間隙 波乱への胎動(後編)

 兵部の顔を見た梅岳が、飛び上がるように駆け寄って来た。

 破顔したその顔には、薄らと涙を浮かべている。

 梅岳の隠宅とも呼べる、離れの一室である。離れと言っても、かなりの広さがある立派な屋敷のていをしている。


「聞いたぞ、兵部。ようやった、ようやった」

「流石、義父上。お耳がさとい」

「おうおう」


 手を握られ、肩を叩かれる。年老いた梅岳は、随分と小さくなっていた。


「やっと、犬山家の悲願が叶ったのう。のう、兵部」

「ええ、義父上には随分と助けられました」


 着座し、兵部は平伏した。


「頭を上げい。礼には及ばぬ。親として、子に当たり前の事をしたまでじゃ」


 梅岳は、兵部の夜須藩主位相続が叶うよう、秘密裏にしかし熱心に動いていた。大奥に阿芙蓉を流し、幕閣には賄賂を撒いた。駄目押しとばかりに、禁裏にも鼻薬をきかせていた。それが出来たのも、密貿易による財力を惜しみなく使ったからであろう。そして、その見返りが悲願の成就だった。

 当然、危険も伴った。幕府の中には、阿芙蓉の動きを追う者もいる。柳生陰組がその最たる勢力で、梅岳は幕吏との熾烈な暗闘を繰り返し、兵部も陰ながらそれを支えていた。


「それで、これからどうなるのじゃ?」

「近々、幕府の上使が来られて内示があります。その後、江戸に登って御目見えを果たす流れでしょう。今、八十太夫に計画を練らせています」

「そうかそうか。ならば、もう息子と気安く呼べぬのう」


 喉がなるような声で言ってのけると、梅岳は高笑いをみせた。


「でじゃ、兵部よ。執政府の組閣はどうするつもりかのう?」

「それですが……」

「ん? 珍しく迷っておるのか? そうじゃろう。今の藩庁は右も左も利景の子分ばかりじゃ。そこで、ちゃんとこの父が用意しておる」


 そう言うと、梅岳は脇に置いていた手文庫から、書き付けを取り出して広げた。


「これは」


 驚いた兵部を一瞥し、梅岳は得意げに鼻を鳴らした。


「新しい執政府と奉行衆じゃ。藩士一人一人を精査し、組閣している」


 書き付けには、役職と人名が羅列していた。当然ではあるが、そこに添田や相賀、羽合の名は無く、多くは犬山派の流れを汲む者だが、中には大抜擢と呼べる者もいる。特に、平山清記を町奉行に持ってくるというのが、何とも妙手だった。あの男の統治者としての力量を、内住という狭い地域に留めておくのは、何とも惜しいと思っていた。


「見事です」


 兵部は、思わず感嘆の息を漏らした。流石は、夜須藩の権力を長きに渡って握っていた男。隠居しても、まだ藩内に目を光らせていたのだ。


「ですが、義父上の名がございませんが」

「そこまで、言わせるのか。相変わらずじゃのう、お前は」


 と、梅岳は首席家老が空位である事を指で示した。

 やはり。兵部は不気味にわらう梅岳を見て、この男が現役であると確信した。現役である以上、その智謀と影響力は義父と言えど看過出来ない。


「なるほど。では、参考にいたします」


 兵部が、書き付けを懐に仕舞うのを見て、梅岳は満足そうに頷いた。


「ですが、一つだけ出来ない事がございます」

「ほう、なんじゃ。言うてみよ」

「義父上の藩政への復帰です」

「なんじゃと? それはどういう了見じゃ」

「義父上は、これより出家していただきます。そこで余生をゆっくりと過ごしていただいたい」

「戯言を抜かせ」


 兵部はゆっくりと首を横にした。


「狂うたか、兵部」


 梅岳が目を釣り上げ、激昂した。


「狂うておりません。私は正気です。だからお願いしているのですよ。出家してくださいと」

「断る。出家すれば、儂は再び立つ事が出来ぬではないか」


 夜須の藩法では、僧籍にある者の政事参画を禁じている。それは二代藩主の折に、ある僧侶が原因で藩内が乱れに乱れた教訓からだった。


「だからですよ。それにもう準備は済んでおります。義父上にご不自由が無きよう、最大限の配慮をいたしますので安心ください。望むなら、義姉上もご一緒で構いませぬよ」


 梅岳の皺首が、怒りの余り赤黒くなっていく。そして、その右手が脇差に伸びた。


「恩知らずが。そこになおれ」

「義父上のご厚情は、終生忘れません。出家されても、私は尽くしますよ。実の父のように」

「実の父のようにだと? 兵部、お前は儂の」

「お忘れですか? 私の父は栄生利永ですよ、義父上」

「貴様」


 梅岳の右手から、刃の白が伸びた。遅い。兵部はそれだけを思った。そして、刃を向けた梅岳は、やはり自分の実父ではないと。

 出生に秘密がある事は知っている。若い頃は悩んだが、今となればどうでもいい。夜須藩主となった今、自分が自分でさえあればいいのだ。


「義父上。実の親は、我が子に刃を向けぬものですぞ」


 兵部は動じる事もなく、その手を掴んでいた。


「殿」


 部屋の襖が一斉に開き、若い武士が流れ込んできた。八十太夫率いる逸死隊である。若武者の一団は、素早い動きで梅岳を囲んだ。


「八十太夫。義父上をお連れしろ。丁重にな」

「はっ。お前達よいな?」


 命を受けた八十太夫がそう言うと、逸死隊が梅岳の腕を取り、拘束された。


「八十太夫。貴様という奴は。孤児みなしごだったお前を拾い、あれだけ可愛がったというのに」


 喚く梅岳の耳元に、八十太夫はその美しい顔を寄せた。


「梅岳様。私はあなたを憎みこそすれ、感謝はしておりませぬ。ですが、ここで斬らぬ事が唯一の恩返しと思ってくださいまし」


 絶句した梅岳が乱暴に連れ去られると、兵部は一人になった。梅岳が記した書き付けを取り出し、今一度読み返す。


(やはり、よく出来ている。だが……)


 その書き付けを、百目蝋燭の火で燃やし庭に投げ捨てた。

 この兵部の世に、犬山派も梅岳も必要ない。義父であろうと、実父であろうと。目指すは、利景の目指した世だ。それを我が手で為す為に、汚名を覚悟で簒奪したのだ。故に、犬山梅岳という男は抹殺しなければならない。

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