第四回 幻位朧崩し(前編)

 男に、行く手を塞がれた。

 釣りの帰りだった。

 深編笠で顔は見えないが、佇まいからは強烈な存在感を発するものがある。


「内住代官殿ですかな」


 先に口を開いたのは、深編笠の男だった。


「そう問うおぬしは?」

皆藤左馬かいどう さまと申します」


 そう言うと、皆藤と名乗った編笠を取った。

 三十路ほどの男。彫が深い顔立ちをしている。腕前は計れないが、目を見れば只者ではないという事が判る。


「私に何か御用でも」


 清記は、竿と鮎が詰まった魚籠を足元に置いた。


「私は新規に召し抱えられた者でしてね」

「ほう。御家が新規召し抱えをしたとは知らなんだ」


 すると、皆藤と名乗った男は、ゆっくりと首を横にした。


「いや、犬山家ですよ」

「御別家様の。最近、浪人を集めておられると聞いたが、おぬしもその一人か」

「如何にも。そこで、平山殿の評判を聞いたのです」

「私の?」

「ええ。建花寺流という実戦的な剣を使うと」

「なぁに、百姓相手の田舎剣法に過ぎんよ」

「いやいや。これでも私は、江戸で千葉派壱刀流を学んだ身。平山殿を一目見ただけでも、どれほどのものか判ります。そうした剣と出会う事が、私の楽しみなのですよ」

「だから、私を尾行けていたと」

「流石、代官殿。お見通しだったか」


 皆藤が苦笑した。だが、目は笑っておらず、冷たい光を発している。

 何かが近くにいる。それは、以前から気付いていた。それを誘き出す為に、わざわざ釣りに出たと言ってもいい。


「立ち合いを所望か?」

「いずれは、一手ご指南願いたいですが、今日は挨拶までに」

「たかが挨拶の為に、数日間私を張っていたのか?」

「まぁ、何にでも機というものがあるもので」

「機か。私は一向に構わぬが」

「それは嬉しい申し出ですが、代官殿はどうもお顔の色が優れない様子です。万全な状態のあなたと私は立ち合いたい」

「要らぬ世話だ」


 そう言って微かな殺気を発すると、皆藤はそれを避けるように跳躍し、清記の頭上を飛び越えた。


「親子揃って似ていますな」


 皆藤は、背を向けたまま言った。


「愚息を知っているのか?」

「平山雷蔵。狼が如き若者でした」


 皆藤が一笑して去った後、清記は背筋に冷たいものが流れている事に気付いた。


(何故に……)


 あの跳躍、間合い。剣を抜いていれば、落鳳だったのだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 風呂から上がり倦怠感に身を委ねていると、雷蔵が戻ったと三郎助が知らせに来た。


「やっと戻ったか」

「今は、庭の方で控えています」

「庭に?」

「ええ。まぁ……。見ればお判りになられるかと」


 清記が縁側に回ると、雷蔵が地面に座り込んでいた。見た目は、乞食浪人そのものだ。顔は薄汚れ、頭髪も乱れている。着物も煮染めたような着流しで、悪臭を放っている。


「久し振りだな」

「ご心配をお掛けしました」


 雷蔵は、目を伏せ呟くように言った。


「逃げたのか?」

「ええ、逃げました」

「何故だ?」

「怖くなったのです。惚れた女すら斬れる自分に」

「それが怖いのか」

「獣になっていく。その感覚があるのです。いずれ、父上すら斬りそうで」


 清記が鼻を鳴らした。雷蔵は目を伏せたままだ。


「何をしていたのだ?」

「眞鶴を斬りましたよ、ご命令通りにね」

「それからは?」

「あちこちで破落戸ごろつきや浪人を斬っていました」

「若宮庄にも行ったそうだが」

「はい。帯刀様には、この格好を笑われてしまいましたが」

「何故、斯様な事を?」

「眞鶴の血で汚れた手を、人の生き血で洗い流そうとしたのです」

「それで、どうだった?」

「浪人も眞鶴も変わらぬ。そう思えるようになりました」

「よかろう。だが、今後勝手は許さんぞ」

「ええ。もう勝手な真似はしません」


 雷蔵が顔を上げ、少し微笑んだ。だが、それは冷笑に見える。清記は、亡き妻を思い出した。雷蔵は、母親に似たのだ。


「父上」

「何だ」

「やはり、眞鶴は附子ぶすを持っておりました」

「……」

「私をこれから殺すつもりだったのか、或いはそう命じられても殺さなかったのか判りませんが、眞鶴は」

「これから殺すつもりだったのだ。その女は黒河の走狗いぬだからな」

「そうですね。私もそう思いました」


 雷蔵はそれから風呂に入り、一昼夜眠っていた。目が覚めると二人分の飯を食べ、代官所で下働きを始めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 雷蔵は、よく働いた。

