群青(格闘家の物語)1
鈴木タビト
序章 命の価値は?
1
ひとりの男の影(しかし厳密には空気の流れ)が揺れたかと思うと、目の前の3名の武装したカラーギャングの一員が地に伏した。梟(ふくろう)と、しじま。かぼちゃと、オレンジ色。針と糸。
「悪い者は俺も同じだ。だが、ヒーローが俺は嫌いでね。果たして武(空手)を持たない正しいだけの人間が、持つべき武力を持たないとき、そこに正義はあるか? 答えは、NOだ。俺はそして、ヒーローではなく、悪人に近いヒールだ」
空手着が、ほんのりと上下する。
空手の極意は、3つ。
1、マシンガンには、3割勝てない。
2、日本刀には、5割勝てない。
3、弱いものを守る強さを持て。
以上だ。
森・禅十朗(極心カラテ)
「残念だ、禅十朗。おぬしには未来まで続く、絶対的な価値が必要だ」
黒猫の鍵尻尾(かぎしっぽ)が、左右に振れた。
その黒い猫の名前は、ミミ。
「ったく。お喋りな(森はそこが気に入っている)猫だ」
森が、天空を仰ぐ。
と、1人の白い天使の格好(宗教服?)をした少女が、廃墟のビルの屋上から飛び降りた。
「救うぞ、禅十朗!」
「ああ、問題ないっ!」
加速する森。全身の身体能力は一般人男性の、300倍。ガードレールを軽く跳躍。ミミも続く。
廃墟のビルが高速道路の向こう側に見え、少女が落下中だ。時速80キロは超える車の群れ。
「待て!」
ミミが制止するが、森は考える前に体が動いていた。海老で鯛が釣れるなら、俺は、そのリールの先の糸を断つ魚だろう。逆説が大好きだ。
スカイライン(日産)の車の屋根を、走行中であるにもかからわず、跳ねるように蹴足。咆哮し、車の塗料を靴底(ローテク)で剥ぐ。車のスピードが、森の体を飲み込むかに見えた、そのとき。
ぐしゃり、と、車の屋根がぺちゃんこにへしゃげた。
大ジャンプ!
ゆうに、10メートルは、飛ぶ。
森が、バランスを大きく崩しながら、少女を、屋上から飛び降りた彼女を、キャッチ!
抱き止めながら、森が横転、ポリバケツに大破。
が、少女は無傷だ。
ポリバケツの中身のごみを頭から被る、森。
汚い生ごみだらけの中で、奇跡的に。
そう、彼は、ひとを救ったのだ。
2
「絶対的な価値、か」
森が、自宅へ戻ったとき、部屋の異臭に気付いた。台所の排水溝が腐っている。台所用洗剤(クレンザー)を使い、丁寧に亀の子だわしで、擦ってみる。受け口のドブみたいな黒い塊は、いまどき珍しい真っ黒なごみ袋に棄てた。
掃除はいい。
リアル(現実)を感じるからだ。
どんなに綺麗な設定でも、綺麗過ぎると意味がない。
排水溝の中身すら触れられない世界に、価値はない。
「何処に行けば、俺は武(空手)を貫けるか。その意志とその足で、何時になれば勝利を手に出来るか。格闘家とは、いわば、悪役ではなく悪人。だからこそ如何に自分が正義を胸に所持するか、如何に自分が人徳を公(おおやけ)で所持するか、ただ、それだけだ」
足元の黒猫、ミミが森にすり寄る。
「禅十朗! おぬしは女性が嫌いか?」
「ああ、嫌いだ。当然だ。俺は女性向けティーンズ雑誌が特に嫌いでね。よくよく考えると女性に媚びる弱い男に、空手は似合わない。受け身であることは正義を貫けないヲカマの戯れ言だ」
「ふむ。おもしろい」
「人間には裏の顔がある。表が建前なら、こちら(いまの森)が、裏の俺さ。男性が男性に憧れを抱く。その点が俺の生き様でね。女に尻尾振って生きて、弱い女に守られて死んだ男に、同性の誰しもが認めてくれる正義も人徳も、そこにはない」
冷蔵庫を森が開く。
中には冷蔵庫満杯の牛乳。
牛乳と生卵を徹底的に片っ端から飲み干す。
「素晴らしいな。わたしはメスだが、森こそ世界一の格好いい男だと、謙遜なしに褒めよう」
ミミが、ごろりとフローリングに転がる。
コウリュウノクイ。
中国の諺(ことわざ)だ。
いまだにそれがどういう意味の言葉か、なんとなくしか思い出せない。
一撃のドラゴン。
城西のハヤブサ。
それこそが森の愛称。
女に媚びるほど、軟派に生きるほど、森は弱くない。
圧倒的な身体能力で叩き潰す。
森の生き様の極意だ。
3
確かな足取りは軽やかに、ひとりの学生がアイスクリーム(サーティワン)を齧る。アーケード街を抜け、クレーンゲームの前に座り込む。200円を投入して、ゲームセンターの縫いぐるみ(リラックマ)を取り損ねた。
短ランに、赤いシャツ。下はノーマル。
改造した学ラン。
「あ、先輩! 森さん、お久し振りです!」
「確か、君は?」
「帝京の三越隼人です」
不良。
