第三回 理想郷(後編)

 利景に呼び出しを受けたのは、浪人を斬ってから五日後の事だった。

 場所は、夜須城二の丸。〔深考庵しんこうあん〕と名付けられた庵である。この庵は、利景が書見と思考の為に設けたもので、足を踏み入れるのは初めてだった。


「よく来てくれた」


 随分と痩せた利景の笑みが、清記の胸を突いた。面貌は青白く、頼りないほどの弱々しいものだったのだ。やはり、体調が優れないのだろう。外では蝉が忙しく鳴いているというのに、汗一つかいていない。


「今日は、お前の話を聞きたいと思って呼んだ」

「殿がお呼びであればいつでも。……しかし、お加減は?」

「心配に及ばぬ。見かけに寄らず気分が良いのだ」


 そう言うと、清記は幾つかの諮問を受けた。その多くが百姓の生活に関する事で、その一つ一つを丁寧に答えた。

 利景の改革は、失われた民力の回復に重点が置かれている。捨て子を禁じ、子育てを助ける為に銭を与え、武士以外でも学問が出来るよう寺子屋を各所に設置した。百姓を国の根本として考え、その保護政策に力を入れたのだ。ただ、その効果は未だ出ていない。一連の改革は、十年後二十年後を見据えたものなのだ。

 百姓達も、それを知っている。不満を言う者もいるが、ほんの一部だ。利景の改革は、おおむね歓迎されていると言っていい。


「他に気になる事はあるか?」

「気になる事。強いて言えば……」


 浪人が増えた事、それにより百姓が怯えている事を伝えた。ただ、その原因が兵部であるとの明言は避けた。ただ利景は腕を組んで聞き入っただけだ。利景ならば、そこまで言えば判るはずだ。


「浪人か。そういえば、また東北の大名家が一つ潰された。不正が原因の改易であるからやむを得ないが」


 清記は頷いた。その話は、三郎助から聞いていた。改易された大名は、田沼に反対する大名だったらしい。


「更に浪人が増えますね」

「有用な者は銭を叩いても召し抱えるべきと思うが、我が藩の窮状ではどうにもならん」


 夜須藩の財政は、健全というべき状態ではない。添田と相賀が殖産事業や河川舟運のテコ入れをした事で回復傾向にはあるが、浪人に対して何かしてやるほどの余裕はない。


「巷では、取り上げた一万石は天領にするという話もあるとか」


 その噂は、三郎助から聞いた。どうやら、そうした類の情報は、出入りの商人から仕入れるようだ。


「ふむ。話は聞いている。江戸から代官が派遣されたようだ」

「浪人を排除する。それは民の為ですから、私は幾らでも働きます。しかし、浪人を生む根本から正さねば、いずれは」

「そうだな。そうせねばならんのだが、幕閣の中に妙な動きに私は懸念を抱いている」

「懸念と申しますと?」

「幕府開闢初期のような、改易政策を進めているのではないかと。去年は畿内で九千石の旗本を、一昨年には九州で二万三千石の大名を潰し、天領化している。今回の改易も、もう少し穏便に済ませるべきだった思うが、裏でこうした思惑があれば、改易以外の選択肢はそもそも無かった」

「何を考えているのでしょうか、幕閣は。朝廷への圧力と、江戸遷都騒動。そして、改易政策。これでは、反幕分子を煽るだけでしょう」


 漢土もろこしのように、国土の全てを将軍の直轄地として支配する。幕府はこの期に及んで、天下の再統一を目指そうとしているのだろうか。


「私にも判らん。だが……いや、これ以上は言っても栓無き事だ。ところで、勤王党の動向はどうだ?」


 利景が、気を取り直した様子で話題を変えた。


「数名が藩外に逃れた形跡がございますが、夜須の勤王党は壊滅と言ってよいでしょう」


 その数名も小粒である。一部は黒河藩へ、また一部は京都から九州へ下った事が確認されているが、追うほどでもないと清記は考えていた。夜須勤王党は、武富陣内・館林簡陽・住谷丹蔵・真崎惣蔵という四人を斬った時点で終わっているのだ。


「確かに、藩内は落ち着いた様子だ。添田や相賀も同じような意見だった。しかし、気は抜けぬぞ。勤王党と主家を失った浪人が強く結び付けば、怖い事になる」

「ええ」

「橘民部の例もある。あれはお前達親子の働きで、何とか阻止できたが」


 江戸の軍学者だった橘民部が、浪人に勤王を説いて叛乱を企てていた。宇美津に潜伏していた金橋忠兵衛を、雷蔵が捕縛した事が糸口になって阻止出来たが、第二の橘が現れるとも限らない。


「勤王という思想自体は、間違いではないのだ」


 突然の一言に、清記は思わず視線を上げた。


「何を驚く?」


 利景は、口元を緩めて鼻で笑った。


「いえ、ただ些か意外に思いましたので」

「私は勤王そのものを否定した事はない。帝を敬うのは、この国が始まって以来の形だ。しかし、その下には将軍家がある。帝は祭祀で国と民の安寧と繁栄を祈り、将軍は政事で国と民を守る。それで、この国は今まで成り立ってきた」

