がるかと思われた次の瞬間、女の頭はまるで水に溶けた墨のごとくほんの一瞬ぶれ、アテナのシールドは躱された。完全に毒の能力だと思っていたアテナは血走った眼でその女性の胸元に自分の爪を突き立てようと刺突を放つ。しかしその女性はまたも蜃気楼のごとく一瞬ぶれ、その体内から何かが現れた。アテナはそれを自分の爪でめい一杯突き刺すと、唖然とした顔で涎を垂らし、片膝をついた。

 アテナの深々とつきささった爪の先には、トルソがいた。

 海洋人の女は、満足そうな笑みを一瞬作る。

 その後、急に悲壮な顔を浮かべると……

 

「キャーっ! 誰かーっ!!」

 

 雑踏は歯車に何かを噛みこんだかのように動きを止め、女に視線が集中した。

 

「この女! 子供を刺したわっ! 誰かっ! 誰かきてぇっ!」

 

 アテナは信じられないものを見る目でその海洋人と胸から血のにじんだトルソを見た。そしてついに目の前の色彩が失われ始め、体から力が抜けると倒れこむ。

 

「ハっ……ハガッ! グフゥゥ! ゥゥゥゥゥゥゥ!!」

 

 言葉にならない怨嗟の声を女に浴びせるアテナだったが、周囲の人垣はアテナを薬物中毒の女と勘違いした。アテナの口からは大量の泡が吹きこぼれ、目は血走り、のたうち回る様に女の服の裾に指を引っかけたのだ。それを人垣から出てきた中年のモグラ人がとっさに払いのけ、お嬢さんこっちへ! だれか警察を! と叫んでいる。

 そのすべての喧騒がアテナの耳を反響し、白む意識の中に溶けて憎しみと後悔の闇に混ざる。

 アテナはしてやられた。

 トルソを傷つけ、いや、殺してしまったのだろうか。

 それすら今の彼女には確認できない。

 空気を求めて肺が動き、アテナの体を激しく上下させる。それでもアテナの中にそれが満たされることはない。むしろ、超能力者であるアテナにとって、空気などなくてもよいはずのものだった。それが、何かが体に詰まったように充満し、彼女の身から精神を引きはがさんとしていた。

 遠方の胡散臭いネオンの光と空しい銀色の輝きがアテナを照らしている。

 人垣は割れ、そこには苦しむアテナの姿と、倒れこむ愛らしいトルソの横顔があった。アテナは怒りと苦しみ、そしてトルソの確かな温もりが宿る爪先から染み込む何かにたまらなくなって吠えた。

 そしてもちろん、その慟哭は、なんの音にもならず彼女の体の中で沈没させられた。

 

 

 ◆

 

 

 船長はその砕かれたエメラルドのような瞳に怒りの炎を纏わせて病院に現れた。

 アテナが緊急救援要請を出してすぐ、レックスが現場に駆け付けた時にはトルソとアテナは倒れ、死の淵を彷徨っていたのだ。現場の野次馬をひっ捕まえて恫喝するように事の経緯を聞いたレックスの言によると、アテナが急にトルソを刺し、そして泡を吹いて倒れたという。薬物中毒者の女が子供を刺したという証言に駆け付けたジェゾはすぐさま周囲の監視カメラのアクセス権限を請求した。事の経緯はすぐにわかるだろう。船長にとっては今、それよりも、クルー達の安否が優先だった。

 幸いトルソは急所を外し、四つある心臓のうち一つに少し傷がついただけで済んだらしい。医者はこのような種族を見たことがなく、ずいぶん戸惑ったようだが、なんとか止血と傷口の縫合を済ませ、安静にさせている。見た目とは裏腹にアテナこそ重症で、肺がぐちゃぐちゃに溶解し、人工肺に取り換える大手術が行われていた。

