第四回 幻位朧崩し(後編)

 村の道場へ行くと、武者窓から注ぐ夕陽の中で、雷蔵が端座し待っていた。

 師範代も、通っている百姓もいない。雷蔵ただ一人だ。


「待たせたな」

「いえ」


 道場に入るのは久し振りだった。道場主は自分であるが、実際に指導する事は殆ど無い。


「木剣で構いませんか?」

「どちらでもいい」

「なら木剣で」


 雷蔵がそう言って立ち上がると、清記は壁に掛けていた木剣を手に取った。


「父上」

「何だ?」

「顔色が優れないようですが、お加減でも悪いのですか?」

「いや、そのような事はない。気のせいだろう」


 即答した。あれから、腹の痛みは不思議と消えていた。残ったのは、微かな倦怠感だけだ。


「父上がそう言われるのであれば」

「雷蔵、来い」


 向かい合い、一礼をした。相正眼で構える。

 雷蔵の構えは、自然だった。無駄な力が抜けている。以前は怯えが先行していた。怯えているから、身体が敏感に反応する状態だったが、今はそうした欠片すら見えない悠然さがある。


(遠慮は無用か……)


 面白い。清記は、心の何処かで楽しもうという気が湧いでいた。最初は測るつもりだった。不在の間に、剣はどれほど変わったのかと。しかし、その変貌は予想以上だった。浪人や破落戸ごろつきを斬る日々。惚れた女も殺した。それで、ここまで変わるものなのか。

 先に踏み込んだのは、雷蔵だった。

 太刀筋は鋭く、迫る斬撃を一つ二つと、清記は弾いた。清記もそれに応えるように打って出るが、雷蔵もそれらを弾き返していく。

 小癪な捌き方だ。清記も当然本気ではないが、雷蔵も十分な余裕を感じさせる。しかも、その顔には笑みを湛えている。父親の力を測る余裕があるのか。


(ならば)


 更に踏み込み、斬り上げた。些か力を込めた一撃だったが、雷蔵は鼻先で躱し後方に飛び退いた。

 五歩の距離で、再びの対峙となった。お互い正眼のままである。

 雷蔵が、そこで氣を初めて放った。黒く禍々しくも、肌を切り裂くような冷たさがある。

 清記も、丹田に氣を込めた。雷蔵の氣を覆い被さるように包み込むが、内側からつんざくように押していく。圧力というより、氣自体が鋭利な刃物だ。


(やはり、こやつは変わった)


 怯えが無い。今までは斬られたくないから斬るという感じだが、今は違う。好戦的な印象が、前面に出ている。御手先役としては頼もしい成長であるが、一抹の不安を覚えなくもない。


「父上、行きますよ」

「喋るな」


 雷蔵が、構えを下段に移した。得意な構えだ。

 来る。そう思った時には、突きが伸びていた。清記は、身を逸らす事で躱した。もう一つ。それは木剣で受けた。

 鍔迫り合いになった。雷蔵の顔。表情は変わらず、必死さは無い。この立ち合いを楽しんでいるのか。


(だが、甘い)


 清記は、雷蔵の足を踏んだ。


「くっ……」


 雷蔵の顔が歪む。隙が生まれた。清記は雷蔵の力を受け流すと、離れ際に横薙ぎの一撃を放った。

 これで決まった。そう思った次の瞬間には、雷蔵の姿が歪み、霧散していた。

 おぼろ。念真流が誇る、究極の見切りである。

 見事だ。相手に決まったと思わせる寸前で躱す。だから、身体が霧散したように見えるのだ。つまり、雷蔵は完璧に会得したという事になる。

 清記は、雷蔵の姿を目で追おうとした。その奥から、殺気が爆発した。

 突き。歪んだ雷蔵の姿の奥から伸びてきた。

 それは、頬を掠めた。二つ目は、胴薙ぎ。寸前で避ける。朧だ。が、雷蔵は跳躍していた。

 どうするか? と、考えるよりも先に、清記も跳躍していた。

 空中で交錯する。清記は一撃を繰り出したが、雷蔵は背を丸めて躱し、空中で二回転して着地した。


「参りました」


 雷蔵は、構えを解くとそう言った。顔には、大粒の汗が浮いていた。構えを解いてから噴き出したのだろう。自分もまた同じである。


「勝負はまだついておらぬが?」

「まだ一本取られていませんが、先は見えました。私の負けです」

「確かに、勝負の最中に先が見える事がある。だが私は、そうは感じなかった」

「いえ、父上は巌のようなものでした。今の私ではどうにもなりません。父上に跳躍された時には、肌が粟立ったほどです」


 確かに、雷蔵が落鳳を見せた時、清記は本気になった。剣客としての本能で動いたのだ。


「流石、父上です。もう少し通用すると思ったのですが」

「いや、お前も腕を上げた。何だ、あの朧からの攻撃は?」


 雷蔵は少し考える表情をした後、


幻位朧崩げんみ おぼろくずし」


 と、告げた。


「なるほど。朧を見切りだけに留めず、攻撃に活かす。まさに、幻位の剣だ」

「浪々の間に思い付き、磨きました。まだ改良の余地はありますが」

「確かに粗さは残る。しかし、与えられたものから発展させる事は良い事だ」


 雷蔵が意外な顔をした。叱られるとでも思ったのだろうか。今の雷蔵なら、叱っても軽く流しそうではあるが。


「しかしだ、雷蔵。朧崩しを放つ時、私に向けられた殺気は尋常なものではなかった。この父を斬るつもりだったのか?」

「本気でなければ、父上とは対峙出来ませぬ。ただ、御手先役としての御下命ならば……」

重畳ちょうじょうだ」


 雷蔵を残して外に出ると、三郎太が待っていた。心配になって見に来ていたのだろう。


「如何でございましたか?」


 屋敷に向かって歩きながら、三郎太が訊いた。


「予想以上に成長していた。本当に我が子かと疑うほどに」

「ほう」

「本当に強くなった」


 一方で、老成し過ぎている感もある。伸び代を感じないのだ。流浪の間に、剣を完成させたのだろうが、それでは自分より強い相手には勝てない。今のままでは、〔万が一〕が無いのだ。そうならない為には、あと一枚殻を割る必要がある。


「左様でございますか。確かに若殿は変わられましたな。口数も増えました。しかし、何かが欠落したという気もします。いや、諦めたと言うべきでしょうか」


 清記は、諦めたという形容に得心し、頷いた。そう、雷蔵は何かに諦めたのだ。だから思い切りもよくなった。


「親としては悲しいが」

「仕方ございません。御手先役として生きていかねばならないのです。その中で幸福であれば」


 夕陽を浴びて、ずんぐりとした三郎太の影が伸びている。長身の清記の影は、更に長い。


「私は勝ちを譲られた気もする」

「え?」

「もう歳だ。雷蔵は伸び、私は衰えるばかりだ」


 今年で四十五になる。老いはまだまだ遠いと思っていたが、衰えは確実に近付いている。今まで無頓着でいたが、大井寺右衛門と立ち合ってから、その事について考えるようになった。


「何を弱気な。父親はいつまでも息子の壁でいなければなりません。それが父親というものです」

「娘ばかりのお前が、それを言うか」


 三郎太には、女ばかり四人も娘がいる。まだ幼いが、時々女中に混じって手伝いをしている。


「娘も息子も似たようなものです」


 そういうと、小太りな執事が笑った。進む道が緩やかに傾斜になっていく。その先の高台に、屋敷はあるのだ。通りがかった百姓が挨拶をしたので、清記は片手を上げた。

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