第十一回 落日(前編)
不在の間の仕事が、山積していた。
雷蔵に代官職を代行させても、
この日はいつもより早くに代官所棟へ渡り、御用部屋に籠って書類に目を通していた。
利景の不例が発表されても、清記の日常が変わる事は無い。また、変わる事を利景は望んでいない。あの麒麟児は、ただひっそりと消えゆきたいと、願っているはずだ。そう思えばこそ、清記は普段通りに精励している。
しかし、そうした利景の心情を読み取れる者は少ない。病床が東光寺に移ると、近くの近くの馬敷村は人で溢れかえり、足らない宿舎を大急ぎで建てているという。まるで夜須城の奥向きが、そのまま引っ越して来たかのようである。利景がそれを知れば、苦笑しながらも注意するであろうが、ここ二日は状態が悪く伏せっている。
その一方で、藩庁も騒がしさを増していた。
執政府は連日会議を繰り返し、栄生家の御一門衆も、続々と城下に入っている。来たるべき、利景亡き夜須藩について談合をしているのだと、三郎助から聞いた。
後継者は、常寿丸。未だ乳飲み子であるが、血筋も申し分のない利景の長子で、その相続に何ら異論はない。藩内でも、その相続は遺漏なく進む思われているが、問題は後見役である。
利景は、後見役を指名していない。それが誰になるかで、今後の夜須藩は大きく変わるのは必定だった。
順当に考えれば、帯刀であろう。風来坊を自称しているが、利景の信頼篤く今も病床につきっきりだ。改革には懐疑的な側面もあるが、表立って政事に口出す事もない。
(御別家の芽は無いな)
と、書類に目を通しながら、清記は兵部の精悍な顔立ちを思い浮かべた。
利景は、兵部の野心を警戒している。能力だけなら申し分ないが、生まれた星が悪かった。いや、その生まれにまつわる噂が悪いのか。
どちらにせよ、この時期に兵部が夜須にいないのは、不幸中の幸いだったかもしれない。もし兵部がいれば、混乱する藩内を纏め、影響力を拡大していたであろう。現に相賀舎人が、兵部と近付いているという話を耳にした。謀略というものに縁が無さそうな顔をしていながら、平然と成し遂げる能力は十分にある男だ。
雷蔵が、来客を知らせに来た。屋敷の客間で待たせている。清記はすぐに行くと告げた。
「御用でお忙しい中、失礼いたします」
使者として現れた若い武士は、その顔に幼さを十分に残していた。
元服間もないのだろう。雷蔵とは年の頃は変わらないが、闇を知らない瞳の輝きに、清記は一瞬だけ眩さを覚えた。
この若者は、犬山兵部の小姓だと称した。初めて仰せつけられた役目なのか、堅すぎる所作で清記に書状を差し出した。
差出人は、皆藤左馬であった。
「皆藤殿が私に」
若者は、その呟きに大きく頷く。気負いからか、こちらの一言、一挙手一投足を見逃すまいとしている。
その書状には、日時・場所だけが記されてあった。他には何もない。それだけで、この手紙が何を意味しているのか十分に判る。
「書状の内容、しかと承ったとお伝え願いたい」
清記は書状を畳むと、懐に仕舞った。
どうやら皆藤は、京都には随行しなかったらしい。もし皆藤が念真流を使うのであれば、今の京都にこそ働き所があるというものだが。
(兵部が皆藤を夜須に残した事には、何か狙いがあるのか……)
使者を帰すと、清記は御用部屋に戻って暫く考えた。もし兵部が動くとしたら、まずは暗殺だろう。その目標は、恐らく帯刀と添田。この二人を排すれば、藩内に於ける兵部の影響力は計り知れないものになる。
現在、兵部は敵ではない。利景の改革に、協力的である。が、利景も帯刀も兵部に只ならぬ野心を感じている。おそらく、その野心とは栄生家に犬山の血を入れる事だろう。それだけは、何としても阻止しなくてはなからない。これは利景の命令でもある。
清記は、懐から皆藤の書状を取り出した。
三日後、未の刻。弥陀山、不動松。
弥陀山は、釣り場としている渓流があり、この村からも近い。清記の庭みたいなものだ。
皆藤が決闘を申し込んだのは、兵部が仕掛けた謀略の一環であろうが、念真流を使うのであればそれだけではない事情を、どうしても考えずにはいられない。
(父上は、かつて念真流の傍流がいると言っていたが……)
父の悌蔵すら、詳しい事は判らないらしく、存在以上の事を何も言い残さなかった。