 二人とも珍しい体や症状で、勝手にサンプルを取ろうとした医者の知識欲に鋭敏に気付いた船長は、首根っこを捕まえ握りつぶすような膂力でつるし上げるとただ一言「助けないと殺す」といった。それだけですべてが伝わる程の恐ろしさだった。

 

「何があったんだ。わかる範囲でいい、説明してくれ」

 

 船長は溢れ出す怒りを鼻息で冷ますように荒々しく唸ってそういった。レックスはそんな船長をしばらく、注意深く観察した。デッキでの大爆発があったからだろう、迂闊にものをいう気にならなかったのだ。

 だが、船長はただ一言「侮るな」といい、レックスの杞憂を窘めた。

 レックスもジェゾもそれに頷くと、どうやら一連の下水騒動からずっとこちらは嵌められていたらしいという事の経緯を話した。船を足止めし、クルーを分断させ、抹殺をはかったらしい。

 別段、ヌェリドキアスには珍しいことではなかったが、相手は街のど真ん中でそれを実行し、アテナを死の淵の一歩手前までおいやったのだ。今まで相手にしてきた有象無象とは少し毛色の違う使い手らしい事がわかる。監視カメラの映像も資金にものを言わせてすぐさま手に入れ、デバイスで再現できるかぎりの3D映像がこれでもかと詰め込まれたデータストレージをジェゾが用意した。ジェゾがこのような手続きを蹴とばすような乱暴な資料請求を行うなど珍しいことで、それが緊急性の高さを物語っていた。

 船長はその猛禽類のような瞳で事の経緯を再現した3D映像を睨みつけると、アテナが人込みに突っ込んで、次の瞬間にはトルソを刺し、信じられないといった顔で通行人の女の顔を見たのを確認した。通行人の女は美しい顔立ちの海洋人で、驚きの顔を作ってはいるが、その瞳には狩人の嗜虐的な色が宿っていた。船長はそうした顔の皮一枚をめくったところの本性を見逃さなかった。

 

「うちのクルーで遊びやがったな?」

 

 底ごもった声でそういった。

 

「どうする船長、俺ならやれるぜ?」

 

 レックスはそういうと怒りに燃えた瞳で尖った耳をヒクつかせ、真剣な声音でそういった。普段は軽薄気味なひょうきんさで他人に接するこの若者も、その声音には確かな殺意を宿らせていた。

 

「いや、いい。オレがやる」

 

 船長はそういうと、一歩前に出て何かを言おうと口を開いたレックスに眼光を放った。

 

「街中でやらかした奴が病院でやらかさねぇわけがねぇ、お前とジェゾはここを守れ」

 

 そう、どちらにせよ仕事はあるのだ。

 

「オレが餌になる。確実だろ?」

「そりゃ、そうだけどよ……」

 

 憤懣やるかたなしといった態度のレックスに船長はいっそ悪戯っこのような笑みを浮かべた。

 

「お前の気持ちはわかってる。うれしいよ。ついでにオレを信じてくれ」

 

 その言葉にレックスは目を丸くした。

 普段船長はこんなことをいったりしない。信じてくれなんて言わず、黙って俺についてこなければ置いていくし、その後の事は知りもしないとうタイプの人間だ。

 そんな彼女が、自分に向かって信じてくれ、等と言う等……。

 

「船長」

「なんだ?」

「死ぬ気か?」

「バカいえ、やられるわけねぇだろ」

 

 船長はそういうとフフンと笑う。優し気な瞳でレックスを見つめた。こういう時この女性はどこまでも逞しい宇宙の船乗りだ。そこに慢心も油断もない。軽口を叩くのは余裕の表れではなく、芯が通っているが故に出てくるユーモアだ。切迫した時こそ、ユーモアが必要だ。レックスは癪に感じながらも確かな安心感を感じていた。それは大樹に腰かけたような、何か大きなものがそこにある安心感だった。

 と、そこに待合室のドアを勢いよくあけ、狭そうに潜り抜けて顔を出したジェゾが吠えた。

 

「おい! アテナが目を覚ましたぞ!」

 