ワルの巣窟であるゲームセンターにおいて、森は、顔が広い。今日の森は、空手着ではなく、格闘家らしく上下ともスポーティーなジャージで通している。
森とミミの後方で、三越が一礼した。
ミミがぼそりと呟く。
「おぬしも、ああいうグレた時期があったの?」
「まあ、グレる子供も、ナチスの思想に洗脳された人殺しの大人に比べると可愛いもんだ」
返答する、森。
どうやら、三越は森を慕っている。
空手(武)の体現者である森という存在は、不良(三越)から見たのなら情景してしまうくらいに憧れるモノだ。喧嘩の強さだけではない。
と、スマホ(携帯電話)が、鳴った。
2度めの着信音で取る。
そういえば、着うたなんていうものが昔あったが、廃れたいま、何処へ行ったのだろう。
ジョシュ・バートネン(UFC)
「ハロー、ミスター・森! 目の前の車を見て下さい。ワタシがいます」
「すまない」
ジョシュがエルグランド(ワンボックスカー)の運転席から手を振った。熊のような嫌われ者の肉体。まさに、アメリカのMMA選手の輝きだ。
車に乗る。
ミミが、ゆるやかに後部座席へ鞠のように弾む。
ジョシュが、森に語りかけた。
「ワタシの未来は、自分のためにあるのではなく、アメリカのためにあります。家族、ワイフ(妻・嫁)、そして、友情。ワタシは失いたくありません」
森とジョシュが、がっちりと握手する。
誰しもが、誰しも。
全てを失いたくない。
9・11の悲劇。
テロリズムで、5千人以上散ったアメリカ国民。
これ以上。
失うのではなく、なにかを得るために。
なにかを、手にするために。
ジョシュが笑いかけた。
その笑顔に、何処かしらモノノフ(騎士)の強さを見る。
4
フリーメイソン。
秘密結社たる、このカトリック中央協議会。否。厳密には邪教徒の悪の化身は、社会悪として世界を混沌へ、破滅へと追い込む教義ゆえに、彼ら彼女らは、教義こそ全てであり、教義から外れた人間を手前勝手なエゴで虐殺し、鏖殺(おうさつ)しようとしたカルト団体だ。
別名、鏖(みなごろし)。
この、鏖(みなごろし)の教義の内容は、とてもここで説明は出来ないくらいのひどいものだ。
例えば、児童ポルノ。
例えば、弱者への虐待。
例えば、自殺の擁護。
そして、他殺の肯定。
メンバーは。
ホセ・アルバレス。
トマス・D・アルマ。
モデスト・ペレス。
パウロ谷川。
フランシスコ・松井。
ヨセフ福本。
F・ザビエル宮崎。
計、7名。
ジョシュが、憎しみを込めた瞳で、7名の顔写真を眺めた。彼ら彼女らは皆、世界の掟を、宗教の掟を、合法でありながら非合法に貫く、悪徳集団だった。
ジャージの上下を着た森が、神に祈るかのようなポーズで空手式の黙祷を行う。
神など祈る人間こそ、過ちを犯した人間だとでもいうように。
全ては、全て。
神に、捧げる。
全ては、全て。
神に、捧げる。
全ては、全て。
神に、捧げる。
全ては、全て。
神に、捧げる。
全ては、全て。
神に、捧げる。
そう。大切な子供と、その子供のおもちゃを、殴り蹴り横取りし、おもちゃではなく、子供が悲痛に嘆く姿を見、そのあと、ゆっくりと嘲笑い手足をもぎ取り殺害に至る経緯の世界を、カトリック中央協議会は、神に捧げるの合言葉の下、きっぱりと全ては、全て、執り行うのだ。
5
はっきりとした太陽の声は、たぶん、本当は水色だと思う。ミニストップのソフトクリームは、220円で、なかなかこのアイスも安くなったものだ。遊園地で食べるソフトクリームも格別だが、今日はコンビニの出入口でいい。
深夜なら1人で食べるソフトクリームも、昼間だから2名と1匹で仲良く食べる。1つのソフトクリームを3名で食べるのは、変だろうか、森は軽く笑いながらスプーンでひと口、口へ押し込んだ。
「ところで禅十朗。かの宗教だが?」
「ああ、知ってるよ、ミミ。俺はその宗教団体を潰す前に確認をする。絶対的な悪は本当にいるのかについてを、だ」
「ふむ、おもしろい。存分に調べろ。わたしは勘違いで人間を殺める人間が嫌いだ。ライオンや狼ならまだしも、人間には理性がある。ライオンや狼は無罪ではあるが、人間となるとそうはいかん!」
「ワタシもそう思います。悪は、ミスター・森、確実に世界にはいます。断言します。しかし、その悪が、仮初めなら話は別です」
ジョシュが、ソフトクリームを、最後のコーンを囓った。恋人でなくても恥じることはない。友達とソフトクリームを食って悪いわけがない。
社会は変容だ。
この社会が変なのは、イメージの差だ。
ソフトクリームを、しかも1個のアイスをなにが悲しくて毎回恋人と食うことが綺麗で美しいのか?