念真流は夜須藩の御留流である以上、他藩への流出は禁じられている。だが、一子相伝ではないので、夜須藩士であれば教授する事が許されていて、現に清記は堂島丑之助に念真流を授けた。傍流はこうして生まれたのかもしれない。
(あれこれ思案しても仕方ないか)
まずは皆藤を破る事。これに集中しなくては、足許をすくわれる可能性がある。
清記は雷蔵を呼んだ。
「お呼びでしょうか」
雷蔵は、額に大粒の汗を浮かべていた。まだ夏は暑さの手を緩めない。
「暫く、家を空ける。留守を任せるが構わぬか?」
「はい、それは。代官所は磯田が、屋敷には三郎助がいるので」
「すまぬ。戻りは四日後になる予定だが、どうなるか判らぬ」
「お役目でございますか?」
「違う。が、平山家の事だ」
「平山家の……」
雷蔵の目が、不敵な光を帯びた。
「刺客でございますか」
「どうかな。それを確かめに行く」
「皆藤左馬ですね、父上」
清記は、少し迷った後に頷いた。
「廉平の事があります。その役目、私に任せて下さいませぬか?」
廉平は今も、屋敷の一室で療養している。傷は癒えつつあるが、まだ体力は戻っていない。本人は家に戻ると言っているが、皆藤に狙われる危険があるので、無理に押し止めている。
「それは無理だな。これは先方の要望でもある。まぁ、お前は気にするな、どうせ私の次はお前だ」
「判りました。ですが、どうかお気を付けて」
それ以上、雷蔵は何も言わなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
三日、清記は弥陀山の山中で過ごした。
山野を駆け、兎を獲って肉を喰らい、扶桑正宗を闇に向かって構える。ただ、それだけを清記は繰り返した。そうする事で、自分の鋭い部分を磨けると思ったのだ。
今更、技術を磨きようはない。勝負を分けるのは精神力なのだ。そうした修行が功を奏したのか、約束の日には心身が不思議と軽くなっていた。また、全身に取り込んだ山気のお陰か、腹の獣も暴れそうな予兆も無い。
不動松は、弥陀山の中腹にある。樹齢など知れない立派な松で、その周りは拓けた場所になっている。
未の刻。既に皆藤は待っていた。
下げ緒を襷掛けにして、袖を絞っている。清記は筒袖のものを着ているので、その必要は無い。
清記は、歩みを止めた。目が合う。皆藤が頷いた。
語り合う必要は無い。そう清記は感じた。皆藤もそうだろう。
手が、扶桑正宗に伸びる。そして、駆け出していた。始めよう、と言われた気がしたのだ。
皆藤の姿が近くなる。既に抜いていた。清記は、ありったけの力で、地面を蹴った。
跳躍。扶桑正宗を振り上げる。落凰を放つ。皆藤も跳躍し、刃が宙で交錯した。
地面に降り立つと、相正眼で対峙となった。
切られたのは、左袖。薄皮一枚斬られていた。一方、皆藤の身体には傷一つ無い。
「お見事」
皆藤が構えを解いて言った。
「おぬしも」
清記も皆藤に続いた。殺気は既に収まっている。
「しかし、中々どうして……私の為に、鍛え直されたのですな」
「判るか?」
「勿論。まるで獣が現れたように、私は感じました。ほら、このように肌も粟立っております」
「念真流を使う者と立ち合うのだ。私も獣に戻る必要がある」
「お見通しでしたか。私が念真流を使うと」
そう言うと、清記は鼻を鳴らした。
「知らせる為に、お前は跳躍したのだろう?」
すると、皆藤は彫が深い顔に、不敵な笑みを浮かべた。
「平山殿が使われる、落鳳。それを我々では、
「我々?」
「念真流を、夜須の平山家だけが使うと思ったら大間違い」
「傍流がいるとは聞いたが」
「傍流とは酷い言い方だ。正確には分家と言うべきでしょうな。実は皆藤の名は変名でしてね、本名は
「平山と」
「如何にも。ただ当方の平山では、念真流を使う者は平山姓を名乗れる事になっておりましてな。私はその口で、血縁はござらん」
「して、私と立ち合う理由は?」
「宗家に取って代わる、これは一族の悲願でしてね」
宗家。その言葉を、清記は口の中で呟いた。確かに、分家にとっては宗家になる。それに取って代わりたいと思うのも、おかしい動機ではない。
「だから、御別家に加担したわけか」
「ふふふ。それはどうででしょうね」
「御別家は我々を潰し、そなたを御手先役に据えるつもりか」
話の筋は見えてきた。が、皆藤はその問いに答えようともせず、薄ら笑いを浮かべるだけだった。
「他にも聞きたい事が山ほどあるが」