 

 ◆

 

 

 一同はずかずかと病棟のうさんくさいぐらいに艶やかな材質でできた床を踏みしめてアテナのいる病室に歩をすすめた。船長の采配でアテナとトルソは同じ病室に移るよう手続きがなされたが、目覚めたアテナのまわりを警察が取り囲んでいた。船長はそのうちの一番立場の高い人間をすぐさま選り分け、そいつの首根っこをつまむと病室から放り投げた。

 

「なんだお前は!」

「逮捕するぞ!」

「何をしているかわかっているのか!」

 

 そんな言葉を放つ海洋人と獣人の警官をギョロりと睥睨すると、怯んだ若い警官たちに一言「失せろ」と呟いた。その一言にはこの先なにかが起こっても誰も保証してくれないような、おぞましい災厄の予兆が纏わりついていた。

 警官たちはすごすごと後ずさると「この件は後で本部に報告するからな!」と捨て台詞をはいて病室を出た。ジェゾの威圧や、船長とレックスの毛色の違う凄まじい殺気が彼らの頭に警報を鳴らしたのだろう。このような脳までタフに鍛えなければやっていけないような繁華街の警官にしては悟い素早さだった。プライドより経験と嗅覚が勝ったのだろう。

 「ふぅ」と息を吐いたレックスの後ろからか細い女性の声が聞こえた。

 

「……船長」

 

 アテナだった。

 弱弱しく、憔悴しきった顔で虚ろに天井を見ているのか、それとも誰かの顔を見つめているのかも判然としない。ただその風に揺れる麦の穂の如き動きで延ばされた儚い指先を船長は確かにしっかりと、優しく握った。

 

「ここにいる」 

「トルソは?」

「大丈夫だ。安心しろ。ちゃんとしっかり生きている。今は眠っているが」

 

 そういうとアテナの瞳から滴が一粒こぼれた。

 

「……ごめんなさい」

 

 それは、普段の彼女からは考えられないような頼りない声だった。震えておびえる一人の少女の声だった。殺されかけたからではない事を一同はわかっていた。トルソを、子供を、可愛らしい仲間を傷つけてしまった。その後悔が深い傷となって彼女の声音を変えてしまっていたのだ。

 船長は何も言わずアテナの髪を撫で、優しく頬の滴をぬぐった。掴んだ手をそのまま胸までもっていくとしっかりと両手で握りしめ、うつぶせになって少女の耳元に口を寄せた。

 

「まかせろ。もう大丈夫だ」

 

 アテナは思った、まるで母親のようだと。母親の愛情など彼女は知らないが、それでも母親とは、こういうものなのかと思った。そう考えている自分が急に恥ずかしくなり、何か照れ隠しをしようと枕に顔をうずめたが、そこから漏れるのはただ泣きじゃくる自分の声だった。心がバラバラになっている。トルソを貫いた指の感覚がまだ残っている。笑顔を見ると悲しくなる。声をだすと絶望したくなる。いま枕に触れている肌の圧が、自分の存在を知らせてくる。トルソを貫いた、アテナという女の存在を。

 

「……ごめんなさい」

 

 誰もが押し黙る中、船長だけは優しい瞳でアテナを見つめ、その頭を撫でている。しばらくしてレックスに警護を任せ、ジェゾと二人で廊下に出た。廊下に出るとそこには警官たちが待機しており、その数は増えていた。何人かが船長のあまりの美しさに息をのみ、その顔に侮りの影がさしてきていたが、ジェゾが咳払いをすると周囲の敵意は吹き飛ぶように消えた。

 船長は何も言わずレックスに、ごくごく自然な声でいった。

 

「じゃあ、いってくる」

 

 ジェゾもそれに何事もなかったように答える。

 

「ああ」

 

