第十一回 落日(後編)
鞍上の清記は、東光寺へ駆けに駆けていた。
若幽の縫合を受けた傷には、
(いよいよ、来るべき時が来たか)
馬腹を蹴りながら、清記はそう思わずにはいられなかった。
何故に利景なのか、とも思う。この日本で必要な人材が、こうも早く死ななければならないのか。
利景に初めて会ったのは、彼がまだ少年で、江戸での事だった。直衛丸と名乗っていた利景を初めて見た時、清記は表現し難い光を感じた。今になれば、それが名君が持つ仁徳だったのかもしれない。
そこで清記は、利景に質問をされた。
「どのような主君ならば、お前は身命を賭して仕えてくれるのか?」
その問いに、清記はこう答えた。
「責任を自覚した主君」
利景はそれ以来、自覚し過ぎるほど自覚した主君だった。大名なら許される贅沢もせず、家臣と領民を支えてくれたのだ。こうした主君に仕える事が出来たのは、武士の誉れだったのではないか。
馬敷村に入り、東光寺の門前で馬を乗り捨てた。山門を潜ると帯刀がいて、歩み寄ってきた。
「血が臭うな」
帯刀が、珍しく表情を曇らせた。
「相手は誰だ」
「この場では申し上げられませんね」
「難しい話なのか?」
「平山家の禍根ですよ。お気になされずに」
「相変わらずか」
「それで、お殿様は?」
すると、帯刀は首を振った。
「お前を待っている」
「私をですか?」
「ああ。添田、相賀、羽合、そして俺と、主立った者を順にお呼びになっている。それでお前さ」
帯刀の案内で、境内を横切り庫裏の裏手にまわった。
帯刀が、中の人間に声を掛け、そのまま縁側に腰掛けた。そして、清記に「行け」と言わんばかりに、顎でしゃくった。
「殿……」
利景は絹の布団に寝かせられていた。薄い胸を、上下にさせている。その度に、喘鳴が漏れていた。
部屋にいるのは、侍医と小姓頭、そして帯刀の妻である。利景の正室と常寿丸は江戸在府であり、ただの一人も側室を迎えていないので、奥向きは帯刀の妻が手伝っているのだという。
「清記か」
利景が目を開いて、顔を向けた。
「はっ、清記にございます」
「来い」
そう促され、清記は
「どうやら、お迎えが来たようだ」
「何を気弱な事を申されますか」
「仕方ない。自分でも判るのだ」
「……」
死を前にして、
再び、利景の乾いた唇が開いた。
「お前のお陰で、私は大名になれた。直衛丸と名乗っていた頃、私は大名になれるなど考えもしなかった」
「私も若こうございました」
「兄と争い、政敵を退け、思うままの政事を為す事が出来た。長い、長い旅だったような気もするが、心残りもある。……しかし、これが天命だなぁ」
利景の瞳に光るものを、清記は認めた。
「お前を通して、私は多くの者を殺めた。そう思えば、この死病も受け入れねばならん」
「いえ、殿。手を下したのは私でございますぞ」
「命を下した私も同罪だ。少なくとも私はそう思っていたぞ。そして、お前には過酷な役目を科してしまったともな」
利景の目が、再び清記に向いた。思わず視線を逸らしてしまうほどの、強い光を放っている。
「御手先役を廃す。その決断を私は出来ずにいた。この場でそれを伝えたいのだが、常寿丸が心配なのだ」
「殿。ご心配は無用でございます。この清記、命を賭して、常寿丸様をお守りいたします」
「私を守ったようにか」
清記が頷いた。すると、利景の細い手が清記の腕を掴んだ。
「すまぬ……。だが、頼む」
清記は、骨と皮だけになった利景の手を取り、したたかに平伏した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
庫裏を出ると帯刀の姿は無く、代わりに若い小姓が駆けつけてきた。
案内されたのは本堂だった。そこには、添田甲斐や相賀舎人の他、許斐亘・羽合掃部・猪俣八衛門・徳富勘蔵など奉行以上の藩士や、一門衆が集まっていた。清記は後方の隅に座した。藩の職制では、内住郡代官という地位は、決して高くはない。
帯刀が姿を見せ本堂の脇に控えると、小姓が利景のお成りを告げた。
(まさか)
裃姿の利景が現れた。皆が驚き、一斉に平伏する。危篤である利景が、誰の手も借りずに歩く。先程の姿から、想像すら出来なかった。
「顔を上げよ」
利景が皆の前に腰を下ろすと、静かに言った。
「いいか、私には
本堂が静まりかえった。利景は目を閉じ、そして口を開いた。
「私の次は、常寿丸を夜須藩主とする。後見は栄生帯刀。藩政は添田甲斐が代行せよ」
そこまで、一息で言った。そして、目を見開く。すでに光は無く、焦点が合っていないように見えた。
「私の死後、喪など服すな。領民の為に、ひたすらに働け。殉死など以ての外だ。絶対にしてはならぬ。武士の命は、弱きを守る為にあるものだ。万が一、決断に迷う事あらば、衆議で決めよ。身分を問わず、多くの意見を求めるのだ。それでも決まらぬ場合は、数だ」
方々ですすり泣く声が聞こえる。清記も自分の頬が濡れているのを感じたが、どうする事も出来ない。
「忠義だ。公儀への忠、民への義。夜須藩士は、それを忘れるな」
「他に、何か」
声が挙がった。次第に、その声は方々に広がっていく。
「私は生きた。生き切った」
そう言い切ると、利景は目を閉じた。
「皆、仲良くな」
静寂が本堂を包む。誰も何も言わない。そして、利景の身体がゆっくりと傾くと、帯刀と添田が飛び出し、それを支えた。
一斉に、嗚咽が広がった。
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