第二十一回 死す者と死にゆく者と(前編)
腹の獣が、頻繁に暴れるようになった。
日に一度、それも決まって深夜である。暴れ出したら、四半刻は続く。しかも半端な暴れ方ではない。まるで、臓腑を食い尽くすように、体内を駆け回るのだ。それは猛烈な気持ち悪さも伴い、我慢しきれず吐いた事もある。そして、吹きだしたものは血の塊だった。
目が覚めると、大量の汗をかいていた。秋も深まっている。寒さを覚える事はあっても、寝汗をかくような季節ではない。
(まだ、倒れるわけにはいかぬ)
清記は、ゆっくりと身体を起こした。微かな気持ち悪さはあるが、動けないというほどではない。
四日前、帯刀と鏑木達に会った。今頃は梅岳を探して、藩内を駆け回っているだろう。無謀な賭けのようだが、平和裏に利重を隠居させる手はこれしかない。
ただ清記にとっては、大して興味を引く企みではなかった。故に、協力もしない。帯刀の陰謀がどうなろうと、利重を討つ。それは、既に決めている事なのだ。今更決意が揺らぐ事は無い。おそらく、利重暗殺に成功しても失敗しても、平山家は潰されるだろう。そうなれば、平山家の家人や奉公人は路頭に迷うはずだ。成功すれば腹を切る見返りに彼らの保護を頼めるが、失敗した場合はどうなるのか。その後の事を、清記はずっと考えていた。
「今日は遅いお目覚めですな」
三郎助が現れて言った。
「随分と寝た気がする」
「どうも最近、殿は忙しそうですからね。何をなされているのか、私には判らないですが」
三郎助の言い草には、明らかな不満が込められている。ここ数日の動きについて言っているのだろう。だが、今それを三郎助に伝える気は無い。
「雷蔵は?」
清記は、話を変えた。
「もう代官所で詰めていますよ」
「ほう」
「朝から大量の書類を確認しています。磯田殿の指導にも熱が入っているご様子。雷蔵様は苦笑しきりでございました」
「それも経験だな」
「左様で」
先日、平山家当主としての役目の全てを代行するよう雷蔵に命じ、その件を藩庁と代官所、そして内住郡の庄屋にも通達した。雷蔵は固辞したが、藩庁も承認済みだと言うと素直に受けた。
収穫前のこの時期は忙しい。磯田に任せれば間違いはないが、その磯田には失敗してもいいから雷蔵に出来る限りやらせろと伝えてある。
「身勝手だな、私は」
「何を急に申されますか」
「いや、そうなのだ。今まで御家の為にと、雷蔵を厳しく育ててきた。人を斬らせ、惚れた女も始末させた。これ全て、よかれと思った事だ。しかし、今は違う。あやつに人殺ししか出来ない、そんな男にはなって欲しくないと思うようになっている」
「殿は、以前から雷蔵様を
「あやつは、そう思っておるまい。だがな、私は残された時間の中で、雷蔵に何を残せるか。斯様な事を考えてしまうのだ」
そう思うのも、雷蔵を夜須から出すと決めたからだ。利重を討つ。これは利景の最後の命令であり、それを為せば平山家の滅びが待っている。失敗は死。成功しても死。それは嫡男である雷蔵も同じである。
だから逃がす。その為の算段は進めている。
親らしい事は何一つしなかった。妻が死んでからは、特にそうだ。だが、雷蔵をこの政争に巻き込みたくはない、それだけは強く思っている。
「やれやれ。最近はまた塞ぎの虫が出ていますぞ」
「そうかな。まぁ色々あり過ぎたが」
添田の事だと察した三郎助は少し目を伏せたが、すぐに膝を打って気を取り直した。
「ささ。兎に角、朝餉を食べましょう。腹を満たせば気も晴れますよ」
と、すぐに朝餉が用意された。粥とたくあんの古漬け、それに汁物という質素なものだ。
三郎助も一緒だった。そこで、ささやかな報告を受けた。
目尾組の頭領に、側用人の沖岡主水が選ばれた事。これは兼任らしい。また、朝賀無甚の放逐された息子三名が、清記を仇と狙っている事。この二つは薊から三郎助に届けられた情報だった。薊は最初、雷蔵へ報告しようとしたが、今は忙しいと相手にせず、三郎助に回されたという。相変わらず、女には冷たい男だ。
目尾組の頭領に、沖岡という男が選ばれたのは意外だった。目尾組の中から、利重の意のままになる男が選ばれると思ったが、腹心に任せるという露骨な手を打ってきた。添田と相賀、そしてそれに追従する勢力を排除した今、いよいよ藩主独裁を完成させるつもりである。朝賀の遺児による仇討ちについては、特に思う事はなかった。念真流である限り、狙われる立場にある。二、三人増えた所でどうという事は無い。
朝餉を食べ終えると、次は若幽の診察だった。
「顔色は悪くないですな。薬が効いている証拠です」
「それが不幸中の幸いだ。雷蔵や奉公人に心配させずに済む。弱みは見せたくないからな。特に雷蔵には」
「張り合いがあるのは善い事ですよ」
「なぁ若幽。どのような血を吐けば、私は死ぬのだ?」
「清記様、斯様な事をお訊きになるべきではございませぬ。日々、お顔の色が良くなっているというのに」
「準備があるのだよ、若幽。だから教えてくれ」
若幽は一度目を伏せ、そして三郎助を一瞥した。そこで何かの合図を受けたのか、再び口を開いた。
「……流れるような、鮮やかな血です」
「そうか。なら、まだ大丈夫だな」
時々咳込み、気持ち悪さから吐血する。しかし出るのは、痰のような塊になった血だった。
「そのような事より、これをお飲みください」
と、湯呑を差し出された。焦げ茶色で、僅かにとろみがあるように見える。臭いはそこまで強くはない。
「いつもと違うな」
「新しい薬湯です。
「そう都合良く行くものか」