 ただ、それだけだった。

 それだけで、これから何が起こるのか、決定された。

 絶対的強者が鋼の決意で一歩目の足を動かした。

 このコロニーで今日何がおきようと、ジェゾは船長を責めたりしない。

 ただ、ここに立ち、警官たちを通さぬ門番のように突っ立つだけだった。

 昔はこうした無法者たちの所業に怒りを隠さなかったジェゾが、無法者の側になるとは。

 (お前らも気の毒になぁ。)そう思ってジェゾは警官たちを眺めて苦笑した。

 だが警官たちがそこに見たのは一匹の怒れる竜が嗜虐的な笑みで矮小な存在を睥睨する姿だった。

 そう、彼らは気の毒だった。だが、これからもっと気の毒なことになる人間がいることを、彼らは知らない。

 最もそれは、狩り人の世界では自業自得だった。

 獲物との力量を間違えれば、厳然たる摂理が公平な傾きをもたらす。

 ただそれだけの事がこれから起きるのだ。

 

 

 ◆

 

 

 暗がりに銀のブロック体輸送ポットが浮遊する中、3人の影が幻想的な銀の輪郭に沿って照らされていた。

 一人はゴーレム族、一人は蜥蜴人、一人は海洋人だった。

 

「なぜ勝手に行動した!」

 

 スレッジは叱るように質問した。人のいない倉庫にその怒鳴り声が反響した。それに対してスミはただニタニタと笑い一言「美味しそうだったから」と答えた。スレッジはため息をついた。昔の女だ、その気性は知っていた。自由で残酷で、好奇心と純粋さが悪逆たる魂と一体となっている。こんな女と惚れた腫れたを楽しんでいた自分もまたおかしな人間なのだろう。付き合いきれないのに、今もまだこうして付き合ってしまっている。断ればよかった仕事を、今もこうして断らない。一蓮托生の船ではないのに、スレッジは下りない、そこに彼女がいるからだ。

 彼女はスレッジを「好きだし、嫌いだ」といった。スレッジ自身もそうなのだと、いまさらながらに気付いた。自分の事が一番好きだし、自分の事が一番嫌いだ。だから揺らがないものが欲しい。青い宝石が欲しいのだ。不動に輝く南極星が。だれもが不動の星を求めている。手の届かないところにあって渇望させるものを。

 

「あの女の「嘘?」って顔ったらなかったわ」

 

 スミはひとしきり愉快そうに笑うと「しばらくおとなしくしてあげるわ。私はもう十分遊んだから、協力してほしかったら連絡して」といい、いつものように空間に混ざり消えた。しばらくして「子供に手を出したのはまずい」と、同じくスレッジの古い知己が言った。「女はわけがわからねぇ」とも。今だけは、スレッジもそれに同意だった。

 だが、苛烈なスミの印象はスレッジに一つの憧憬をもたらし続けるのだった。自分と違い、どこまでもつきすすむ危うく美しい女性。自分のような鈍重さのない軽やかさに惹かれ、そして翻弄され、疲弊し、折れ、それでも愛おしく思い、また憎んでいる自分がいる。スレッジにとっては男だって、わけがわからなかった。

 

 

 スミはその日上機嫌だった。あの蜥蜴人の情報によると、女も子供も死亡には至らなかったようだが、それでもあの獣人の女の絶望に満ちた顔を見たとき、自分の嗜虐心のすべてが満たされていくのを感じた。目の前を見るとヒトの老婆が重い荷物を持って道路を渡っていた。スミはかけよってその老婆が急な斜面の坂を上るのを手伝ってやった。老婆は感謝したが、スミはそんなものに価値を感じなかった。ただこの万能感の余波として、スミは人助けをするのが好きだったのだ。人を殺した後は、誰かに優しくしたくなる。スミはそういった性分の女だった。もしかしたら罪悪感から逃れるためなのか、それともやはりこの満足感がなせる余力か、スレッジはいつもこの女に聞きたがっていた。その慈母のような笑顔と行動は一体どこからくるのかと。決して留まらず漂う千差万別の立ち振る舞い。それがスミの魅力であり、スレッジの愛した女のすべてだった。だが、スレッジはその不可思議な魅力をついぞ解明させることなく終わるのだ。スミはその日死んだのだから。

