第八回 夢想の巣(後編)
村に入った。
やはり他の村より豊かで、幾つかの商店が軒を連ねているほどだ。大入村と近郷の百姓を相手にしているのだろう。
行き交う者は百姓ばかりだが、中には浪人風の武士の姿も見られた。
彼らは、すれ違う度に何とも不快な視線を投げかけてくる。ざっと見で、五名。久右衛門の手下なのか室谷の弟子なのか、今の所は判らない。
「少なくとも、流れの浪人ではないようだな」
清記が小声で耳打ちすると、
「へぇ、そうみたいで」
と、貞助は同意した。どうやら、同じ事に気付いているようだ。
百姓が浪人達に怯える様子も、目もくれる様子もない。そこにあるのは、同じ村に住む者同士の空気感である。〔歩く災厄〕と忌み嫌われる浪人に対する反応としては、どうも奇妙だ。
「旦那様。飯でも食いませんか?」
貞助が足を止め、〔めし さけ〕と書かれた提灯を指さした。ちょうど、陽は中天に差し掛かろうとしている。
奥行きがある店だった。土間には六つの机と、右側の壁に沿って座敷席も設けられている。
清記は早々に座敷に座り、飯を二つ頼んだ。店を切り盛りする年増女が、愛想のいい返事をする。今日の菜は、豆腐の味噌汁と泥鰌を串で焼いたもの、それに香の物が付くそうだ。
客は三度笠の若い渡世人二人組と、職人風の中年が一人。職人は
「ここは、村の百姓も来るのかい?」
貞助が、飯を運んできた年増女に訊いた。
「夜はね。昼間はご覧の通りさ」
「へぇ。まあ、酒を飲ませる店は他に無さそうだしな」
「お陰で繁盛させてもらっているよ。それより、お武家さん達は見ない顔だね?」
「我々は旅の者で、先刻着いたばかりなのだ」
そこで清記が口を開くと、年増女は横目で一瞥し、化け狐のように誘う笑みを見せた。男に媚び、誘うような雰囲気がある。
「おいおい、うちの旦那様に色目を使わんでくれよ。これでも、国に愛妻を残しているんだ」
「へん、いいじゃないのさ。減るもんじゃなし。ねぇ、旦那」
「まぁいいではないか。それにしても、大きな村だな」
清記は笑みで年増女の誘いを受け流すと、話を変えた。
「そりゃ、そうでしょう。ここは深江藩でも一番栄えている村ですからねぇ」
「ほう、通りで。近郷の村々を見て歩いたが、比べようもない」
清記の言葉に、年増女は得意気な顔で頷いた。女にとって、この村の豊かさは自尊心なのかもしれない。
「庄屋が評判だと聞いたぜ?」
貞助が、絶妙な間で口を挟んだ。
「そうそう。庄屋の久右衛門様のお陰なのさ。学があるし、義侠心も篤い。人柄も温和という三拍子付きさね。村の衆は、みんな感謝しているよ」
思った以上に、人望があり驚きだった。ただの学問道楽ではなく、庄屋としての力量もあるのだろう。
では、室谷はどうか。訊いてみようとしたが、
「みつ、何を油売ってんだ。煮物、上がるよ」
と、板場から年増女に向けて声が飛んだ。女の夫なのか、かなり荒々しい。
年増女がその場を去ると、清記と貞助は昼餉を無言で平らげた。
味は不味くこそないが、特に印象に残るものではなかった。強いて言えば、香の物が漬け古されていて、酸味が強いぐらいだろう。昔から、料理の味にこだわる所があった。どうせ食べるなら、旨い方がいい。それは人間として自然な事で、今も変わらない。だが雷蔵は、餓えなければいいと思っている節がある。思えば父の悌蔵もそうで、自分が平山家で異端の存在なのかもしれない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
驚いた事に、三の丸から二の丸に入るには、掘割に掛けられた跳ね橋を渡らなければならない。また跳ね橋の袂には木戸があり、来訪者は否が応でも木戸番の誰何を受ける事になる。
番太として立っていたのは、まだ幼さが残る、二人の武士だった。
「私は、
清記は、変名を名乗った。役目の為に、こうした名は幾つも持っている。二人は顔を見合わせ、一人が奥へと駆けて行った。
暫くして出て来たのは、これも若い武士だった。貞助は肩を竦ませたが、清記はこの若者にも慇懃に一礼をして見せた。
「お待たせした」
青年は、室谷の従者と称した。額や頬は
「栗原殿は、どうして先生との面会を希望されるのですか?」
青年は、不躾に質問した。言葉は丁寧だが、相手を軽く見ている冷たさが声色にある。
「ええ。生まれは東北のさる藩。若い時分に国を捨て、この歳まで関東の原野で剣を磨いて参りました。国事には関わるまいと思っていたのですが、ここ最近になって室谷先生の名と勤王という言葉を耳にし、どうも頭から離れないでいるのです」
「なるほど」
「そこで、先生に勤王についてご教示頂けないかと思い、参上した所存です。私にも今の幕政に思うところがありましてな」
「左様でございますが。失礼ながら、ご流派と段位は如何ほどで?」
「
免許という言葉を聞いてか、従者は僅かな驚きを見せた。
(この青年が、室谷の相手か)
ふと、清記は思った。面皰は兎も角、涼しい目元には、陰間が持つ色がある。男色の噂がある室谷が好みそうな若者であろう。
「無理でしょうか?」
「いえ、全ては先生が決められる事。しかしながら、先生は多忙でございます。面会を希望される方も多く、全ての方と会われるのは難しいのが現状でございますれば」
「判りました。ご多忙中申し訳ないが、お取次をお願いできましょうか」
それから、清記と貞助は木戸番小屋に案内された。そこで暫く待たされ、従者が迎えに来たのは四半刻後だった。
