間隙 波乱への胎動(中編)

 添田と相賀が青い顔をして去ると、兵部は八十太夫の名を呼んだ。


「はっ」


 襖がするりと開き、そこに八十太夫が控えていた。


柳瀬田やなせだへ行くぞ。支度せい」

「かしこまりました」


 幕府の決定を、義父である犬山梅岳に伝える為である。

 柳瀬田は城下郊外の寂れた村であるが、数年前に兵部は当地の一角を買い取り、広大な屋敷を建てていた。梅岳の隠宅を兼ねたこの屋敷を犬山家では下屋敷と称し、普段は三の丸にある上屋敷で生活している。

 二の丸広場に、八十太夫が逸死隊を率いて待っていた。この隊は、御手先役を助ける名目で設立したものだが、野望が成就した今、これからは親衛隊という側面を強くしていくだろう。

 兵部が頷くと、一同が黙礼をした。

 皆、若い。二十歳やそれ以下の年齢の者ばかりで、下級藩士の部屋住みの中から選抜した。兵部は初め、その若さと頼りなさに危惧を抱いたが、浪人を相手に命懸けの稽古を積み、京都で実戦を重ねる事で、見事な人斬り集団へ変貌した。


「行くぞ」


 全員が、乗馬した。柳瀬田までは、馬である。兵部は愛馬としている黒毛を駆り、城下を抜けた。


「お帰りなさいませ、殿」


 柳瀬田の下屋敷では、執事の沖岡主水おきおか もんどが兵部を出迎えた。四十を幾つか越えた中年の武士を、兵部は気に入っていた。兎に角、実直なのだ。無駄口も叩かない。それでいて、視野も広い。いずれ、この沖岡に側用人を任せるつもりでいる。犬山家中には八十太夫を側用人との声もあるが、兵部にはそのつもりはない。八十太夫は陰に生きてこそ、力を発揮する。そして、本人もそれを望んでいるからだ。


「京都は如何でございましたか?」

「相変わらずだな。土産の菓子を用意してある。後で届くだろうから、奉公人全員に行き渡るよう、配慮してくれ」

「これはお気遣いを戴き」

「構わん。それより義父上は?」


 その問いに、沖岡は表情を曇らせ、


「お春様の所に」


 と、呟いた。

 この実直な執事は、兵部に嘘をくという事をしない。


「相変わらずだな、義父上は」


 兵部は、それを一笑に伏した。

 お春は、兵部の義兄の妻。つまり、梅岳には我が子の嫁にあたる。

 義兄は兵部を養子にする際、廃嫡している。その義兄が昨年病死し、行き場を失ったお春を妾にしたのだ。だが兵部は、義兄が死ぬ前から二人が出来ていた事を知っている。二人がいつから男女の仲になったか判らないが、夜な夜な睦み合う声を聞いた者は少なくない。

 梅岳は、色情魔だ。女だけでなく、男も嗜む。八十太夫が犬山家に来たのも、その相手だった。

 そうした光景が傍にあったからか、兵部は女に対して淡白だった。勿論、男の趣味も無い。この歳になっても妻を迎えていないのは、それが原因なのかもしれない。

 女を抱きたくなったら、決まった女を抱いている。それだけで十分なのだ。その女には銭を渡しているから、後腐れもない。当然、好きだという感情も無かった。


「他に変わった事は?」


 兵部が歩き出したので、八十太夫と沖岡はそれに続いた。


「何やら、躾がなっていない犬が、当家を嗅ぎ回っております」

「犬か。どの程度の?」

「中々利口な。その内の一匹は、番犬になりすましております。追い払いますか?」

「そうさなぁ。なりすましているとは言え、番犬は番犬だ。その犬は利用すればよかろう。そうではない犬は蹴飛ばしてやるのが、飼い主の為だろうよ」

「判りました。では、早速」

「いや、暫くは様子を見ていい。機会を待つのだ。それに、我々も犬を放っている。お互い様なのだから、程々にな」


 沖岡は実直だが、こうした汚れ役も出来る。梅岳の側近時代には、随分と手を汚したらしい。その経験も、兵部には得難いものである。


「暫く休む。お前達は犬の始末を含め、話し合っておくといい」


 兵部は八十太夫と沖岡にそう告げ、自室に一人になった。

 兵部の部屋は、長崎より仕入れた西洋の舶来品で溢れていた。

 机、椅子、絨毯、戸棚、燭台。その全てが西洋の品で、部屋の隅には寝台まで用意されている。

 これらは全て、自分で選んだものだ。値は張るが、どれも逸品である。

 兵部は椅子に腰掛け、机上に置いてある蒔絵箱に手を伸ばした。中には、葉巻。これも舶来品だ。吸おうと思ったが燭台には火が灯っておらず、仕方なく咥えるだけにした。

 甘い香り。この葉巻も、高価なものである。

 犬山家の財力は無限だった。それを支えているものは、密貿易である。長崎・博多・大坂・江戸に窓口を持ち、商人や船乗りと組みながら夜須から操っているのだ。その密貿易でも、特に力を入れているのは、禁制の〔阿芙蓉あふよう〕の密売。