だからこそ、友達と食う。
食ってみる。
食ってみてから考える。
ソフトクリームは、所詮、恋人なんかより下位だ。
アイテムに過ぎない。
たかが偏見の壁を破れない奴に、空手家の黒帯を巻く資格はない。
「うまかったな、禅十朗」
「ミニストップも、おいしいものでした。ああ、ソーリー。日本語は合ってますか?」
「大丈夫だ。日本語は言葉じゃない。伝わることだ」
エルグランド(今日は洗車済み)に、森とミミが乗り込む。
ジョシュが運転席で、ハンドルを握った。
クラクションの鳴り方を、一度試してから。
宗教団体へ、乗り込む。
「ちなみに、ミスター・森。悪とは、どういうものを想像していますか?」
「殺人、だ。推理小説は得てして、本当に、読んでいる人間が他人の死に対して、寛容になり過ぎる。全てが悪いとは一概には言えないが、悪でもある」
「六面ダイスですね」
にこやかにジョシュが返す。
6
とんでもなく大きいものだ。
森が、ミミを見てから、ふと呟いた。エルグランド(黒の)のパワーウィンドウのスイッチを押す、ジョシュ。
とんでもなく大きいものだ。
「どうした? 禅十朗!」
黒猫のミミが不思議そうに訊く。
「とんでもなく大きいものが、目の前に迫るとき、ジョシュ、君ならどうする? 頼る誰かはいるが、そんな強敵に対して、絶対的な価値を見出だすには、俺たちは若過ぎる」
「ヘイ! 簡単な疑問点です。ワタシたちはこの世界において、人生を、個人的にでも、例えばミスター・森が望むのなら、それは大変難しいことばかりです」
「難しいネイティブだな?」
「ソーリー。要するに、簡単であることほど難しく、難しいものほど簡単である。これがこの世界の真理です」
「禅十朗、宗教団体の扉(立派な門構え)が開くぞ!」
観察力に秀でたミミが会話を遮る。
宗教家のひとりの影が見える。
F・ザビエル宮崎だ。
宮崎は、宗教団体の幹部のメンバーだが、痩せ型で、顔の彫りが深い、まだ若い人物だったが、今日は不思議なことにやけに白いスーツケースを持っている。
エルグランド(アルミホイールの)を停車させ、エンジンを切る。車から降り、第2サティアンと呼ばれる建物の裏口へと回る。森とミミと、ジョシュの3名が宗教団体の教壇内部の手前、裏側にある黒い柵を目にすると、なにやら宮崎が、けたたましく笑った。
「はっはっは! あなた方は神を信じるのですか? わたしは神を信じます。そこの愚かな愚かな無神論者の3名に質問です」
「失礼な、わたしは猫(独特な形の鍵尻尾の)だ。3名ではない。2名と1匹だ!」
「それはそれは、失礼致しました」
かは、かはと喋る宮崎。
7
宮崎がなにやら水晶玉を手にした。エネルギー体が生まれる。紫の思念。赤い発光が照射。明滅する心。
パツンと耳をつんざく音がする。
爆発。
刹那、建物の黒い柵が炎上。
黒い炎だった。
別名、ザ・ハント・ハロー・ハンド。
HHH。
宮崎の能力名だ。
手品師のように宮崎が、宙を舞う。
ミミが、尻尾を3度、左右に振りながら地面へ伏せる。
ジョシュは宮崎の左に回り込み、森が後方へ跳躍する。
爆発。そして炎上。
アスファルト(スクールゾーン)の、表面が黒い炎に覆われ、辺りへ燃え広がる。HHH。
森がジャンプ。
建物の燃えていない部分の黒い柵をよじ登る。
そこから、さらに跳ぶ。
空中戦だ。
3度めのHHHを繰り出す宮崎。
爆発。そして炎上。
ぎりぎり回避し、森がバックスピンキック(空中回転後ろ廻し蹴り)を放つ。宮崎の水晶玉を蹴り落とした。ストンと宮崎が地面へ落下するがバランスを崩している。空中へ飛翔し、落ちてゆく森の全身を、受け止めようとジョシュが動いた。黒い炎が邪魔だが、気にせず、パワーで柵をへし折るジョシュ。ミミが、森の落下点をジョシュへアイコンタクト(目線)で知らせながら、森を抱き止めた。
逃げる宮崎。
追う、2名と1匹。
第2サティアン内部の灯りが点る。
ろうそくの火のようだ。
「待て!」
「深追いは、なしだということですか? ミセス・ミミ?」
「ふむ。わたしは結婚しているからな、ジョシュ」
ふと、森の後方から、ひとりの男の影が現れた。
「なつかしいものだな、禅十朗!」
「誰だ!」
「国分・利人だ」
国分・利人(全空連)
「いいか。禅十朗。オレは正直、正義や情なんてどうでもいい男だ。だからこそ、この宗教団体が禅十朗の敵なら」
「わかっている!」
「話は早いな。オレは貴様の味方にはならない。ならない、が正解だ。つまり、オレは貴様の正義を潰してやる」
第2バトル勃発。
国分の俊足の舞が炸裂する。
8
ゆるやかな加速。
国分が機先を制す。
機先を制す。
森が構えるより早く、誰よりも彼よりも早く、飛行機より、新幹線より、リニアモーターカーより、ジャンボジェット機より、サイクロイド曲線(数学)より、音叉(おんさ)より、そして光より。
国分の両目が森を捉えた。
加速するスピード。
なによりも歩法に賭ける。
「ッッッシャあアああアッ!」
国分の刻み突きが森に炸裂。
後方へ吹っ飛ぶ。
跳ぶ跳ぶ、森が。
軽い脳震盪。
くらくらする緊張感!
誰よりも早くあることに固執する、それこそが国分の空手、全空連。
森の両目が、本気(マジ)になる。
立ち上がり。
ようやく、構えた。
森が、龍(ドラゴン)なら。
国分は、虎(タイガー)だ。
ちょこんちょこんと、国分が跳ねる。
先の先(せんのせん)を取る。
国分が動いた。
再び、2度跳ねてから。
真っ直ぐ。
刻み突きが、森を襲う。
虎の牙が、爪が、脚力が、森を引き裂いてゆく感覚。誰しもが極限状態で感じる、虚空(こくう)の瞳。なにをすれば世界最強の人間、そう、たかが人間としてこの地球の頂点として君臨できるのか?
たぶん、それは、歩法にある。
詰まるとこ、二本脚だぜ、人間はよお!
