第二十回 阿芙蓉(後編)

 店を出た鏑木は、波瀬川の方へ歩き出した。

 どこに行くとは言わない。その足取りを見ていると、ただ酔いに任せ歩いているようにも見えるが、清記は黙って後を追った。


「夜須はどうも血の臭いが濃くていけねぇ」


 鏑木が、ふと口を開いた。


「やはり、臭うか?」

「ええ、ぷんぷん。平山さんも、かなり斬ったじゃないですか?」

「降りかかる火の粉を払っただけさ」

「まぁ、江戸も似たようなもんですよ。今、幕閣が二つに割れようとしているのはご存知ですよね?」


 清記は頷いた。表向きは、十代将軍・家治の信任を得ている田沼主殿頭たぬま とものかみ意安おきやすの天下だ。田沼は幕府主導の商業に力を入れ、蝦夷地の経営にも乗り出している。為政者として有能な反面、敵も多い。辛辣な弁舌と、家治を蔑ろにする態度、そして武士が商人の真似事をするなどという行為に反感があるのだ。

 その急先鋒に立っているのが、松平諏訪守まつだいら すわのかみ定成さだしげ。将軍家とも血筋近き男は、清廉潔白の烈士を集結させ、反田沼の論陣を張っている。利景も、生前は定成と昵懇の仲だった。


「夜須のような山国でも、その位は耳に入る」

「それで、松平諏訪守は自分達を清流派せいりゅうは、田沼達主殿頭を濁流派だくりゅうはと呼んでいるんです」

「そいつはまた」

「へへ。自ら清流派ってのが気に食わないんですが、まぁそれはいいとして、濁流派と呼ばれた田沼がこう言ったのです。『政事は綺麗事だけでは出来ない。毒を飲んでこそ、将軍家・領民・そして日本国を守れる。我々は全ての濁りを引き受けているのだ』と。それを知った江戸っ子は拍手喝采。濁流派という名も、敬意の対象になりましたね」

「流石は田沼と言うべきか」

「清流派は一転窮地ですよ。まぁ清流派は箱入りのお坊ちゃん集団ですから、濁流派のような外連味が無いので、差があるのは仕方ねぇ事だとは思うんですがね」

「江戸の情勢は判ったが、それと夜須にお前がいる事の関わりはあるのか?」

「まぁ、最後まで聞いて下さいよ。俺はご存知のように公儀隠密なのですが、隠密も幕府内には二つありましてね。御庭番と柳生陰組。で、俺がいるのは陰組」

「お前は柳生流だからな」

「親父も爺さんも、その爺さんも陰組でね。つまり家系なんですよ。それで、その陰組を統べる柳生采女やぎゅう うねめが、清流派に属してまして」

「ほう」

「清流派の巻き返しに濁流派の醜聞を掴めと、ふざけたお役目を俺に命じたのです。その醜聞というのが、阿芙蓉です」

「阿芙蓉だと」


 清記は、思わず声を荒げてしまった。

 阿芙蓉とは、芥子という植物から採取される麻薬である。少量なら薬にもなるが、中毒性があり、廃人にまでするほどの毒である。この阿芙蓉については、利景も添田も警戒していて、何度も取り締まった事がある。何でも、阿芙蓉によって傾いた国もあるのだという。


「ええ。命令ですから調べましたよ。すると、酒井靱負が阿芙蓉を捌いているという噂を小耳に挟みましてねぇ。これには大奥も関わっているらしいのですが、とりあえず俺は酒井が使っている阿芙蓉の道を追う事にしたんですよ」

「なるほど」

「方々駆け回りましたよ。命も狙われました。で、そうしているうちに、夜須に辿り着いたわけです」

「まさか。阿芙蓉が夜須に」

「そのまさかなので、俺も驚きましたよ」

「阿芙蓉が入る道と言えば、長崎か博多。大坂、松前。まさか、夜須のような山国に辿り着くとは……」

「阿芙蓉が入る道は、長崎と博多でしょう。ですが、元締めは夜須にいるのですよ」

「……犬山か」

「御名答」


 鏑木は頷いた。

 犬山家は、富豪として知られていた。山筒隊を自前で組織出来たのも、その財力があってこそだ。その富貴も梅岳の才覚によるものと思われていたが、その裏に阿芙蓉の売買があったとは。


