第三回 理想郷(前編)

 利景が倒れた。

 それを知らせてくれたのは、帯刀の使者だった。

 庭を散歩中、意識を失ったそうだ。倒れるのは、これで二度目である。


(帯刀様の話は本当であったか……)


 と、清記は代官所の御用部屋で、書類に筆を走らせながら思った。

 一昨年の暮れ、江戸の下屋敷で倒れてから、利景の身体は日々弱まってきているように思える。

 利景を蝕む病が何であるか、藩医の面々も正確には判らないそうだ。添田甲斐によれば、血の病だという医者もいるそうで、その病は手の施しようが無いという。来月には甲斐の伝手つてで、長崎から蘭方医が呼び出されるそうだ。名医として名高く、オランダ商館の商館長カピタンの肩に腫物が出来た際は、その執刀を任されたほどだという。

 このまま、命の灯は消えゆくのか。考えたくないが、考えざる得ない事でもある。まだ、利景は若い。まだ二十七だ。これからが働き盛りだというのに。そう思うと無念でならない。

 利景との出会いは、彼が直衛丸と名乗っていた、十四の時だった。その頃の藩主は、利景の父である利永で、後継ぎは兄の又一郎利之だった。

 清記は、帯刀を通じて直衛丸に引き合わされた。その理由は、守る為だった。

 放蕩癖がある暗愚な利之は、自分が廃嫡される事を恐れ、聡明だと評判だった直衛丸を暗殺しようとしたのだ。

 藩が二つに割れた。藩政を変えようと志す者、利之に危機感を抱く者達が、直衛丸の下に集い、それを嫌う者が利之に付いた。

 壮絶な戦いの日々だった。山野を逃げまわり、敵に囲まれた事もあった。

 遠いあの頃。薄れた昔日の記憶だが、忘れる事は無い。皆がいた。今はいない、弟も親友も。そして、夢があった。殺ししか知らぬ身でさえも夢を抱き、直衛丸という少年に託した。

 思えば、それが利景への重圧だったのかもしれない。皆の期待に応えようと、無理をしていたに違いない。


「殿、そろそろ」


 三郎助が呼びに来たので、清記は筆を置き立ち上がった。


「報せがあったのか?」

「ええ、いましがた。村の外で待っているとの由」

「判った。ご苦労」


 清記は素早く身支度をすると、扶桑正宗を手に屋敷を出た。供は連れず一人だ。

 村を出た所にある地蔵尊の前で、百姓の男が座り込んでいた。清記は、その眼の前で足を止めた。


「旦那」


 百姓男が言った。目尾組の廉平である。相変わらず、見事な変装だ。声を掛けるまで判らなかった。


「首尾は?」

「この先、高田村近くの水車小屋。上手い事、おびき出しましたぜ」

「二人か?」

「ええ。吉貝軍兵衛よしかい ぐんべえ森新九郎もり しんくろうに相違ぇございやせん」

「すまんな、いつも。本来の役目でもないというのに」


 清記がそう言うと、廉平は照れたように笑って見せた。


「何を今更。旦那の為なら火の中、水の中」

「『銭の為』であろう?」

「ふふ。ま、あっしも商売でしてね」


 清記は鼻を鳴らして小判を一枚放ると、廉平がそれを素早く掴み取った。


「勿論、義理もございまぜ」

「ああ。だからお前とは長く付き合っていける」

「嬉しい事を言って下さる。それじゃ、ご武運を」


 廉平はすっと立ち上がると、鍬を担いで村の方へと歩いて行った。

 高田村は、建花寺村の南にある。波瀬川へ流れ込む坊主川に沿って形成された、二十世帯ほどの小さな集落だ。

 清記はその高田村へ入らず、真っ直ぐ水車小屋へ足を向けた。

 吉貝軍兵衛と森新九郎を、これから斬らねばならない。二人は浪人なのだ。夜須藩では手形のない浪人の流入を厳しく制限していて、法に背く者は斬り捨てて構わない事になっている。

 勿論、例外もある。町年寄か庄屋に身元引受人になってもらい、奉行所に届け出を出せば夜須で生きる事を許される。しかし吉貝と森は、そうした届け出を出していない。

 清記が二人を見掛けたのは、五日前。穂波郡代官である藤河雅楽を訪ねた帰りだった。

 内住郡の方から、二人は歩いてきていた。すれ違ったのは一瞬。しかし、微かに漂う血臭を、その時に感じ取った。

 廉平を呼び、すぐに調べさせた。二人は黒河藩から流れてきた浪人で、犬山兵部の新規召し抱えに応募したらしい。結果は落選で、その腹いせに辻斬りや追剥ぎを働いていた。

 役人を動かして捕縛する事も考えたが、自らで始末する事にした。不逞浪人を斬る事も、御手先役に与えられた責務なのである。

 雷蔵の浪人狩りで一時数を減らした浪人も、兵部の召し抱えの報が噂となり、また増えつつあるという。事実、内住郡でも胡乱な輩が増えたような気がしている。


(浪人を召し抱えるなど、御別家は何のつもりか)