 

 スミは上機嫌で喫茶店に入ると、好みの紅茶を頼み空いている二人用テーブルに腰かけた。相変わらず外は嘘くさい銀とネオンの世界だったが、そこから隔絶されるように木材で建設された内装のこの店は、スミの趣味にあった。と、女が一人、スミの後から入ってきた。それはハイヒールも履いてないのに180cmはあろうかという長躯ちょうくの女性だった。それが、行き成り、スミの前にどかりと座った。注文もとらず無表情にスミの驚いた顔を覗いていた。

 

「……なぁ、何が楽しかったんだ?」


 女は真顔で、スミに尋ねた。スミは、なんのことをいっているのかわからなかった。女からは何も感じなかったからだ。脅威も感じなければ弱者の弱弱しさも感じない。何か虚無の塊が黒々としたコートを羽織ってやってきたような、そんな印象だった。そこでやっと思い至った。スミが最高に楽しかったことなんて最近じゃ一つしかない。あの女の顔。子供の腹に突き刺さる爪の鈍い音。スミはそこまで悟ると、優し気な笑顔で答えた。

 

「すべてよ」

 

 目の前に聳える金髪と翠緑の眼球を持つ女は、何かを吐き出すようにスーと鼻息を立ててスミから目をそらして店を眺めると、もう一度スミに目を合わせた。

 

「お前を殺す」

 

 スミは笑った。


「ここで?」


 そうバカにしたように返すと女は至極真面目な顔で「そうだ」といった。「私の真似? 人のいるところで騒ぎを起こして、楽しみたいのね」そういうと女は「違う」といった。


「お前の事は調べさせてもらった。どこにでもいる。ありきたりな、人に迷惑なチンピラだ。そんな奴が私たちに手を出して、成功したことが許せない」


 女はさもつまらなそうな顔でスミを眺めてそういった。スミはそれが悔しさからくる罵倒だと思って笑った。美しい笑顔だった。実際女は悔しいと吐露しているのだ。

 

 スミには余裕があった。スミの能力、空間に溶けこみ溶け込んだ分だけ侵食する。女の気付かぬうちにスミは女の周囲に自分を溶かしておいていた。いつ女が襲ってきても、それよりも早く、女の吸い込んだ溶けた自分が猛威を振るう。肺に、心臓に、そう、もう既に女のすべてがスミに浸された状態だったのだ。少しでも女が動いた瞬間、心臓を止めてやろうと思った。いや、少し余力を残させて苦しむさまを見るのもいい。そう思った瞬間、スミの視界は天井を仰ぎ見ていた。見ると女の手が自分の喉に突き刺さり、自分の首から大量の血が噴き出していた。スミが驚愕の表情を作る中、女は無表情のままスミの頭頂部を鷲掴みにし、自分の側のテーブルにおいた。スミがみたのは、首から上がすっぽりと消えて血を噴き出している自分の体だった。喫茶店の客達の悲鳴が響く中、ただ自分の首のない美しい肢体が心臓のリズムに合わせて血しぶきを噴き上げていた。

 

 船長のそれは、あまりにも無造作な所作だった。洒落たカップに血がかかり、紅茶に混ざり合って毒々しい色をつくったのを眺めながら彼女は言葉をつづけた。


「お前は開放感の虜だ、何もかもを支配していると思っているんだろうが、ただ自由に隷属している人間だ。一瞬の自由に頭を垂れる畜生だ。決して船乗りじゃない。本当にくだらない存在だ」


 まだスミは死んでいなかった。ただ黙って船長の言葉を聞くしかない置物にされたのだ。それもあと数秒の話だろう。

 

「何かを殺すことは、営みの一つだ。楽しいだけで終わる行為じゃない。お前は、楽しさしか感じなかったんだろう? これが本物だと思ったんだろう? こうしているときこそが、自由なんだと、現実からの開放だと」