「そもそも、何故幕府は利景公のお子ではなく、腹違いの兄に継がせたのか。その理由も関わっていると思いますよ」

「まさかな」

「利景公は清流派に近しい。一方、犬山は田沼派の酒井に阿芙蓉を流している。つまり濁流派って事です。田沼が清流派の子に継がせる義理は無いですよねぇ」

「確かにそうだ」

「ま、今からご案内する場所で続きは話しますよ。俺より詳しい人がいるので」


 いつの間にか、波瀬川に突き当たった。鏑木が土手を降りていく。清記もその後を追った。

 猪牙舟が待っていた。船頭が清記の姿を認めると、軽く頭を下げた。

 頬かむりをしてはいるが、左耳から顎の先端にかけての、引き攣った古い刃傷が見えた。


「元気そうだな」


 船頭は鏑木の手下、仙次である。相変わらず表情は暗い。軽い挨拶を交わして乗り込むと、猪牙舟は川を下りはじめた。

 仙次の竿捌きは見事なものだった。こうした術も、忍びには必要なのだろう。廉平は変装の他、庭木の剪定が得意だった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「おい」


 案内された小屋で、清記は驚きの声を出してしまった。

 男がいた。焼いた烏賊いか下足ゲソを、引きちぎりながら食っている。

 男は、廉平だった。犬山を探っている最中にされたと思っていたのだ。それだけに、衝撃は大きかった。


「へへへ。申し訳ねぇ、清記様」


 廉平は下足を飲む込むと、バツが悪そうな顔を見せた。


「貴様、心配したぞ。女房もな」

「へぇ、返すお言葉もございやせん。あっしも悪いとは思っておりやしたが、事情がございやして」

「どのような事情だ?」


 すると、廉平が鏑木を一瞥した。そもそも。廉平と鏑木が何故一緒にいるのか。二人に面識は無いはずである。


「平山さん、その事情ってのを説明するべき男が、もうすぐ此処に戻るんで」

「誰だそれは」

「まぁ、会ってのお楽しみ。平山さんに会うのを楽しみにして、酒を仕入れに行ったそうですよ」

「何やら謀られている気分だな」


 清記は憮然として、囲炉裏の側に腰を下ろした。何かがあり、それを自分だけが知らない。その不快感は強いが、廉平が生きていた事は嬉しかった。


「来ました」


 外で見張りに立っている仙次の声が、引き戸越しに聞こえた。


「おう、開けるぜ」


 腕を組んで壁に寄りかかっていた鏑木が身を起こし、戸を開けた。


「よう、平山」


 栄生帯刀だ。まさかの男の登場に、流石の清記も苦笑するしかなかった。


「意外だろう?」

「この組み合わせは、誰も予見できませんね」

「お前が来てくれると、鏑木に聞かされた。だから、酒を用意しようって思ってな」


 そう言って〔銘酒〕と記された徳利を翳す帯刀に、清記は鼻を鳴らした。


「何だ、えらく冷たいな」

「添田様と羽合様が捕縛されました。相賀様は傀儡となり果てています。そしてあなたは、お尋ね者。皆があなたを狙っていますよ」

「知っている。思い切ったもんだな、甥御も」

「他には?」

「何も無いね」


 帯刀の反応は、思った以上にあっさりとしたものだった。帯刀は、必ずしも利景の改革に賛成ではなかった。時には反対したし、苦言も呈した。それは添田にも同じで、元より仲間という意識が無かったのかもしれない。

 それは判る。しかし、清記は微かな苛立ちを覚えずにはいられなかった。


「俺が怒るとでも思ったか?」

「まぁ、帯刀様がそのような人とは思っていません。あなたは、いつも利用するだけの人ですから」

「お、言うじゃねぇか」

「言いたくもなりますね。廉平は生きているし、鏑木が二人を知っている事も解せない」

「つまり説明しろって事かい?」

「そう思うなら、答えていただきたい」

「話すぜ。その為に集まったんだ。その前に、まぁ一杯いこうか」


 囲炉裏を四人で囲んだ。盃は用意していたようで、廉平が全員分を注いで渡した。肴は炙った烏賊。乾物にしたものを、宇美津から仕入れたという。


「阿芙蓉」

「……あなたもですか」

「おうよ。俺は犬山家が差配していた阿芙蓉の道を探っていた。阿芙蓉は天下の御禁制。を利重が関わっていたとあれば、利重を廃する大義名分が立つ」

「ですが、それは栄生家が取り潰される大義名分にもなるのでは?」

「そこは、取引よ。俺は濁流派を追及する気は無い。利重を引き摺り下ろし、常寿丸が継げればそれでいいのだ」


 阿芙蓉の密貿易をネタに、利重の隠居を田沼に呑ませようという魂胆なのだろう。しかし、あの田沼が唯々諾々とそれを受け入れるのか。


「俺はまず犬山の屋敷を探ろうと、若宮を抜け出した。表向きは病と称してな。そしていざ行ってみると、この廉平が追われていたわけだ」


 帯刀が廉平に、話せと言わんばかりに目で合図した。廉平は顔に僅かな赤みが出ている。元々酒は強い方ではない。


「それについちゃ、面目ねぇとしか言えませんや。そもそも清記様にゃ、犬山に関わるなと言われていたわけですから。それを破って探っていたら、忍びがウジャウジャとおりやしてねぇ。ばれてねぇと思ったんですが、こちらの動きが看破されてたみたいで。もう駄目だっと思った時に、帯刀様が颯爽と助けてくれやした」