「もう話す気は無いですよ」
「では、そなたを打ち倒し、身体に訊く事にしようか」
「拷問とは」
「このお役目をしていると、得意と申していいほどになるのだ」
「ほう、それは興味深い。特に平山殿の拷問は」
「いずれ、味わう事になる」
皆藤が肩を竦め、再び剣を構えた。
猛烈な殺気が、清記の身体を打った。皆藤の剣は、どこまでも攻撃的だった。鷹揚とした所はどこにも無い。全て、この自分を殺す為にある。それしかない剣だった。
皆藤は、何の迷いもなく踏み込み、斬撃を浴びせてきた。
(何と、大胆な)
清記は驚きを覚えながら、
清記が大きく後方に跳ぶと、それに合わせ皆藤も前に踏み込み、斬り払いを浴びせた。
微塵の隙もなく、容赦もなく、鋭角に切り込むような太刀筋である。
その皆藤を破る為に、どうするべきか。斬光を鼻先で躱しながら、清記は考えを巡らせた。
(あれならば)
思い浮かんだのは、雷蔵の
あれならば、皆藤を斃す事が出来る。とも思ったが、清記はその考えを払拭した。
いや、あれだけは使ってはならない。万が一に自分が敗れた時、次に雷蔵が狙われる。その時に切り札になるのが、幻位朧崩しなのだ。
恐ろしい突きが、左腕を掠めた。構わず、踏み込み斬撃を浴びせるが、それを皆藤は後方に跳び退いて躱した。
五歩の距離ができた。清記は、大きく息を吐くと、上段に構えた。皆藤は変わらず正眼である。
次が勝負だ。対峙が長くなると、いつ腹の獣が暴れだすか知れたものではない。
左腕の傷から、血が伝っていく。そう深くは斬られていないはずだ。
跳ぶしかない。当然、皆藤もそれを予期しているだろう。その予期したものを超えた所に勝機はある。
清記は、土を足の指で掻くように踏みしめた。氣を込める。脳裏に浮かぶのは、両断された皆藤の姿しかない。
「やめましょう」
不意に皆藤が構えを解き、刀を収めた。殺気も、一気に消えていく。
何故? そう訊こうとした時、清記は皆藤の背後に気配を感じ、視線を向けた。
「お前」
雷蔵が佇立していた。
「これはこれは。父上の加勢ですかな?」
「失せろ、下郎」
雷蔵が皆藤を無視するかのように背を向けて通り過ぎ、清記に歩み寄った。
「下郎とは、また」
「失せろと私は言っている。火急の要件なのだ」
「そのような事を申して、お父上に恥をかかせまいとしておるのだな。何とも父想いな御曹司よ」
明らかな挑発に、雷蔵は鼻を鳴らしただけだった。
「父は傷を負っているが、それは寸前まで踏み込んだからだ。父の剣に怯え、及び腰で踏み込めない貴様とは違う」
「ほう。私が怯えていると」
「貴様では、父に勝てない。それは自分で気付いているだろう?」
雷蔵は、皆藤に目も向けていない。とことん相手にする気がないのだろう。
「そして、私にも怯えている」
「ふふ。御曹司は、存外口が上手い」
「兎に角、今日は退け」
「嫌だと言ったら?」
「斬るしかない」
雷蔵から、禍々しい殺気が沸き立つのを感じた。それは肌が粟立つほどで、雷蔵が振り向くと、皆藤は殺気を避けるように、後方に跳び退いた。
「貴様」
皆藤の表情に、無自覚な怯えが浮かんでいるのを、清記は感じ取った。
(ここまでの腕になったか)
あの皆藤すら、怯えを感じるほどの殺気である。やはり、雷蔵には
「よかろう。平山殿との対峙の後におぬしが相手になるのは些か辛い。今日の所は、おぬしの言う通り退こう。だが、次は無いと思えよ」
そう捨て台詞を吐いて去った皆藤の背中を見送ると、雷蔵が清記に目を向けた。
「父上、お殿様がお呼びです」
「お殿様が?」
「ええ。父上だけでなく、奉行級の藩士全員ですが」
「そうか……」
それはいよいよ、利景の死期が近いという事だろう。
「まずは傷を」
清記が手拭いを傷に充てた。思いのほか出血している。
「縫うほどではない。それに殿様がお呼びなのだろう?」
「いえ、縫いましょう。ただ、それは屋敷に戻ってからです。若幽を待たせておりますし、馬も着物も準備しております」
「段取りがいいな」
「三郎助のお陰です」
「何故、此処が判った?」
すると、雷蔵は視線を逸らした。その先を追うと、猟師に化けた貞助が控えていた。
「手懐けたのか」
「いや、友人ですよ、父上と廉平のような」
清記は頷いた。
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