 スミはもちろん、答えない、答えられない。何故だとスミは自問していた。確実に心臓を浸していたのを感じた。握りつぶせるはずだった。なのに、この女は止まらなかったのだ。それに空間に溶け込んだ自分をどうやって掴んだのだろうか。スミはただ、疑問だけを感じていた。次第に襲ってくる絶望の影におびえながらも、それだけを考えて逃避した。

 

「お前はくだらない存在だ」

 

 船長は繰り返した。

 スミはついに、その心中の絶望を顔にも表すようになり、そこで表情は動かなくなった。スミは死んだ。

 

 

 

 

 

 船長は血の混じったカップを持ち、スミの頭にゆっくりと垂らすと、カップをスミの紅茶に濡れた生首の横に置き、席をたった。

 血まみれの女がずかずかと喫茶店のカウンターに近づいてくる。店員はかわいそうに「キャァ」と悲鳴をあげると膝が砕けたようにしゃがみこみ、失禁していた。それを無視して船長は自分のデバイスから口座番号を入力すると、店の振り込み装置に店丸ごと一店舗ぶんに相当する値段の金を送り込んだ。女は悲壮な顔で店舗に振り込まれる金額の表示が上昇していくのを見ていた。船長はそれもまるで見えていないかのように血まみれのまま緑色の眼球をギョロつかせて店員に告げた。

 

「迷惑料だ」

 

 その後、店をでると船長は歯を食いしばり怒りの形相のままに唸り吠え。体の不快さをすべて唾液に詰め込んで吐き出したかのように糸をひく涎をたらした。まるで狼が唸るような震えをつくり何かを発散させると深呼吸し、大量に立ち上る湯気の中一人ネオンの輝く闇夜の中に消えた。

 

 そう、くだらない存在だったのだ。

 船長にとって、殺さなくてもいい女だった。美しさもあった、無邪気さも感じていた。そこに魅力もあっただろう。船長の家族に手を出してさえいなければ……。

 

 船長は許すことのできないものを諦めるほど寛容でも鈍感でも狂信的でもない。そしてそうしたところに逃げ込む必要に迫られるほど力の弱い存在でもなかった。ただそれでも立ち向かわなければいけない焼けつくような後味の悪さと怒りは感じていた。それらは胸中で混ざり、何物にも形容しがたい膿となって身の内に巣食うのだった。自分の本性を知っているものは、どちらにせよ、諦めなければならない。晴らされることのない心とは魂そのものであり、それこそが永遠に自らを捕らえる熱の蠢く牢獄なのだ。そして彼女は確かにその牢獄の堅牢さを噛み締めていた。

 

 

 ◆

 

 

 ……その日、一人の狩人が死んだ。

 その狩り人は、決して褒められた人間ではなかった。だがそれでも、ある男にとっては大切な、かけがえのない存在だった。

 

「……スミが死んだ……」

「知っているよ。オレぁ情報屋だぜ?」

 

 二人は夜道を歩いていた。空に輝く航空ガイドホログラムにそって宇宙船が無数に行き来している。

 ネオンの輝く胡散臭い街に吸い寄せられる蛾のように多くの船が飛び交う。あの一つ一つに人生があり、そして今日、スレッジにとって大切な一つの輝きが消えた。

 スレッジは空を見上げて考えた。自分にとって、スミとはなんだったのかを。やはり、会うべきではなかったのではないか、と。会ったから、気付いてしまった。どこかよそでスミが死ねば、若気のいたりで愛し合ったくだらない殺戮者と断じて心の整理をつけられたかもしれない。だが会ってしまった。声を聴いてしまった。あの温もりを彷彿とさせる香りを嗅いでしまった。まだ、あの頃の香水を愛用していたスミ。首にかけられたネックレス、いかにも彼女の好みそうな、趣味の良い飾り。