「ふん。廉平がお前の手下と知っていたんでなぁ。今まで黙っていたのは悪かった」

「廉平が生きていた。窮地を救って下さったとあれば、こちらが礼を言わねばなりません。所在を黙っていたのも、意図があって事でしょうし」

「まぁな。廉平に命を一つ貸したと思って、働いて貰う事にしたんだ。その為にゃ、死んだ事にしている方が都合がいい」

「なるほど」

「それからよ。阿芙蓉密売の僅かな痕跡を追って、あちこち駆け回ったのは」

「そうした動きの中で、鏑木と出会ったわけですか」


 帯刀が、鏑木を一瞥した。


「正直、最初は抜き合いましたがね。ねぇ帯刀さん」

「だが話してみると、意気投合。しかも、お前と宝如寺を襲った同志と言うじゃないか。友達の友達は友達ってもんさ」


 清記は、二人の会話を聞きながら盃を重ねた。友達。帯刀にそう言われても、清記の心は寸分も動かなかった。長い間、帯刀は清記を利用してきた。弟もである。そうした男を、友達とは呼びたくない。


「それで、肝心の証拠は掴んだのですか?」


 帯刀が首を振った。


「全て利重が処理した後だったよ」

「処理?」

「殺したのさ、関わった者全てを」


 思い切った事をする。そうした果敢さと、今まで野心を表に出さなかった慎重さ。この相反するものを使いこなせる事が、利重には出来る。名君。もし自分が、利景に深く関わっていなければ、利重をそう呼び、その旗の下に駆け付けたであろう。


「それで、これからどうするのです?」

「俺達は梅岳に会う」

「本丸を狙うというわけですか」

「そうだ。阿芙蓉の道は、あいつが造ったものだからな。それが利重に奪われた挙句、出家させられた。恨みに思っても不思議はない。つまり、味方になるかもしれないという事だ」

「あなたと、梅岳。何とも言えぬ地獄絵図ですな」


 だが、狙いは悪くない。条件次第では、梅岳は帯刀と協力するはずだ。ただ問題は、梅岳がどこにいるかだ。どの寺院に出家しているのか、それはまだ公にされていない。おそらく、第一級の秘密なのだろう。


「これから、俺らは梅岳を探す。山人やまうどにも協力を要請するつもりだ。恐らく、梅岳は山奥に幽閉されているらしいからな」


 清記の表情が曇った。山人を政争に巻き込みたくないという想いがある。


「聞いた話だと、利重が山人の統制を言い出したそうじゃねぇか。山人の一部が、反感を抱いている事は確認済だ。それを利用しない手はないね」

「あなたという人は」

「我らに加担するもしないも、山人の意志さ。報酬は用意するが、強制はしねぇさ」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 外に出た。

 月が出ている。帰りの猪牙が用意されていた。

 清記を追って出て来たのは、仙吉ではなく廉平だった。頬かむりをし、襤褸を纏っている。どこからどう見ても、百姓が片手間で船頭をしているような恰好である。


「相変わらず、技は衰えんな」

「へぇ」


 猪牙が動きだした。向かう先は、城下百人町の別宅である。死んだ事になっている廉平が城下に入るのはまずいと、その直前で下ろしてくれるよう頼んだ。


「廉平」


 猪牙の舳先に腰掛けた清記が、声を掛けた。


「へぇい」

「お前は、このまま働くつもりか?」

「へぇ」

「帯刀様への義理か? 命の恩人であるが、救われた命を危険に晒す必要はなかろう」

「そいつは、違いまさぁ。あっしは、清記様のお力になれればと思い、帯刀様に協力しているで。帯刀様は恩人ですが、あの御仁の為にゃ命は捨てられねぇです」

「私の為など、無用の気遣いだ。女房も心配している」


 そうは言ったが、廉平の返事はない。

 城下手前の河岸かしに舫いを打つと、清記は舟を降りた。


「さてと」


 夜空を仰いだ。月はいつの間に隠れている。灯りはないが、夜目が利くので苦にはならない。


「男が決めた事です、清記様」


 廉平が言った。その声を、清記は背中で聞いた。

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