「如何にも」

「しかし勤王党は、己が野望の為に帝を担ぎだそうとしている。自分達が天下の大権を握りたいが為だけに。私はそれが許せない」


 清記は頷いた。

 同意見だ。帝を想う赤心があるのなら、その宸襟しんきんを騒がすような真似はせず、独力で幕府に逆らうはずである。帝や朝廷と繋がろうとする時点で、道具として見ている証拠ではないか。


「ただ、国は時代と共に変わらねばならんとも思う」

「……」

「特に、最近は外国船の往来が激しい。これも国が変わる潮目なのかもしれぬという予感はある」

「鎖国を解く、という事ですか」

「私が考えている事は、それ以上の事だ」

「それ以上と申しますと?」


 利景が頷くと、一冊の本を清記の前に差し出した。西洋の本。それは一目で判った。装丁が、この国のものではないのだ。


「長崎で手に入れたものだ。この中に、こう書いてある。『全ての人間は、平等である。身分を廃し、学問を均等に与え、有能な人材を登用し、衆議によって国を動かすべきだ』と。この考えが広まれば、この国は変わる」

「しかし、それは」


 清記は、次の言葉が出なかった。言っている事の意味は判る。武士も百姓も公家も、全てが同じ身分という事だ。学問を学ばせ、身分ではなく能力で登用し、話し合いで政事を為す。その意味は判るのだが、それが行き着く先は徳河幕府、ひいては武家社会の否定である。徳河家の藩屏たる利景の口から出るような言葉ではない。


「幕府を倒す事に繋がる」

「おそらく」

「だが、私の胸は震えた。共感したのは確かだ。この考えに基づいた、新しい国を私は見たい。生み出したいと、強く思った」

「しかし、それは見果てぬ夢かもしれません」

「そうだな。財政の立て直しに躍起になり、浪人の流入に苦慮する。それが現実だ。お前が言うように見果てぬ夢だ。しかし私の代で不可能ならば、この志を誰かに引き継ぐまでだ。その為に私は書き残している。私の頭の中にある全てをな」


 その時、清記は利景の死期が近い事を確信した。もうすぐ、命の灯が消えゆく。だから胸の内を語ってくれたのかもしれない。

 新しい国を目指す。それよりも、利景がいなくなるという現実を、清記は考えたくなかった。他の者も、きっと同様に思うだろう。利景は太陽のような男なのだ。もし、その太陽が消えた時に夜須はどうなるか。それもまた、考えたくない現実である。


「さて、そろそろ」


 と、立ち上がろうとした利景の身体が不意に揺れた。清記が駆け寄り、それを受け止める。細く軽い。成人の男とは思えぬものだった。誰か、医師を。そう叫ぼうとした時、利景が首を振った。


「何も言わずに聞け」

「殿……」

「兵部の動向には重々気を付けよ。兵部には野心がある」

「……」

「もし私が死んだら、常寿丸に後を継がせ側近や帯刀で支えて欲しい。その為の遺言も書いている。ただ兵部からは目を離すな。もし、野心を露わにした時は迷わず斬れ。よいな。お前の判断でいい。必ず、殺せ」


 清記は、深く頷いた。やはり、利景は兵部の動向に只ならぬものを感じていたのだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 深考庵を出た清記は、同じ二の丸の郡総代所にある郡総代奉行の御用部屋を訪ねた。職制上、清記が務める郡代官は郡総代奉行の指揮下にある。

 郡総代奉行は猪俣八衛門という男で、中年の小太りである。今の季節は嫌いなのか、大粒の汗を不機嫌な様子で拭っている。今回は特に報告事項はないが、登城したからには上役に挨拶をしないわけにはいかない。


「いやぁ、清記殿は相変わらず涼し気ですなぁ」


 猪俣は上役であるが、尊大な態度を取る事はない。そこが多くの者に気に入られる所以であるが、こう見えても鋭く腹黒い所もある。


「いやいや。どうも最近は体調が優れず、衰えを感じてしまいます」

「またまた。老け込むには早うございますぞ。幾らご嫡男が頼もしく育っているとはいえ、内住には清記殿が必要」


 それから四半刻ほど歓談した後、清記は珍しい組み合わせの二人を、同じ表御殿で見掛けた。

 犬山兵部と相賀舎人である。二人は相賀の御用部屋から出て、何やら談笑して歩いている。

 相賀は利景が見出した中老で、側近の一人である。対立はしていないが、親しくもない。その相賀が、兵部と会い何やら話していた。

 利景に、


「兵部を斬れ」


 と言われた後だけに、二人の面会に臭いものを感じてしまう。

 この事を、誰かに言うべきか。添田甲斐か、栄生帯刀か。


(いや、やめておこう)


 何も二人は密会していたわけではない。人目が付く城内で会ったのだ。それに、政争に敢えて飛び込む真似はしたくない。自分に課せられた事は、野心を見せた兵部を斬る事だけだ。

 清記はかぶりを振って、その場を後にした。

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