第十五回 死病(前編)

 楽市村の添田家別邸に訪ないを入れると、武士の格好をした貞助が出迎えた。


「これは平山の旦那」


 貞助は相変わらずの鼠顔だ。歯を剥き出すようにして、不気味に笑った。


「達者そうだな」

「へぇ、相変わらずで。それより、旦那も呼ばれたんですかい?」


 清記は頷いて応えた。

 添田から呼び出しを受けたのは、昨晩。伊達継村と面会した五日後の事だった。

 継村から聞いた兵部の件は、廉平を通じて既に添田には伝えている。今回の招集は、その返事なのかもしれない。


「勢ぞろいですぜ」

「他に誰か来ているのか?」

「まぁ、添田様に近しいお歴々が」

「なるほど」


 貞助に案内された一間では、予想通り添田・相賀・羽合、そして唯一の予想外である帯刀が待っていた。利景が頼みにしていた四人である。

 既に時刻は夕闇が辺りを包んだ頃である。百目蝋燭が、部屋の四方に灯されていた。


「来たか」


 帯刀が手招きし、隣に座るように促した。


「これは何の談合でしょうか。私のような者が加わる席では無いと思いますが」


 そうは言っても、清記には大体の見当はついていた。兵部の件である。無断で京都を離脱し、江戸城に入った。その意味を考えると、肌が粟立つほどの怒りを覚える。


「おい、清記よ。身分どうこうを斟酌している段じゃねぇんだ。それに、そう言っちまうと、羽合だって此処に並べるもんじゃねぇ」


 帯刀の言葉を遮るように、咳払いが聞こえた。添田だった。


「先日の報告ご苦労だった」


 添田がそう言ったので、清記は黙礼で応えた。


「その話の続きだが……由々しき、いや恐れていた事態に陥った」


 添田が唸るように、言葉を捻り出した。顔の皺が更に深く見えるような、憔悴の色がある。


「公儀が、常寿丸様の家督相続をお認めになられなかった」

「……」

「悪夢のようじゃがな」

「では、誰が跡目を?」

「犬山兵部。御別家じゃ」


 やはり。伊達継村に話を聞かされ予期はしていても、いざ耳にすると眩暈がしそうな衝撃だった。何故、という言葉すら出ない。嫡子がいるというのに、何故なのか。しかも、よりによって兵部である。帯刀でも、その息子でもよかったはずだ。


「詳しい事は、御別家からも聞かされておらぬ。本人も青天の霹靂か、かなり困惑していたようだが。おそらく、幕閣に銭を撒いたのだろうよ。或いは禁裏を動かしたか。まだ、そこまでは調べておらぬ」


 裏に何があるのか。それを知りたい気持ちはあるが、ここに至ったては無意味な事だろう。六代藩主の内示を、常寿丸ではなく兵部に与えられた。これが覆る事は、まず無い。これから考える事は、この先に起こりうる混乱をどう乗り切るかである。


「御別家を京都留守居にしたのは過ちだった。我々は京都に追いやる事で、亡き殿臨終の席と、その後の藩政から遠ざけたつもりであったが、それが返って自由にさせてしまったのだ。獅子に翼を与えたようなものだな」


 御別家を京都に派遣する。それは利景の発案だったらしい。どういうつもりで京都に送り込んだのか。だが結果を見れば、京都の勤王派は兵部によって鎮められ、大物が数名捕縛された。その事で夜須藩は幕府より褒められている。つまり、兵部を派遣した事は、夜須藩にとっては失策だったかもしれないが、この国にとっては正解だったのだ。