 スレッジは、後悔とも悲嘆とも似つかない虚無を感じていた。

 

「オレはしばらくこのコロニーをずらがるぜ」

 

 蜥蜴人はスレッジにいった。相手が悪すぎたと。

 喫茶店で並び立ったその女はスミと剣呑な空気で話し合い、次の瞬間にはスミの首をもいで鷲掴みにしていたという。

 とてつもない使い手だ。この宙域指折りの実力者であるスミを一撃で倒したその女は尋常ならざる化け物だろう。だがスレッジは言った。

 

「オレは残るよ」

 

 蜥蜴人は「正気か?」と尋ねたがスレッジは「スミとの最後の仕事だからな」と言って空を眺めるのをやめた。

 銀色の伸縮性建設材が際限なくコロニーを整備し続けていくこの街で、きっとスミの事件もいつか忘れられて消えていく。銀の鏡面をすべるネオンの光のように、二度とそこに映ることはない輝きとなって。

 蜥蜴人は無粋なことをいう人間ではなかった。「最後にこのコロニーでお前らと仕事ができてよかったよ」そういってスレッジに握手を求め、彼はそれに答えた。

 感情や思いやりの欠落したような蜥蜴人だったが、それでも余計なことをいうバカではない、スレッジはそこが気に入っていた。気遣いともとれるような淡白さ。ここで3人でバカをやっていた。無茶苦茶だった青春。若気の至りを繰り返し、いつしか輝かしいものとなった過去。スレッジにとって痛みさえ伴う儚さが、この胡散臭い銀とネオンの街には確かにあったのだ。

 

「これがそのアダマスって女の顔だ。餞別だ。経歴もできるだけ洗ってみた。やるよ」

 

 蜥蜴人はそういってストレージを渡した。スレッジはそれを黙って自分のデバイスに突っ込みデーターを見て、絶句した。「じゃあな」と蜥蜴人は言った。挨拶は返さなかった。目の前に見える翠緑の眼光がスレッジを見つめているようだった。

 

アダマス不滅の君か……だが……エスメラルダ迷い人じゃないか……」

 

 スレッジの見つめるデバイスの奥に映る女性。その瞳のエメラルドのような輝き、蛇のような眼光。輝きを見つめすぎた盲目の蛇。力の唸りを押さえつけ続けながらうねる黒々とした迷い。伝説に出てくるグリフォンやキマイラのような、鷹や獅子、蛇を思わせる猛々しい女。

 

「お前だったのか……」

 

 スレッジは力なく笑った。

 何かがしっくりきてしまった。

 愛の意味、その片鱗が心を撫でた気がした。

 スミへの愛の残滓が、確かにそこにあった。

 

 

 ◆

 

 

 夜の街並みの中、銀の橋を渡りながら船長は熱を冷ましていた。

 このような熱を、船に持ち込みたくなかったし、このような顔をアテナ達に見せたくなかったからだ。

 「用事は済んだ」そう船員たちには連絡しておいた。するとレックスからも「スジは通しておいた」と返答があった。

 船長は物思いにふけりながら夜闇を彷徨った。今回の一見、下水転移装置から何まで、裏で糸を引いていたのは大物だったらしい、スジを通すで済ませたという事は、潰したら他所からちゃちゃが入る程の大事になるという事だろう。それでもスジは通したとレックスはいった。きっとジェゾが何かしらの手続きを踏んだのだろう。「蜥蜴人の情報屋が今夜、宇宙船で事故って死ぬ」レックスはそういった。だからきっと、そうなるのだろう。「それで手打ちだ」そうジェゾもいった。それがスジなのだろう。デッキのクルーの中にもそうした工作員がいたのかもしれない。だが追及はすまい、すべては済んだ。こちらも好き勝手に暴れた。相応のものは示したのだ。