どんな偉いさんも、どんな可愛い女も、どんな屈強な兵隊も、どんな賢い高学歴も、オレには勝てない。それは二足歩行最強のオレ、国分が例えを示しているはずだ。メタファーだ。
森が、廻し受けで、国分の刻み突きをぎりぎりしのいだ。空気が後頭部で、唸りを挙げる。貝殻を耳に当てたときみたいに、ごうごうと加速。
切り裂け、宇宙。
震えるほどの、ミステリアス。
国分の先の後(せんのご)が、浅くだが、クリティカルヒット。浅く、だが。
刻み突きからの上段逆突きだ。
弐連携。
連絡してゆく技のキレ。
森が、上段逆突きを受け流して、クリティカルヒットを浅くさせている。
刹那。
森が吠えた。
狼の綺麗な瞳で。
返しの先と、残り火の先。
森が、蹴り技を繰り出す。
9
そこにゲームがあるとする。
そのゲームは、万人を魅了し、万人を麻薬のヘロインのように釘付けにしたとする。しかし、そんな設定が、そんな中で動く登場人物が、果たして輝かしいだけで、内面的な美学を伴わないのなら、ゲームというアイテムほど、華美で陰惨なものもないだろうか。ゲームはどんなに突き進んでもゲームであり、人生ですらないのだから。
残り火の先。
森が、流麗に動く。蹴り技を主体とした森の体軸の強固さが光る。右の下段廻し蹴りが、国分へヒット。一瞬、国分の指先がヒットした左のモモを、軽く触れるように押さえた。
思うよりも、響くらしい。
距離を測るように国分が、取る。
「残念だな。禅十朗。如何に蹴り技を極めようと、それは単なる自己満足に過ぎない。過去の栄光にすがったあんたは、もやは、爪を研げないドラゴンでしかない」
国分が、ゆっくりと両拳の握りを確かめる。
「飲まれるな、禅十朗!」
ミミが、森を制止する。
「ああ、問題ないッ!」
「ワタシは、違います。過去の栄光にすがったのは、ミスター・国分、あなたです。ひとは、強くあろうとすれば、弱いものを守る強さでなくてはならない。誰よりも早くあることに固執する余り、誰かを守れる強さを念頭に入れていない。あなたの過去は、まさにハリボテです」
国分に対し、やや厳しい口調のジョシュ。
「オレの過去を否定する、か?」
「ソーリー。本当です」
「たかがアメリカン(しかも、熊のような嫌われ者の肉体)が、オレの過去を否定する、だと?」
「イエス」
「許さない、ではなく、この感覚はなんだ。わかった。怒りではなく、おもしろい、いう感覚だッ!」
おもしろいと言った国分。
その目には、自分でも全く気付かない、言葉とは裏腹の、怒りの感情が溢れ出ていた。
10
俊足の舞。
それは、単なる歩法を消化させたものではない。例えば、犬は棒には当たるが、動いている人間ならば、逆にひらりとかわせてしまう。
思考ではなく、本能。
行動ではなく、反射。
その光速に近い、反応速度。近距離からのボーガンの矢を、トリガーを引いたあとで矢を回避してしまうような速度の限界を超えた早さ。
それが国分のリアルだ。
シンプル・イズ・ベスト。
考えない。
体に本能と反射で、絶対的な早さをものにする。
俊足の舞の正体だ。
二足歩行のバーサーカー。
国分が、軽く、縦に跳ねた。
リズムを取っている。
虎が、リズム感を養っている。
ランランと輝く、猛禽類(もうきんるい)の早さで。
鷹に、鷲に、そして、スワローに近い本能の二足歩行。矛盾が生み出す矛盾。果たしてツバメは二足歩行に当たるのだろうか。歩いたとして走ったとして早いのだろうか。はたまた、人間の叡智のパチンコやブーメランに撃墜され駆逐されるのだろうか。
国分が動いた。
同じく、森が動いた。
森が、左に。
国分は右に。
先手を打ったのは国分。
転身。
国分の裏技であり隠し球の歩行になる。
この技は相手より早く動くのではなく、相手の視界から視角から盲点から攻撃することにある。
左の裏廻し蹴り。
全空連式の掛け蹴りになる。
森が、死角からの蹴りをシミュレートした。感覚で回避。髪の毛を国分のかかとが揺らす。森が、後の後(ごのご)で動く。さすが極心の黒帯は伊達じゃない。国分の早さを紙一重でかわしてゆく。パンチとキックの国分。ガードと回避の森。揺れる。揺れる揺れる空間。揺れる。揺れる揺れる揺れる空間。草原に降りた神が、如何にもこの2名を祝福しているかのような、まさに暴力。
国分が想う。
まだだ。まだまだ。オレは、まだ車のギアチェンジの三速でしかない。早さとは、無限大。光より早く動けなくても近付くことは出来る! しかし、禅十朗、貴様は、このオレの早さを超えていない。当然だ。慢心ではない。当然のことだ。
空手道、全空連。
早く、誰よりも早く。
国分と、森の目が逢う。
恋人に似た、暴力で。
互いに互いに。
最後はどちらが散る。
命を賭けるのは、空手の極意と、そして未来へ。
最後のフィニッシュに近付く。
両者、呼吸を合わせる。
互いに互いに。
攻撃は、シンプルに。
頭突き。
ガツンという衝突音が響いた。額と額。心と心。額と額が地響きの音を立てて、ニュートンのリンゴが木から落ちるかのように、国分が(その信頼度の高い、二足歩行の両ヒザから)完全に崩れ落ちた。
国分が呟く。
「いいねえ。戦うっての………」
そのまま、意識を失う。
一本勝利。
ジョシュが拍手をした。ミミが踊りを踊る。完全な森の勝利だ。宮崎を追わなくてはならない。さらに目の前の敵を倒さなくてはならない。第2サティアンの内部へ時間差なく、2名と1匹が突入する。
11
宮崎が、ヒビの入った水晶玉を神前に飾った。教会の奥の隠し扉が開く。それとなく、2度、軽く肩を叩いてから宮崎はその中へ入る。ろうそくの火がゆらゆらと揺らめいてから、霧散するように消えた。
全てのろうそくの火が、だ。
火星をマルスというが、マルスが時代により、健全だったり、不吉だったりしている。ようは、イメージとは、作られたものでしかない。悪い言葉こそ、正しい歯の浮く言葉よりも、ずっと正しい場合があるということだ。
堕落。
殲滅。
蹂躙。
そして、マルス。
なによりも、マルス。
たがためのマルス。
火星は燃えてゆく。
マルスが消えたのなら、その先を見なければならない。
そう、火星は、何時までも赤い。
そんなマルスを見ながら、やや赤い天空のマルスを見ながら、森とジョシュと、そして黒猫のミミ(今日は鍵尻尾をピンと立てて、マルスを、やはり見ながら)が、第2サティアンへ踏み込んだ。
「火星は赤いぞ、禅十朗!」
「ああ、問題ないッ!」
「ワタシも、赤いものは郵便ポストとマルスだと思いますが、マルスだけに、丸く(マルス)勝ちたいものです。ソーリー。アメリカの悲しみは日本の悲しみ。逆を言えば、日本の悲しみは、ワタシの悲しみです」
ろうそくの火が消えた廻廊を2名と1匹が通る。
マルスの悲しみと共に。
森が薄甘く、笑う。
「教壇幹部の男は、壁の向こうだ禅十朗! マルスはないが、禅十朗はここにあるッ!!」
神前の前に立つ、ジョシュ。
しかし、ふと、鍵がある。
ジョシュがその床に落ちているカギを拾い、推理トリックを考えた。
が。
森が、そのジョシュを視界に発見するより早く、神前の扉へ向かい。
推理トリックではなく。
手刀で。
隠し扉を粉砕、そして、破壊!