案内されたのは、庄屋屋敷の敷地内にある、離れの一間だった。床の間に花が活けているだけで、他に調度品の類は無い。客間として使っているのだろう。
室谷慶堂は、痩せた男だった。
そして、顎が無い。鹿のような丸い目の三白眼は、何を考えているのか読ませないものがある。
室谷の傍には、面皰顔の従者だけが控えている。貞助は外で待たされた。
「栗原伴内殿と申されたか」
対面に座した清記は、軽く黙礼で返した。
「私の話を聞きたいとか」
「如何にも。先生は関東に於ける勤王の魁、かの
室谷の丸い眼が細くなる。何かを値踏みしようとしているのか。
「なるほど。では、疑問というのは?」
「勤王とは何なのか」
「勤王とは、と。それは中々難しい問いをなされる」
と、室谷は軽く笑った。しかし、目までは笑っていない。
「言葉の意味としては、簡単です。王に勤める。しかし、私が問いたいのは、その胸の内にある事でして」
「よいでしょう。しかし、最初まず、栗原殿は何故、その旨の内を知りたいのですか?」
「……私にも、今の幕政に思う所があります」
それはあながち嘘ではなかった。御手先役として働いていると、幕権が悲鳴を挙げていると感じる場面にしばしば遭遇する。特に利景の代になると、幕府の不手際を始末する事が多くなった。もし、幕府が正常であれば御手先役の役目もかなり減るはずだ。
「して、栗原殿はどう思われますか?」
「この国の、本来あるべき姿」
そう答えると、室谷の顔に些かの驚きが見て取れた。
「果たしてそれが正しいのかどうか。それを先生にお伺いしたく」
「……いや、それは大いに正しいですよ、栗原殿」
「そうでしょうか」
「そうです。そうであるべきなのです」
急に、室谷の声に熱が籠った。
「勤王とは、この国に本来あるべき姿。その姿に戻そうとする精神なのです。いいですか、栗原殿。この国が武家によって統治されだして、高々数百年。それ以前は朝廷が政事を為して来たのです」
「徳河家も、帝の臣の一人に過ぎないと思うのですが、それについては?」
「その通りです。徳河家は、帝に征夷大将軍に任ぜられた、帝の臣。諸大名と等しい一臣下に過ぎないのです。そこに身分の上下はありません。帝の臣ならば、征夷大将軍は徳河家でなくてもいいはず。隈府の菊池、荻の大内、黒河の伊達、当然ですが我が深江藩の松永でもいいのです。無論、九条や鷹司、日野や松殿などの公家であっても。しかし、徳河家がその地位を独占している。これは非常に不敬な事ではないでしょうか」
声が一段と激しくなった。この男は、話ながら激し、そうした自分に酔うような男なのだろう。
「しかもです、栗原殿。かの老中・田沼意安は異人と交易をしようと言い出した」
「ええ、鎖国を廃止しようと考えているそうで」
鎖国解禁については、反対が多く取りやめたそうだが、また言い出すだろうと添田が言っていたのを思い出した。海外との交易は、田沼の悲願なのだ。
「鎖国は祖法などとは申しません。斯様なものは幕府が、勝手に定めたもの。私が反対する理由は、この日本が神の国だからですよ。この神国に夷狄を踏み込ませてはなりません」
「しかし蝦夷地に夷狄が攻め、幕府が敗れたとか」
「情けない話です。だから幕府には任せられない。このままでは、夷狄に飲み込まれてしまいます」
「確かに」
清記は大袈裟に頷いた。
「攘夷ですよ、栗原殿。我々は攘夷すべきなのです」
攘夷という言葉も、頻りに使われ出した言葉だ。〔夷狄を
「先生はその為に、何が必要だと思われますか?」
「それは判りません。まだ答えが出ないのですよ。しかし、我が身に流れる血潮が何かを訴えているようにも思える」
何か、明言を避けているような気がするが、清記はその疑問を流した。
「大楠公の血ですか」
「そうです。この血が、いずれ私を導くであろうとは思う」
室谷が真っ直ぐな視線を清記に向けた。燃えるような目。自分の考えに誤りはないと確信している、ある意味で狂信者のような目だ。
清記は、脇に置いた扶桑正宗を一瞥した。斬るか。室谷を討ち、あとは斬り結びながら斯波領へ逃げ込むだけだが、それが可能なのか微妙な所だ。所詮は他藩の問題。という思いがどこかにある。つまり、一命を賭すだけの役目ではないのだ。
(顔を確かめられただけでいい)
清記は、視線を室谷に戻した。
「先生、そろそろ」
面皰顔の青年が、終わりの時間を告げた。室谷は頷くと、清記に頭を下げた。
「有意義な時間でした。また、深江に立ち寄られた際は、是非お会いしましょう」
「ええ。必ず」
屋敷を出ると、貞助が控えていた。
「待たせたな」
「ありゃ、
「隙が無くてな」
「へぇ。で、どうでした、室谷は?」
「別に会わなくてもよかったと、今は後悔している」
「そりゃ、何故?」
「あれは、夢想家だ」
最近、こうした男が増えてきた。幕府を批判し、閉塞感が漂う世を変えようとしている男が。それだけならいいが、彼らの言葉には、民百姓の姿は無い。〔自分〕しかないのだ。大義名分として帝を持ち出してはいるが、つまる所は自分に陶酔している。
「旦那、あれを」
と、貞助が離れと母屋を繋ぐ渡り廊下を顎でしゃくった。
室谷と、中年の男が立ち話をしている。
「あれが、久右衛門ですぜ」
「ほう」
遠目であるが、何処にでもいそうな普通の男がそこにいた。
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