 と、その件では色々と思う事がある。浪人で浪人を取り締まる策については理解出来るが、そうせざる得ないほど夜須藩は逼迫はしていない。現行の体制で十分なのだ。

 帯刀が、兵部を気にしている。その気持ちは、清記も同じだった。浪人の新規召し抱えと、山筒隊の創設。時勢がきな臭くなったとは言え、こうした勝手が許されるはずはない。


(御別家は、藩主への野望を抱いているのかもしれない)


 その野望を実現する為の戦力。軍。そう考えれば、筋は通る。兵部は利景の兄。母の身分が低いので、御一門に入れなかった、哀れな身の上だ。利景の次は幼い常寿丸がいるが、その座を狙う野望を抱いていても不思議ではない。


(いや、これ以上は考える必要はないな)


 と、清記は思考を止めた。

 自分は、御手先役であり内住郡代官。それ以上の身分ではない。藩主が命じた事を為し、内住郡の百姓をしっかりと守る。まずその事だけに心を傾けるべきなのだ。それが己が信じる武士の責務であるし、平山家が今まで生き永らえてきた知恵でもある。主体的に政争に絡めば、待っているのは滅びでしかない。

 勿論、そうした生き方を貫いていいのか? という、迷いが無かったわけではない。かつて弟に、〔血の呪縛〕と言われた。言われた事だけを、何も言わず愚直に為す。それでは傀儡くぐつでしかないとも。判っている。だが、自分はそうして育った平山家の男なのだ。他の生き方探るには遅過ぎた。そうした意味では諦めにも似た決心はついている。

 だが、雷蔵はどうか。表の舞台で上り詰めるだけの才覚もある。利景に願い出れば、受け入れるだろう。そうは思いながら、雷蔵には過酷な修練を課してきた。特に惚れた女を斬らせたのは、雷蔵に他の生き方を諦めさせる結果になったのかもしれない。だから、雷蔵は姿を消した。その事に後悔が無いわけではない。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 水車小屋の前で、二人は待っていた。

 廉平の報告通り、浪人体である。襤褸の着流しを纏い、垢で薄汚れた顔は髭面である。ただ髭の奥の目を見るに、歳はまだ若いかもしれない。


「あんたかい? 俺たちの腕を買いたいという奴は」


 そう言ったのは、鼻の横にいぼがある男だった。この男が森だと、廉平から報告を受けている。


「ああ。おぬしらに頼みがある」


 二人から、肌を打つ獣性を感じなかった。殺気も、圧倒する氣もない。腕について、出来るという話はなかった。だが、人は斬っている。それなりの度胸はあるかもしれない。


「で、何をしたらいい? 用心棒か? 殺しか? 仕事の内容次第では、それなりの銭は戴くが」

「そうだな」


 清記は一歩前に出た。森は懐手。吉貝は徳利を手にしている。二人でいるからだろう、それは気が抜けている証拠だ。腕の程も知れたものだろう。


「死んでもらうか」


 その言葉と同時に、清記は踏み込んでいた。

 扶桑正宗を抜き打つ。森の首が、驚いた表情のまま飛んだ。鮮血が迸る。突然の赤に目を奪われた吉貝が、慌てて刀に手をやるが、その時には頭蓋を両断していた。


 清記は、息絶えた二人に手を合わせた。骸は三郎助が、御手先役直属の非人に命じて処理してくれる。内住郡内では、いつもそうしている事だ。


(今年で、何人目だろうか……)


 ふと、そうした疑問が脳裏に過った。多分、八人目。年明けに仕損じた男が一人いて、死んでいなければ、九人目だろう。その内、浪人は五人。浪人を根こそぎ消すつもりはない。ただ、夜須からは排除しなければならない。浪人を生む幕府や諸藩の施政に疑問を覚えるが、浪人は歩く災厄である。民百姓を守る為に、斬っていくしかない。


(詮無き事だ)


 斬った数など、数えようもない。清記は冷笑を浮かべ、その場を立ち去った。

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