「「入るぞ!」」
森とミミがGOサインを出した。
半壊した扉を開き、ジョシュが先に中へ入る。だが、そこには見慣れた拷問器具が、所狭しと内部に並んでいた。
拾ったカギを、ポケットへジョシュがしまい、推理トリックを解かずに、戦線を有利にするためにファイティングポーズを取った。
12
椅子の上に宮崎が座っていた。
ある種の電気椅子の類いのものだ。宮崎は、そこで息絶えていた。
自殺。
「遅かったか?」
ミミがそう言うと、森とミミが、宮崎の死体に近付く。
彼は、目を、白目を剥き、事切れている。脈もない。神様を信頼し、そして棄てられた男だ。
「殺されたのです、社会に」
ジョシュが宮崎の死体を抱く。
それはそれは丁寧に。
「この目の前の男は、宗教の教義の内側の卵の殻を破れませんでした。残念ながら。ワタシとしても、話し合いという手段を用意していましたが、自殺とは読めませんでした。せめて…………」
ジョシュが宮崎の両目を大きな右手で伏せた。担ぐ。
「詰まらないな。リアルってのは。俺もひとりの格闘家だが、戦闘を望んでいた自分を不謹慎に思う」
「ふむ。ミスター・ジョシュ。警察が来るまで死体は動かさないほうがいい。わたしの鍵尻尾が、そう反応している」
ちらりと、ジョシュのポケットの鍵が微かに揺れた。
「現実とは残酷なものです。闘うことは、立ち向かうことは大切ですが、彼は逃げたのではなく、闘えなかったのでしょう」
「違うな」
森が、返す言葉でしっかりと反論した。
「たぶん、そいつは、逃げたんだ。御大層な奴じゃないよ。自殺だぜ、自殺。俺も嫌な奴だよ。死んだ人間にケチを付けるなんてさ。けど、そいつは褒められない。俺の価値観では、許せない背徳でしかない」
怒りを抑えきれない、森。
「ワタシは詰まらないアメリカンかもしれませんが、甘いのですかね。そんな気もします。優しさとは、単なる綺麗事であり、手段としてはあまりにも弱すぎます」
やがて、サイレンの音が鳴る。
警察だ。
半壊した扉を開き、警官が駆け付ける。ジョシュは逮捕はされなかったが、警部補の方々に頭を下げていた。許されたのは奇跡だとしても、不思議と俺(森)は、この熊のような図体のアメリカンが嫌いじゃない。
13
サンドバックが高く揺れる。
小気味良いテンポで、1つ。2つ。大きなノッポの古時計。3つ。4つ。サンドバックが音を奏でる。やがて、ジム内は、大きな波に包まれては消える。
僥倖(ぎょうこう)。
井岡・一都(ボクシング)
井岡が、薄く固い8オンスのメキシコ製(WBC)のボクシンググローブを外した。ジムのオーナーに一礼してから、井岡は街へ繰り出す。
難波へ、だ。
大阪の浪花のネオンは、実に豊かで明るいコテコテの配色だが、淀川の水面に自分の姿を写しながら、井岡は待ち人を待った。
やがて。
時が流れる。
ひつじ雲が揺れ。
喧騒が賑やかになる。
たこ焼き屋の、小麦粉(粉もん)を焼く音が冴え渡り、匂いを嗅ぐとやけに腹が空いた。
30分後、ひとりの女性が現れた。
「お兄ちゃん。お疲れ様!」
「よう、洋子。ワイもいま来た(30分待ったのは嘘にしておいて)ところや。ほな、道頓堀と通天閣へと洒落混みまっか。やけんど、そないな寒い格好で、洋子。なんで厚着せえへんの?」
「わたしね。来るとき、急ぎ過ぎたの。お父さん、病気良くなるって聞いたから、有頂天になっちゃって。ふっと忘れたら、看病も気が抜けたってのが正解かな」
「さよか。洋子はようできる子や。おとんの看病で疲れたんなら、晩飯おごるさかい。ほやな、そこのお好み焼き屋、入るぞ」
井岡が、自分の着ているロングコートを洋子にそっと着せる。
ひつじ雲は形を無くし。
道頓堀に闇が舞い降りる。
一件のお好み焼き屋(右京)で、3枚のシーフードのミックス焼きを、井岡が注文した。
「ところで、や」
「なんね。お兄ちゃん」
「関西の味は、東京にも負けてへん。お好み焼きは、焼きが大事や」
「お父さん。煙草吸って寝てる」
「さよか。煙草吸えてるんは、もう大丈夫やな。せやねん。おとん、も少し酒減らさな、腹の筋肉が脂肪になるさかい。まあ、悪うはないわな」
「ほんまやわ。お父さん」
洋子がチビりと焼酎(梅干し入り)を飲み干す。
「いい飲みっぷりや」
井岡が手拍子する。
やがて、ジムの帰り道、タンポポの綿毛を見付けたことを井岡が話し出す。洋子は、冬やね、と、ほろ酔いで、一言、返して、注文したお好み焼きに箸を付けた。
14
洋子を見送ったあとで、井岡が帰路につくことにする。
と、井岡が、タクシーで自宅まで帰るのを見届ける直前、ほろ酔いの洋子の背中をさすった。
「飲み過ぎちゃうか?」
「飲み過ぎちゃうがな、お兄ちゃん」
最後の一言はそれだった。
「飴ちゃん、いる?」
「ああ、貰っとくわ」
塩あめを2個、ポケットへ突っ込む井岡。
ほっと胸を撫で下ろした。
医師の言葉では、親父の病気は心配ないとのことで、安心する。たぶん、洋子なら大丈夫だろう。彼女がいれば、明日にでも、病気も、すぐ良くなるはず。