 一度吸うと、世間の憂さを忘れられる秘薬。だが、何度も使うと止められなくなり、最後は廃人となって死んでいく。兵部も、阿芙蓉密売に関わる中で、そうした者共を何度も見てきた。

 少量の使用では薬にもなる阿芙蓉は、この国では黄金のような価値を持つ。犬山家は代々、阿芙蓉の販路を保持してきた。特に販路を強めた梅岳は、裏で〔阿芙蓉大名〕とまで呼ばれている。そうした犬山家の顧客は、口の端にも出せない貴人達だ。そこから生み出された銭と縁が、兵部を六代藩主に押し立てたと言っても過言ではない。

 だが悲願が成就した今、この密貿易を続ける事は危険である。もし事が知られれば、どのような事態になるか知れたものではない。その始末をどうするか。目下の悩みはそれだった。

 他にも考える事がある。が、概ね大きな乱れはない。ここまでは順調に計画は進んでいる。


「殿」


 声がした。八十太夫である。兵部は、入るように命じた。


「梅岳様が、お戻りになられました」


 既に、陽は暮れようとしていた。部屋も随分と暗くなっている。それに気付いた八十太夫が、奉公人を呼んで燭台に火を灯させた。


「そうか」

「ご不在の間の動きを、精査しておりましたが」


 奉公人が去ると、八十太夫が口を開いた。


「何かあったのか?」

「皆藤左馬が、予定通り平山清記を襲いました」


 兵部は、葉巻を燭台にかざし、舐めるようにして火を付けた。煙はやはり甘いが、味にはぴりりとするものもある。


「そうか。だが、私の耳には清記が死んだという報は入ってないようだが」

「幾分か傷を与えたようですが、邪魔が入ったようで」

「あの二人の邪魔をするなど、命知らずだな」

「平山雷蔵です」

「なるほどなぁ。あの者なら」


 清記の息子。何度か会った事がある。女のような外見に反して、伝わってくる武名は凄まじいものだった。特に宝如寺の賊を退治した事は、夜須藩士として誇れる事である。また浪人狩りでも成果を上げ、今は羽合の下で働いている。


「八十太夫。雷蔵をどう思う?」

「剣に於いては、父親以上の天稟を持っております。しかし、単なる人斬りに過ぎません。言わば、駒の一つかと」

「だが、父の清記は代官としても有能だ。夜須藩には無くてはならぬ人材。息子もその薫陶を受けている」

「清記殿はそうでしょう。しかし、その息子が治世でも有能とは限りません。薫陶を受けたといえ、未だ結果も残しておりませぬし。今の所は、まだ刺客としての価値しかないかと」

「ふふ。厳しいな、お前は」


 そう笑ったが、八十太夫は無言で顔を伏せただけだった。

 八十太夫の父・弥刑部を斬ったのは、清記である。おおやけには、痴情の縺れが原因で滝沢作衛門に斬られた事にされているが、真実はそうではない。清水徳河騒動の折に、弥刑部が藩の意向に反して、清水徳河派として動いていたのだ。その時に片腕になっていたのが滝沢であり、それを止める為に御手先役の清記が、刺客として弥刑部を襲った。

 八十太夫は、その事を知っている。表情や言葉には出さないが、相当憎んでいるはずだ。弥刑部が死ななければ、八十太夫が梅岳の男妾にならずに済んだのだあら。

 その復讐心を、兵部は煽る気は無かった。平山家をどう思おうと、八十太夫の自由なのだ。遺恨を晴らしたいと思うなら、決着をつければいい。男として。

 だが、八十太夫が知らない事が一つだけある。弥刑部に清記を差し向けたのが、梅岳自身である事を。八十太夫は梅岳の言葉を信じ、亡き四代藩主の利永が差し向けたと思っている。


「して、皆藤は?」

「これも、手筈通りに遁走しました。清記殿を襲った以上、当家には置いておけませぬ」


 兵部はゆっくりと吐いた煙の中で、微かに頷いた。


「皆藤との連絡は断つなよ。あの者には、まだまだ働いてもらう」


 皆藤は、黒河藩から流れてきた剣客だった。密偵だろうと思ったが、皆藤が本当の名を口に出した時、兵部は受け入れる事にした。

 兵部は、平山家や念真流について何も知らない。しかし、単純に面白いと思った。皆藤が語った、宗家に取って代わりたいという野心は、何となく理解も出来る。


「かしこまりました。銭も幾分か渡すつもりです」

「それと、建花寺村の監視も怠るなよ。仕掛けてくるとしたら、まずあの親子だ」

「ええ。そこは、目尾組から三人借り受けるように手筈をしています」

「それでいい」


 兵部は、葉巻の灰を煙草盆に落とした。


「では行こうか。偉大なる父の元へ」

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