第八回 夢想の巣(前編)
室谷慶堂は、深江藩領の東端にある
城下から遠く、村の背後を流れる川を越えると、そこは高家旗本・
松永外記と会談した翌日に、清記は旅籠を引き払い城下を出た。貞助が、新たな宿を用意したというのだ。
向かったのは、臨済宗・
清記は堅苦しい場所ではと身構えたが、それを察した貞助が一笑して言った。
「なぁに、禅寺っても気になさる必要はございやせんぜ。朝の勤行だって、お天道様が真上に来た頃に始まるぐらいでさ」
更に、初老の住持は男の格好をさせた女を囲い、夜は本堂で
しかし、斯波領に宿を移すのは妙案だった。万が一にも藩吏に追われた場合、斯波領へ逃げ込めば、それ以上追う事は出来ない。それに法妙寺から大入村は近く、何かと動きが取りやすくもある。
法妙寺に移って二日間、清記は動かなかった。住持と賭け将棋を指し、寺の傍を流れる川を見て過ごした。釣竿さえあれば、日がな一日太公望を決め込んでいたであろう。
三日目の夜。清記が起居する離れに、黒装束の貞助が天井からするりと現れた。その身のこなしは、流石は目尾組と言える。
「戻りやした」
貞助には、室谷の身辺や行動を探らせていた。それによって、どう襲うのかを考えなければならない。
「ずっと村に籠りっきりでございやした。屋敷からも出やしやせんね」
「暗殺を気にしているのだろうな。講義はしているのか?」
「へえ。そりゃ毎日精力的に。村の衆にも教えているようで」
室谷は、屋敷に
(私塾か……)
最近、こうした私塾が勤王思想を植え付ける温床になっている。雷蔵が斬った真崎惣藏や、
(内住でも考えねばならぬ事であろう)
百姓に学問を授ける事に、清記は反対ではない。しかし、教える内容は厳しく吟味する必要があるとは思う。百姓が商人に騙されない程度の、文字と算術で十分ではないか。少なくとも、思想を植え付ける必要は無い。
「村の様子はどうなのだ?」
「おっと、そいつが本題」
貞助は、膝を一つ打った。
「まあ、村の中は侍がごろごろおりやすよ。話を訊くと、室谷の弟子って事ですが、用心棒も兼ねているようでして」
「百姓達はどうだ?」
「一見して普通でございやすがねぇ。朝から晩まで野良仕事に励むような。ただ、中には明らかに百姓になりきれていない者もいやしてね」
「ほう」
「目が、百姓じゃねぇんですよ。まぁ素人が見れば判らないでしょうが、あっしの目は誤魔化されやしませんや」
「黒河の
貞助が頷く。
「だが、室谷の人望だけで一村まるごと勤王の巣に出来るとは思えぬな」
「旦那。そこで、大入村の庄屋の登場って具合でござんす」
貞助が、得意気に歯を剥き出して嗤った。どうだと言わんばかりだが、清記はそれを無視した。
「その庄屋ってのが、
「その者が、室谷の後ろ盾か」
「へえ。しかも、室谷の弟子でもありやす。この久右衛門が屋敷や塾まで用意したというから、とんだ熱の入れようですぜ」
最近では、庄屋や豪農が天下国家を論じるのも珍しくはない。中にはその中から藩士に登用される者もいるというし、先年の橘民部の叛乱未遂でも、庄屋層からの参加者もいた事が確認されている。
「その村を見て、どう思った?」
そう訊くと、貞助はらしくない真剣な面持ちで少し考え、口を開いた。
「
清記は、その軽口に鼻を鳴らして応えた。虎穴。そう聞けば、入りたくなる。そうでなければ、室谷の首という
「よし。明日、室谷慶堂に会いに行く。供をせい」
「へっ? 旦那、あっしの報告を聞いておりやした?」
「無論。聞いた上で決めたのだ」
「危険ですぜ。あの村の連中は殺気立っておりやすし。わざわざ虎の穴に入るこたぁねぇでしょうに」
貞助の言葉に間違いはない。もう少し、安全な方法もあるはずだ。特に他国では慎重を期す必要がある。しかし、このまま眺めていても妙案が浮かぶとは思えない。最も避けるべきは、無為の時間を過ごす事だ。
「室谷慶堂と話したくなった。それだけだな。貞助、怖いなら付いてくる必要は無いぞ。元々私一人でやるつもりなのだ」
「いやいや、怖いとは言っちゃおりやせんぜ、旦那。あっしはただ一応止めただけですよ、一応」
「では、明日。虎穴に入らざれば虎児を得ずだ」
「ったく、どうせ入るなら、女の