「兵部がお殿様になるなんぞ、あってはならねぇ事だ」


 帯刀が唾棄するかのように言った。きっと、兵部の血筋の事だろう。兵部には、梅岳の種ではないかという疑惑がある。


「もし、奴が藩主になれば……」

「改革が頓挫します。それどころか、梅岳は外戚として復活し、利景様の努力が水泡に帰す事に」


 羽合だった。この男は強硬な反犬山派で、宇美津奉行時代には、犬山派だった者を徹底的に排除したほどである。


「しかし、手立てがございませぬ。公儀の意向とあれば……」

「羽合よう、だからってぇ諦めるのか?」

「仕方がございませぬ」

「ふん、案外腑抜けた男よの。〔今治部〕と呼ばれるというから、どんな剃刀かと思えば、トンだなまくらじゃねぇか」

「では、若宮様には妙案がお有りですか?」


 帯刀の皮肉に、羽合は顔色一つ変えずに返した。


「俺をその名で呼ぶってぇ事は、喧嘩を売る事だぜ?」

「先に挑発したのは帯刀様でございます」

「けっ、言うね。流石、今治部」

「褒められたと思っておきます。……さて、この事態に至っては、どうする事も出来ぬのが現状ではないでしょうか」


 確かに手立てがない。幕府が言い出した時点で、この話は詰んでいる。


「添田様。常寿丸様のお立場は?」

「わからぬ。まだ、御別家ともそこまで話せていない」


 羽合の問いに、添田が答えた。この男も反犬山派で、梅岳との争いでは利景の軍師役を務めた。一門の帯刀はさておき、添田も羽合も首筋は寒く感じるのかもしれない。


「どちらにせよ、公儀次第よ」


 幕府の力は強大で、開闢以来衰えを知らない。今、幕府の命令に背けば、待っているのは滅びだった。そこまでして、利景の血統を残さなくてはならないのか?


「斬るか」


 沈黙を破るように、帯刀が口を開いた。


「兵部を斬るしかねぇだろう」


 それしか術はない。清記は内心で頷いた。幕府が何と言おうと、兵部が死ねばどうしようもないのだ。当然、斬った者は生き延びれない。兵部と道連れという事になる。


「それは、なりません」


 そう言ったのは、今まで黙っていた相賀だった。


「御別家を斬れば、公儀の意向に反対したと受け取られ、取り潰しもありえます」

「そこは勤王派の仕業に偽装すればいい。得意だろう? そういう事は」


 帯刀は皮肉のつもりで言ったようだが、相賀は平然と聞き流している。


「それに、まだ兵部の就任の件は公にはなっていねぇなら、今が好機じゃねぇか。もとい、斬る機会があればの事だが」


 斬るとしても、問題はそこだろう。兵部は用心深い男である。当然、暗殺の備えもしているはずだ。現に兵部の周辺には、逸死隊という使い手がいつも傍にいる。

 従う他に、術はないだろう。抗うとしたら、滅びを覚悟しなくてはならない。だから、皆が黙っている。


(しかし、それでいいのか……)


 兵部が無能というわけではない。しかし、腹で何を考えているか分からぬ怖さがある。しかも、義父は犬山梅岳。利景とその幕僚にしてみれば、不倶戴天の敵とも言える。

 そして、平山家にしても懸念材料がある。それは、兵部が寵愛する江上八十太夫だ。彼の父である弥形部を、清記は藩命で斬っているのだ。そして、おそらくその事を八十太夫は掴んでいる。もし八十太夫が、兵部の寵臣として権力を握った時、平山家に何もしないはずはない。


「どうしようもねぇのか」


 帯刀が、おもむろに立ち上がって言った。


「ここからは、俺は一人でやらしてもらうぜ。栄生家を守る。それが死んだ馬鹿兄貴に託された、俺の使命ってやつでね」

「帯刀様、短気は相手の思う壺ですぞ」

「添田よ。熟慮を重ねても、答えは出ねぇんだ。そうなりゃ、この帯刀の一剣に賭すのみ」

「御別家を斬れば、帯刀様のお命もありません」


 清記は初めて口を開いた。


「清記。この俺が命を惜しいと思うかい?」

「……」

「不肖、栄生帯刀。この価値もない一命と引き換えに、犬山兵部を地獄に叩き落としてやる。俺がお前らを救ってやるよ」


 帯刀が席を立った後も暫く話したが、何か有効な手立てが出たわけではなかった。

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