 下役に混じって筆仕事をこなすだけでなく、掃除やお茶汲み、使い走りまでも率先して買って出ている。流石に御曹司にそのような事は頼めないと恐縮する者もいるが、雷蔵は気にしない様子だった。そこまでなら前と左程変わらないが、清記が


「おや?」


 と、目を見張ったのは、磯田とよく話をしている事だった。日に何度も掴まえては、話し込んでいる。

 清記は一度磯田を呼んで訊いてみると、政務についての教えを乞うているそうだ。雷蔵は納得するまで質問を重ね、時には磯田も答えに窮する事もあるという。そうした姿勢の変化に、磯田も驚いていると言った。


(確かに……)


 これまでの雷蔵は言われた事を淡々と為すだけの傀儡くぐつのようであったが、今では自発的意思というものが見られるようになった。数ヶ月の不在が、雷蔵を此処まで変えたのか。いや、おそらく女だろう。愛し、騙され、始末した事が、雷蔵の何かを変えたのだ。

 また、村内にある建花寺流道場に出る事も多くなった。そこで、百姓に剣を熱心に指導している。平山家を継ぐ、その自覚の現れかもしれない。

 その間、清記もせわしく働いた。収穫前は百姓だけでなく、それを治める武士も忙しいのだ。また、多忙の理由は郡政だけではない。藩庁にも何度か往復し、添田や相賀とも話し合いを重ねた。流入した浪人の中に、勤王の志士が含まれている事が確認されたのだ。今のところ、目尾組が探索をしているらしいが、近く御手先役に命が下るかもしれないとの事だった。


 清記は、雷蔵を御用部屋に来るように命じると、雷蔵は小走りで現れた。


「忙しそうだな」

「ええ。代官所の仕事は、意外と色々あるのだと実感しています」


 雷蔵は、流れる汗もそのままに答えた。外では蝉が鳴いている。今年の夏は特に暑く、色白の雷蔵が真っ赤に焼けている。


「今までは、遠慮してお前に雑務はさせていなかったようだ」

「そうみたいですね。彼らが遠慮する気持ちは判りますが、私からも遠慮は無用と伝えました。お陰で、この十数日で随分と理解が進みましたよ。今まで見ていなかった事が多かったと実感しています」

「それはいい事だ。そこでだ。お前に話があって呼んだ」


 そう言っても、雷蔵の表情は変わらない。以前ならば、そう言うと叱責されるのでは? と、自信のない表情を見せたものだが、そのような素振りは全く無い。


「お前は、内住郡代官助役ないじゅうだいかんすけやくに補任された。これは藩庁からのお達しだ」

「私が?」

「立場的には、私と磯田の間だ。磯田も、まずお前に話を通す事になっている。無論、ある程度の裁量も与える。やれるな?」

「やれる、やれないではなく、やらなくてはならない事でしょう」

「そう思えればいい」

「いずれ私が父上の後を継ぐのです。その覚悟はしました」

「よく喋るようになったな、お前は」


 清記は、ここ最近感じていた事を告げた。それに雷蔵は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに堪えるような低い笑い声を挙げた。


「私と父上は親子なですから、そこも遠慮は無用と思ったわけです」

「そうだな。お前は私の子だ。遠慮する事はない」

「そうします。では、私はこれで」


 そう言って立ち上がり背を向けた雷蔵を、清記は名を呼んで呼び止めた。


「今日、久し振りに立ち合うか?」


 すると、雷蔵は少しだけ頷いた。


「いいですね。では政務が終わり次第、道場で」


 一人になり、清記は残った書類に手を付けた。

 家督を継ぐと、それまで平山家にとって表向きに過ぎなかった代官職に、清記は本腰を入れるようになった。その選択が民百姓にとって良い選択だったか判らないが、自分が人斬りだけの存在ではないと実感できる。

 気持ち悪さが込み上げたのは、突然だった。身体の中で、何かが暴れ出している。肺腑。いや、腹の中か。清記は掴むようにして手で押さえた。

 脂汗。今まで体験した事の無い痛みだった。清記は下唇を噛み締め、耐えた。息にして十。それで、暴れていたものが収まった。

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