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日、貞助は脇差を一本腰にぶち込んだ、中間の格好をして現れた。
それは手筈通りの事だった。清記は旅の剣客、そして貞助はその従者を装うように話をしていたのである。その為に、清記も手甲に脚絆と、旅装に着替えている。
室谷のいる大入村は、斯波領を出て、四半刻ほどの距離にある。
村を一望できる丘陵の上で、清記は足を止めた。
村を囲む、広い農園。そして川から水を引いた大きな溜池と、用水路。大入村は、深江藩にしては大きな村だった。そして、他の村より豊かに見える。内住代官所がある建花寺村とは比べものにはならないが、兎角、寒村が多い深江藩にあっては、この豊かさは出色の存在だった。
すると、貞助が何やら懐から筒のようなものを取り出した。
「それは?」
「簡単ですが、村の絵図でございやす」
「ほう、やるではないか」
「これが得意ってわけじゃねぇんですけどね、あれば便利だろうと」
貞助は、得意気に歯を剥き出して笑った。
「まぁ、ご覧ください」
と、貞助から渡された絵図を見て、思わず唸り声を上げた。
「……まるで、城ではないか」
「へぇ、しかも難攻不落ですぜ」
清記は立ち上がりって村を眺め、また絵図に目を落とした。
「これは、簡単に攻め落とせぬ」
村は曲輪のように、何層にも囲まれているのだ。まずは村を用水路や農園で囲み、次に百姓達が住む区画。ここからが村になり、三の丸と呼んでいい。その三の丸に囲まれて、庄屋屋敷で働く者の長屋がある二の丸があり、そして全ての中心に、本丸と呼ぶべき庄屋屋敷があった。
「何に備えているか判りませんがねぇ」
「室谷の塾は?」
「それは、この二の丸。起居している屋敷は、庄屋屋敷に併設しておりやす」
「警備は?」
「ざっと見積もって、二十。これは常駐の数で、村内には浪人だか志士だか判らない連中が十数名。これに百姓に化けている連中を含めれば見当もつきやせん」
「虎穴だな」
「でしょう? やめますかい?」
「いや、私は今になって自分の選択が正しいと思えたのだ。この村は攻め落とせない。ならば、斬り込むか誘い出す他に術は無い」
そう言うと、貞助が声を挙げずに笑った。それがどうも奇怪に見える。
「貞助。私には一つ腑に落ちない事がある」
「何ですかい? そりゃ」
「高々庄屋が、こうした豪壮な構えを出来るものなのか?」
「旦那。そりゃ、久右衛門がやり手なんですよ」
と、貞助が説明した。
「ここら一帯の村々は、久右衛門の支配下と言っても過言じゃありやせん」
「ほう、それはどういう事かな?」
「これは噂ですがね、村を買っているのですよ。他にも庄屋として、自分の子飼いを送り込んだり」
「拒めばどうなる?」
「
「役人は久右衛門の味方なのか?」
「へぇ。久右衛門の金蔵には、銭が唸るように詰まっているみたいで、袖の下には困らないようでございやすよ」
「外記様は、この事を知っているのだろうか」
すると、貞助は口の端を歪ませた。よい質問だ、と言わんがばかりの顔だ。
「だからですよ。面倒な存在を我々に片付けて欲しいのでしょう」
「なるほど」
もし、これが夜須藩ならどうするか。眼下の大入村を見下ろしながら、清記は暫く考えた。
おそらく、見過ごす事はしないだろう。かと言って、藩法に叛く確かな証拠が無い限りは裁く事はしない。そうすると、利景は御手先役に始末させるだろうか。
(私なら迷わず斬る……)
代官として、影響力が強すぎる庄屋は看過できない。往々にして、こうした男が一揆の首魁になるものなのだ。
よって内住郡でも、全ての庄屋が平均的であるように務めている。
「銭の出処が気になるな」
「へぇ。一応、水源の土地を有している事が、久右衛門の財政源とされておりやすがね、それだけじゃねぇような気がしやす。旦那、この裏を調べやしょうか?」
「……いや、よそう。それは夜須の問題ではない。我々は速やかに室谷を斬るだけだ」
「確かに。変に突いたら藪蛇になる臭いがしやすしね」
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