「信じるのですよ、清記様。そうなると。薬とはそもそも、そうしたものです。病を治すのは、人の力なのですから」
「そんなものかな」
清記は、新しい薬湯を一気に煽った。その色合いから苦みがあると思っていたが、予想外にも酸味が強かった。それでも、不思議な事に胸がスッとした。
「楽になった気がする」
「山人の薬草は凄いですね。私が知らないものばかりです。書物にも記されておりません」
「お前さえよければ、山人の薬草を分けてもらうよう口利きしてやろう」
「宜しいのですか? そのような事をお頼みして」
「構わん。勿論、山人が承知してくれればの話だが」
それでも、若幽は喜んでいる。この男は、医学と本草学に関しては、誰よりも一途だ。その性根を語れば、山人も喜んで了承するであろう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
下女が来客を告げた。
三郎助と若幽は下がり、清記は客間に向かった。
待っていたのは、老武士と貞助だった。老武士は、木下弥兵衛。細面で皺が深いこの男は、添田家の執事をしていた。
木下は、清記に深々と頭を下げた。貞助は一歩下がって沈痛な面持ちをしている。
それだけで、二人の要件が何なのか予見出来た。
「添田様が亡くなられたのですね」
少し間を置いて、木下が頷いた。貞助は顔を伏せている。
「いつの事でしょうか?」
「昨日の暮れ。舎利蔵で。おえん様も、甲斐様の後を追われました……」
そして、辞世の句が記された紙を差し出された。そこには、何より利景を第一に考えた、添田らしい句が記されている。
「……左様ですか。残念です」
添田は死罪となり、羽合には流刑が申し渡されたそうだ。流刑先は宇美津湾の離島だと、木下が言った。
羽合は、夜須でも名門。浪人上がりの添田とは違う。利重もそこを配慮したのかもしれないが、相賀や八十太夫が捨てておくとは思えない。
「それで私は、おえん様より託されたものをお持ちした次第です」
「奥方様が、私にですか?」
清記は、思わず訊き返した。
「左様。これなる、貞助です」
「……」
「貞助は、もはや目尾組に戻れぬ身となっておりますし、甲斐様の仇を討とうとしております。このままでは心配だと言って、どうか平山様にお預けしたいと」
「そうですか」
清記は、俯いている貞助に声を掛けた。
「添田様の仇を討ちたいのか?」
「へぇ。甲斐様は、初めてあっしを人間扱いしてくれた御仁でさぁ。その甲斐様を殺した利重の首を獲りてぇです」
「仇を討ちたいのなら、逃げ出せばよかろう」
「でも、それじゃ甲斐様との約束を破っちまう。甲斐様は、仇を討つなって言ったんですよ。それが、最後の命令だと。
貞助の両眼から光るものが零れ落ち、清記は咄嗟に目を逸らした。
「それを破れば不義理になるし、奥方様の気持ちも裏切っちまう」
「そうだな。では、これより私に従ってもらうぞ」
「へぃ」
「当然、仇討ちは禁じる。私が何か命じるまで、村で暮せ。棲家は用意してやろう」
「いいんですかい? あっしを」
「お前は、私と深江で働いた相棒なのだ。それに添田様には色々世話になったしな。無下には出来ぬ」
清記は三郎助を呼び、貞助を預けた。貞助をどうするか。薊のように、城下で探索に従事させる事も出来ない。薊は利重に対して、何ら感情を抱いていない。それ故に制御できるが、貞助はそうではないのだ。当然、帯刀の企てにも使う事は出来ない。
貞助が去り、木下と二人になった。
「して、木下殿はどうするつもりですかな?」
「さて。私には子供もいませぬし、妻はとうに先立っております。顧みるものが何もございませぬのでなぁ」
「つまり、仇を討つつもりでおられると?」
「どうせ、あとは死ぬだけの命です」
木下の顔は、死を覚悟している意志が浮かんでいた。仇討ちが出来なければ、追い腹をして殉ずるつもりだろう。
「この老体には何が出来るか判りませんが。一矢報いねば腹が収まりませぬ」
「木下殿の剣名は、私も存じております。常々、道場を構えて然るべきと思っておりました」
木下は、
「死に花を咲き散らす所存です」
「死に花ですか……」
「枯れた花ではございますが」
「ではその命、私に預けて下さらぬか?」
木下が眉を潜めた。
「と、言いますと?」
「私も木下殿と同じ道を選んでいるという事です」
「しかし、それでは平山家が?」
「私の代で終わらせます。愚息には江戸にでも出てもらいますよ」
「あなたの命は?」
「死病なのです。来年までは持たないかもしれぬほどの」
清記は、腹に手をやった。塊は徐々に大きくなってきている。
「左様でございましたか」
「やりましょう、木下殿」
清記は、膝を一つ進めた。
同志を募るつもりはなかった。一人で斬るつもりであったが、その考えを木下が変えた。清記の考えを改めさせるほどの覚悟を、木下に感じたのだ。
利重を襲うのならば、必ず討たねばならない。その為には、一人より二人の方がいいというのは自明の理だった。
「……判りました。この老いぼれの命をお預けしましょう」
木下とは、いずれ声を掛けると言って別れた。
一人になった。甘い匂いに誘われて、縁側に出た。庭で、
我が君が
待つと思えば
苦にならず
死出の山路も
三途の川も
清記は、添田の辞世を口ずさんでいた。
(添田様が亡くなられたか……)
添田の、気難しそうな顔が、脳裏に浮かんだ。
殺した。とうとう、利重は添田を殺してしまった。その現実が、重く圧し掛かった。
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