足下の小石を蹴りながら、井岡が塩あめを口にする。
軽めのジョギング。
酒は入っていない。
お好み焼き、2枚。
シーフードのイカの味が、やけに舌に残る。
シャドーボクシング。
本屋の前まで、走り切る。
「本は、あまり読まへん主義なんやけどな」
実体験を大切に。井岡の理(ことわり)だ。本屋でわかることは、大した意味がない。それ(本)以上の実体験に裏打ちされた、真実。大事なのは何時も、人生と書籍のバランス配分。新聞で知ることに、果たして自分の思想はそこにあるのか。たぶん、ない。
ボクシング雑誌を購入しようと、井岡が紀伊国屋(本屋)へ入った。
ひとりの男が、真っ黒い柔道着を着たまま、一台のコピー機の前で、佇(たたず)んでいる。
「ごくろーさん」
井岡が真横を通り抜けようとして、男に頭を下げた。
眼鏡をかけた男が、井岡を見た。
佐々・幸範(柔術)
「僕の背後を取るのか。それは意外な話だ。いいかね。1つだけ訊く、君は誰だ?」
男が、眼鏡を直し、言う。
「なんや?」
びっくりした様子の井岡。
「柔道は、ボクシングより遥かに下だが、しかし、柔術は、ボクシングより遥かに上だ。つまりだ。我々、柔術家に大事なのは、そうだね、猫だ」
「なんやねん」
「猫は、空中から逆さまに落としたとしても、綺麗に表で着地する。それが猫だ」
「猫が可哀想やん」
「実験には被害者が付き物だ。残酷ながら」
「だから、なんやねん。あんさん、なんやねん。ワイも疲れとるんや。ちょい、後ろ通りますよ、ってゆーたんなら、おおきに、で、ええやんか?」
「闘いましょう!」
「知らんわ。無理や。ワイの負けでええから、帰るわな、ワイ」
「闘いましょう!」
「わった、わった。ワイの負けでええやんか?」
「そうはいきません」
男が、井岡に掴みにかかる。男の柔術着に大きく、佐々、と書かれた文字を見る。佐々・幸範。間違いなく、変な奴に、いま、ワイはからまれとる。
バックステップで後方へ、井岡が下がった。
佐々の指先を回避する。
「しゃーないわ。本気のひゃくパーやで。甘い手加減もなしや」
クラウチング・スタイル。
井岡のファイティングポーズだ。
「僕も、同じく」
佐々も腰に手を当てる。
開手(かいしゅ)だ。
15
8年前。
洋子がジムに手作りのお弁当を持って来た。井岡へ洋子からの差し入れだが、妹の洋子は、玉子焼きが自慢の女性で、魚のすり身を入れて焼くのが日課だ。
「お兄ちゃんには玉子焼きやね」
「おおきに、ありがとさん」
井岡が洋子の玉子焼きを、素手で口へ放り込む。
「見学は、どや。洋子」
「いややわあ、こないな暴力的なもん」
「ほなけど、よく見てみい。あれがうちのチャンプや。ほんで、あっちが新人さん。奥にいるのがジムのオーナー(会長さん)や」
「よくわからへんけど、お兄ちゃん、やっぱやめとこ? 争いはなにも生まへん」
「目え見てみ。よう見てみ。ワイも段々とわかって来たんやが、アホみたいに、天使(もうひとりの)の声、みんな聴いとる。ワイも初めは自分だけ不幸やと勘違いしとったんやけど、それは違っとったんや。みんながみんな、優しくて親切や。つまりや、洋子。ひとはそれなりに実体験に基づいたんなら、確定条件が大事や。ほんで、よう考えたらわかる。自分だけが不幸やない。みんなワイを嫌いなんともちゃう。実は、逆に、みんな、このワイを好きやねん。ほなら、この導き出された実体験を、洋子はどう思う?」
「ほな、見学するわ、お兄ちゃん」
こくりと頷く、洋子。
「頭でっかちの偏差値70の人間が陥りがちなのが、ここや。リアルで生きて見学したんなら、本で読むことなんかより、ぎょーさんわかることがあったってこっちゃ。真実には客観視したんなら、自分が嫌われるわけがないのに、被害者のフリで生きとるんは可哀想やが、仕方ないっちゃあ仕方ないわな」
井岡の肩に洋子が抱き付く。
「なんや、お兄ちゃん。説教かいな、アホらし」
洋子が玉子焼きを箸で摘まむ。
「ああッ! ワイのッ!」
「また、焼いたるがな」
おしとやかな洋子が、パクりと、玉子焼きを飲み込むと、ジム内に穏やかな関西風味の笑いが、どっと起きた。
16
佐々が、指先のバンドエイドをこそげ落とすように取る。
落下する果実。
そいつはリンゴか?
はたまたミカンか?
ニュートンのリンゴは、本当は存在しないという噂がある。真実には上空へ投げた小石が、何故、上空からベクトルを変え、地面に落ちるのかが正解だ。ニュートンのリンゴは、やはり存在しない。柿でも、洋梨でも、びわでも同じく地面に落ちるのだから。
佐々は、さしずめトマトだ。
果物ですらない異色作。
彼には、打撃がない。
典型的な失敗例だ。
パンチも、キックも、ヒザ蹴りも、ステップワークも、全て、ない。
柔術とは、前田光世が単身ブラジルへ乗り込んで、そうして逆に、ブラジルから日本へ逆輸入されたものだ。
トマトは実に赤い。
正式名称、ブラジリアン柔術。
柔術着には柔道着とは違い、宣伝用のラベルが張られている。
トマトは実に赤いか?