 何にせよケチのついたコロニーにはあまり長居したくない気持ちもある。酒を一杯ひっかけて帰ろう。船長はそう決めた。

 そうして船長がコロニーの区画を分ける外壁を通る一本の細道を通り抜けた時、一人の男が立っていた。船長は唖然とした。

 その男は見知った男で、そして明確な殺意、いや、殺意に近い覚悟を持って立ちふさがっているからだ。

 ネオンに照らされたスレッジの悲痛な顔を見て、船長はすべてを悟った。

 

「……そういう事か」 

「……そういう事になった」

 

 二人は呟くように言葉を絞り出した。

 あまりにも気まずい空気が二人の胸中のなかで膨れ上がり、町のうすら寒い輝きに船長は戸惑いが暴かれるような息苦しさを感じていた。

 

「なぁ、あんたの、その」

「わかっている、自業自得だ。これから起こることも、どちらが残るにせよ、同じ事だ」

「最初から絡んでいたのか? オレにあったのも……」

「違う、偶然だよ」

 

 船長は黙った。一瞬泣きそうな顔になったかと思うとハッと強く息を吐いて地面を眺めた。

 

「やめようぜ。オレは……嫌なんだ」

 

 数舜、それは無限とも思える空白だった。

 そして、スレッジは答えた。

 

「……そうだな」

 

 その返答に同意はあっても賛意はなかった。

 それはつまり、そういう事なのだと船長は悟った。

 噛み締めるような沈黙が舞い降りた。

 夜空に溶けてしまうような、覚悟のつぶやき。

 二人の間にはよそよそしい航空ガイドレーザーの光の明滅が時折泳いで行った。

 その明滅が、頼りない二人のシルエットを浮き彫りにした。

 

 三度みたびそれが繰り返されたかと思った瞬間、スレッジは動いた。街中では何か大きな爆音が遠くで響いた。どこか遠くで何か大きな力が破裂したのだ。歯車時計の部品のように通行していた人々ははっと生き物の本能をよみがえらせ、一瞬、身をかがめて怪訝そうに空を眺めた。何も変化がなくそれが逆に、人々にとって空恐ろしかった。あるものは端末を眺め事件の最新ニュースを見ようと何度もデバイスをいじくっていたが、やがて何の知らせもないことが判ると不安そうにしながらもまた雑踏の一部となって消えていった。「なんだったんだろうね?」「すごい音だったね」そんな爆音の余韻を人々は口々に話し合っていたが、やがてそれは仕事の話や家庭の話、新しいモデルの服や家庭用品の話に変わっていき、やがて過ぎ去るネオンと同じようにその色を変えていった。

 

 数時間後、その爆音すら届かないほど分厚い扉に守られた、隔絶された静謐の空間があった。

 地下にあったそのバーは、二人が最初に出会った場所だ。

 バーテンダーは人々が爆音に騒いでいたことも知らない、伸縮するコロニーの揺れが起こったかと思っただけだった。いつもの仕事をいつもの心構えでこなしていた。しばらくして、そこに一人の女の客が現れた。

 バーテンダーは女の顔を覚えていたようで、「またお会いできてうれしいです」といった。

 女は不機嫌そうにテーブルを眺め、どかりとすわるとしばらく黙っていた。

 その頬には煤のようなものがこびりついていた。まるで近くで何かが燃えたかのようだった。だが、女性にやけどはなかった。服にもそれら煤がこびりついていたが、女は気付くことなくここまで来てしまったようだ。目が虚ろで、バーテンダーは彼女の瞳が悲し気に潤んでいるのを確かに認めた。注文がくるまで黙って待とう、彼は気を利かせた。たっぷりと十分はたったのち、女のカラカラに乾いた声がバーテンダーの耳に届いた。

 

「ブルームーンをくれよ……」

 

 ――弱弱しい声だった。

 

青い宝石ブルームーンをくれよ……」

 

 そのつぶやきは、疲れ切った旅人の魂が、空気に溶ける音だった。

 

 

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ソラは銀、旅はアオ。 山本寥 @Yamatori_thinker

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