たぶん、そう、変わり者の佐々が言うには赤いのだ。
ムンジアルの最高峰の称号を得て、佐々の白目が大きくなる。
触れられたのなら、井岡は瞬殺。
ラッシュに持ち込めば、佐々はサンドバッグ。
逆転の佐々。
ハイスピードの井岡。
左ジャブから右フック。
井岡の小手先の小手調べだ。
「左は、ハンドルやでッ!!」
継ぎ足が佐々の生命線。しかし、先程、装着した8オンスのボクシンググローブが、軽く、乾いた音を立てる。左ジャブがヒット。
両目を瞑る佐々。
後方へ後頭部が揺れる。
次の右フックは、回避したが、やはり単発の右フックは当たらないがセオリーのボクシング業界。左ジャブから繋げるにはやや強引過ぎる。
「あれ?」
ふと、井岡が異変に気付く。
佐々の投げだ。
浮き落とし。
華麗かつ、天才的。
芸術的で、理想的な。
柔道の基本のスロウ。
片ヒザを地面へ付けたまま。
井岡が宙を舞う。
後方へ。
頭から。
その名の通り。
浮いて落ちて、そして散る。
井岡は、ショルダーブロックで受け身。応用力なら井岡だ。
後転。
距離を取り。
井岡が、再びスタンド(お互いが立ち上がった状態のこと)へ。
17
8年前。
朝、河野が目を覚ますと、台所の方から音が聞こえた。
誰だろうか。
しばし考えてみる。
ひょっとして、妖精の仕業かもしれない。葱を切る音がする。
しかし。
そこにいたのは、彼女ではなくエプロンドレスの佐々だった。
「ぎゃああああッ! あんた誰だよ。しかも葱刻んでんの。そこ、うちの台所でしょ。なにやってんのッ!」
「麩(ふ)の味噌汁だ」
「ええッ! なに説明してんの。味噌汁の中味うんぬんより、オレが訊きたいのは、あんたの服装だよッ! 」
「ああ、失礼した。エプロンドレスのサイズが小さ過ぎるようだ」
「そうじゃねぇーってッ! あ、冷蔵庫の淡路島牛乳、それオレんだよ!」
「河野とやら、安心しろ」
「なんでさりげなく呼び捨てにしてんの? 淡路島牛乳の話題、それしっかりバトン受け止めてよ! オレ、リレーのスタートを切る前に、逆走してPTAのテントに突っ込んじゃった気分じゃないかッ!」
「謝る」
「しかも、謝ってねーし!」
「エクスキューズミー」
「ジェスチャー、さりげなく入れないでよ。それにアメリカ人の友達なんていねーよッ!」
河野が佐々を見詰める。
佐々も同じく河野の瞳を見た。
「なんで腐女子のシチュエーションなんだよ。恋愛は、オレとあんたはキスしたことねーし! そりゃ、あんたが望むってんなら、オレも考えるかもしれんが、初対面で男同士キスはないでしょ!」
佐々が、味噌汁を手渡す。
「あ、ありがと」
心を許す、河野。
「一口、飲み込むと、わかることもあるさ」
「味噌汁でわかることは、味噌の濃度しかわからないよッ!」
河野が、味噌汁を飲む。
おしまい。
18
「明らかに君は輝かない。例え、生と死の狭間に死の瞬間を垣間見たとしても、僕のステータスは掛け算式に跳ね上がるッ!」
佐々が咆哮する。
太陽の残滓。
稲光の連鎖。
いくら積んでも、崩れて落ちる小石の群れ。
ヒットマン・スタイル。
デトロイトのクロングジムの構えになる。この構えのポイントは、左のジャブを連発し、スタンディングダウンを狙う意味合いもある。また、このジャブは下から上へ向かい打てるので、目線を下へ下へ落とすブラフにもなる。つまり、顔面打ちが入りやすくなり、ポイントも簡単に取れるのだ。
井岡の目の色が、変わる。
琥珀色をした、キャンディカラー。
「ワイは、世界一は、ワイでしかないんや。だからこその構えやが、勝ち星が2ダースの数になるまで儲けまっせ。ぎょーさん格闘技の選手がいても、ヒットマン・スタイルの絶望は、自分にとっての至福やッ!」
サークリングを駆使しながら、井岡が佐々の周囲を回り出す。昼間は紺碧の空があった場所に、通天閣の明かりが灯る。風とアスファルト。土煙(つちけむり)が、不気味な足下の路側帯で渦を巻いている。
鳩が3度鳴く。
4度めの鳩の鳴き声に合わせ、井岡が攻める。守る佐々。
左ジャブを小刻みに撃つ。
ピストルの弾丸は螺旋状に飛ぶ。
その弾丸は、回転数が多いほど、ガードを弾き、顔面を貫く右ストレートになる。
確かなものは、ここにある。
シグナルレッドのチキンハート。
誰よりも強くなることは、誰よりも優しくなれるということ。
ひとよりも努力することは、成長と紙一重にわずかに劣るということ。
才能を持つ者は、確かになにかを発見したあとのダイヤモンドの結晶に相応しい。
釘を打つ。
その釘の頭が、いくつかのトンカチの乱打の後、へしゃげたり、曲がり過ぎたりすれば、それはコンパクトとは、程遠い、大振りの扇風機に等しい。
当たらなければ、風がそよぐだけ。
スリージャブからのワンストレート。左を3つに、右を全力で打つことが、ボクシングのセオリーだ。
豪快に、右ストレートを打つ。
黄金の右を、だ。
同時に、佐々が左の手刀で、井岡の右ヒジの内側に触れた。
一本背負い。
読み通りの佐々の、一本背負いが炸裂しそうになる。見え見えの戦略だが、インファイトは井岡も得意だ。
19
そこに、椅子があるとする。
その椅子は、仲間からずっと無視されていた。見かけが悪いから。古くて寂れているから、足の1本のネジが壊れているから。
椅子に座れる者も異端だった。
偉くて賢い王様の玉座になるためには、この椅子1つだけでは、他の綺麗な見かけの良い椅子よりも、ずっと寂しすぎた。
椅子は、考えた。
どうして僕は、なれないんだろう。
あんなにがんばったのに。
王様は、あんなに僕を見てくれないんだろう。
ある日、椅子は考えた。
中身より外見が大事なんだ。
だったら。
僕は、生まれながらに失敗作なんだ。
始まる前に終わっている。
椅子は、問いかける。
職人さん、僕をもっと輝かせて。他のどんな椅子よりも素晴らしい見かけにして、と。
その椅子を生んだ職人は、年老いていた。しかし、職人は答える。
「君は、好きかね。中身より外見が勝つのは、存在しないのだと吟う歌の話を」
「ええ。存じております」
「見かけが悪いことは、問題じゃないんだ。大切なのは中身だよ。君はたくさん努力したね。それだけでいい。大事なのは中身だ。中身が変われば何時だって見かけがいいと思われるんだよ」
「そんなものでしょうか?」
「もちろん」
「そんなの嘘っぱちですよ!」
その椅子は、職人のお気に入りだった。しかし、考えればそれだけ幸せなのかもしれない。玉座になるよりも確かな価値は、心の中にある。
佐々が、井岡の右腕を捉えた。
が、井岡も佐々を捉えている。
佐々は、一本背負い。
井岡は、フルスイングの右。
ボクシングのパンチは、空手の突きとはひと味違い、打った拳を引くのが極意。井岡と佐々の目線が合う。おあいこだ。
ドロー。
お互いがお互いに、呼吸を合わせた、又は、噛み合わないはずの異種格闘技戦において、噛み合った刹那が生まれる。
「まだや!」
「やらせはしない!」
数秒間の空白の後、反対に井岡は、レバーブロー(肝臓打ち)を、バランスを崩しながらフルスイング。
佐々は、両手を伸ばし。
肩車。
互角の攻防。
総の佐々か。
打の井岡か。
総と打。
相反する技術が、かち合ったとき、弾かれ跳ぶのはどちらか?
先手、井岡。
後手、佐々。
つまり。
先にスヒードのある左のボディフックが炸裂する。
クリティカルの打撃力。
0・001秒のタイムの時間差。
刹那、佐々の顔面が、ビンのビールの栓を開けたかのように歪んだ。
肝臓を捉えた!
そう、必然的に。
先に、捉えた。
佐々の、掴んだ井岡の右腕の握力が、圧倒的に弱くなった。
佐々が、とっさに切り換える。
距離を取り、開手に構えたそのとき。
異変に気付いた、佐々。
呼吸が出来ない。
内蔵が、吐き気で壊れそうだ。
全てがオシャカになる。
たった1秒後、距離を取り、引いたはずの佐々が、腹を押さえて、地面に倒れ込んだ。
ぐったりと打たれた肝臓を押さえながら、苦しそうな息遣いで。
井岡のKO勝利だ。
むーすんで、ひーらーいてー。まーたむすんで、ひーらーいてー。佐々の頭の中に走馬灯がピカピカと輝く。
カウント8で。
立ち上がり。
しかし。
現実には。
不可能を可能には出来ず。
再び、地面へ倒れ込んだ、佐々。
危ないが。
井岡の辛勝だ。
20
「ふぁーあ! わたし疲れちゃった。この狭い車、空調壊れてんじゃないの? やけに寒いよ」
「神様。狭い車じゃなくて、これは軽四だぜ。燃費の節約のために、ちょっとばかし我慢してくれ」
鶴矢・浩(修斗)
鶴矢がホンダのライフのハンドルを右に切る。細い路地を徐行し、目的の大麻比古神社に向かう。ローソンの看板が見えると、その突き当たりが、目的地だ。
駐車場は満杯で、ジョギングをしている中年のひとや、やけに競輪風味のヘルメットを被った青年がいる。
30分待ち続けると、鶴矢のホンダのライフが、ゆっくりと駐車場へ入り、車止めに後輪を乗せた。
サイトブレーキ(やや古いタイプのライフ)を引き、停車する。車のドアを開くと、甲高い声の白猫が、1匹、神様の足下の靴下を引っ張る。
「ようこそ、大麻比古神社へ」
白猫が、喋った。
神様が、アシンメトリーの靴下のズレを直す。
「ここかい。神様。神様の両親が祀(まつ)られているのは?」
「だね。ホントかったるいなあ。ねえねえ鶴矢。参拝ついでに、帰りに天かすいっぱいのうどん食べたいよう」
「天かすなんて食べると、また、太るぞ」
「いいじゃん、ケチ!」
「ダメとは言ってない」
「ええ。いいの?」
「帰りのガソリンは、まだ残っているし、うどん二人前くらいなら」
がりがり、と、白猫が、鶴矢の靴(トンガリブーツ)を引っ掻く。
「あっちだよ、本殿は」
綺麗な尻尾をピンと立て、白猫が悠々と偉そうに、猫らしく足音を消しつつ歩いてゆく。
「しっかし派手だな、神様」
鶴矢が、神様のドレス(フラメンコ風味の真っ赤な)を見て、指差す。
「いいじゃん、TPOは守ってるし、犯罪なんて、こんなド田舎だし」
「冬休みだせ。冬」
「神様、コート(Pコート)を二重に羽織ってるから大丈夫。わたし女の神様だから、ちっちゃいし」
「ほらほら、お二人様。あれが、神主様になります。最高職の宮司は今日はいられませんが、参拝は出来ます」
21
群青(格闘家の物語)1 鈴木タビト @shu35
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