第一回 矜持に死す
糸が引き、竿がしなった。
手に伝わる、命の手応え。平山清記は、絶妙な息で竿を引いた。
川面から現れたのは、美しい鮎だった。灰緑色で、黄色の模様がある。まだ若い鮎だろう。
清記は、鈎を外し魚籠に放り投げた。そしてまた、釣り糸を垂れる。建花寺村からほど近い、
川面が、暖かい初夏の陽を浴び、きらきらと輝いていた。遠くでは、
この麓に広がる森を近郷の者は〔
清記は、竿を何度か投げ入れた。
釣りが好きだった。初めて竿を握ったのは、八つの時。楽しみにも、生きる為にもなると、父の悌蔵が教えてくれたのだ。
清記は、すぐに釣りが好きになった。鮒、鯉、鯰、山女、鱒、鮎、何でも釣った。飛び地の宇美津では舟を出してもらい、海釣りというものも体験した。川魚とは違う引きに、思わず声を挙げたものだった。
釣りは、魚との立ち合いである。読み合い騙し合いが、世間の憂さを忘れ別の世界へ没入させてくれるのだ。勿論、それは剣の道にも通じる所がある。
この日も、清記は針と糸を介しての立ち合いを楽しんでいた。
相手は、鮎。生餌を使った、〔友釣り〕という釣り方を試していた。これは、鮎の縄張りに囮とする鮎を侵入させ、追い払おうと体当たりしてきた所を鈎で引っ掛けるという
この釣法は、ある山人から教えられたもので、試すのはこれで二度目だった。
(確かに、よく釣れる)
清記の魚籠には、八匹の鮎。中々の釣果だが、奉公人に分け与えるには、まだまだ足りない。
清記は竿を上げた。囮にしていた鮎が弱りをみせたのだ。
(毛鈎に変えるか……)
所謂、〔ドブ釣り〕である。他にも餌釣りの準備もしている。多く釣る為の釣りはしていない。様々な釣法で楽しむ為にしているので、友釣りへのこだわりは無い。
竿を抱え振り向くと、道具箱を置いている木陰に、旅装の老武士が立っていた。
目が合う。老武士が、塗笠を取って黙礼をした。
総白髪で、武家のご隠居という雰囲気がある。所作や佇まいに気品があり、到底浪人には見えない。
(何者だろうか)
気が付かなかった。いくら釣りに没入していても、人の接近を見逃す事は今までになかった事だ。ともすれば、気配を消せるほどの者なのだろう。
「儂は、
清記が竿を置いて歩み寄ると、老武士が穏やかに名乗った。
歳は六十過ぎほどであろうか。皺は深いが、色艶のいい顔だ。食うには困っておらぬ、貴人の相がある。
「おぬしが、平山清記かえ?」
「ええ。私に何か」
「そうか、そうか」
大井寺という老武士はホッとした表情を浮かべると、
「その首、頂戴しに参った」
と、言った。
清記に驚きは無かった。命を狙われる事への慣れもあるが、この老武士が何の緊張も気負いも無く、挨拶のように告げたからであろう。
「御老人。どうして私の命を」
「儂が黒河藩士と申せば、合点がいくであろう?」
「刺客ですな」
すると、大井寺は首を横にした。
「立ち合いじゃ、剣客同士のな。儂はそうした心持ちじゃよ」
「……」
「剣客として生きてきた儂を、陰日向になく支援してくれたお方に斬ってくれと頼まれたのでの。初めは断ろうと思った。道場を譲った息子に、娘が産まれたばかりでなぁ。だが、儂は少しだけ考えて、その依頼を引き受ける事にした。何故か聞きたいかえ?」
「話したいのでしょう」
「ふふ。言うのう。儂が引き受けた理由は、矜持よ」
「矜持?」
「剣客としてのな。念真流の名は表には出ないが、知る人ぞ知る忌まわしき流派。言わば、魔剣よ。儂が磨いた
「なるほど。まさしく、矜持故にですな」
「剣客とは、何とも因果なものじゃ。だが、もし
「楽しそうですな」
老人の声は、嬉々としていた。これが〔剣狂〕というものだろう。清記も、剣の為ならという気持ちが無いわけではない。
「如何にも、如何にも。身悶えすらしそうなほど楽しみだの。血が滾り過ぎての、久し振りに女も抱いたほどじゃ」
「それは、重畳」
◆◇◆◇◆◇◆◇
渓流から少し離れた、森の拓けた場所に移動した。
木々に囲まれているが、刀を振るだけの広さは十分にあり、地面にも倒木や
大井寺と正対した。距離は、五歩ほどか。
大井寺が、刀を抜いた。身の丈にしては、長い刀である。扶桑正宗より三寸は長いだろう。
その刀を、正眼に構えた。
天鏡壱刀流。名前は耳にした事はあるが、手合せは初めてである。壱刀流から派生したもので、中国筋では知られた流派であるという。
(どのような剣を使うか……)
それにしても、大井寺の構えは美しいものであった。悠然として、無駄な気負いが無い。春の木漏れ日の中で昼寝をする、猫のようでもある。
清記は、扶桑正宗を抜いた。
相正眼。向かい合うと、この老人が只者ではない、という事がすぐに判った。
氣が圧倒してくるのではない。優しく包み込むのである。それが妙に息苦しく、身体の動きを縛ろうとしている。
(やはりな)
道場剣法だけをしてきた男とは、わけが違う。並みいる強豪と命の駆け引きをし、生き残って来た者だけが至る、境地にいる。それがこの氣である。
強い云々の段階ではない。名人と呼ぶべき、神聖な領域に、大井寺の剣はある。
(この剣を、どう破ればいい)
清記は、暫し考えを巡らした。
清記にとって、剣は算術である。理路整然と考えた先に勝利があるのだ。だから、真剣で向き合っても、考える事を止めない。
依然として老人の氣が四肢に絡みつき、身体を縛りあげている。清記は、腹に氣を込め放った。だが、大井寺に寸分の変化も見られない。
汗が噴き出していた。一方の大井寺は、涼しい顔をしている。
その余裕は何なのだ。内心で訊いた。
対峙が続いた。初夏の日差しが、身体を照らしている。
清記は、着物の重さを感じるほど汗をかいていた。大井寺は自然体だ。しかし、この日差しの中で対峙を続けていれば、流石の大井寺も体力が尽きるのではないか。
それが清記の答えだった。そうなれば、後は我慢比べである。
郭公の鳴き声。風が揺らす草木の騒めき。二人の周囲には、静謐すら漂いつつあった。
何刻、経っただろうか。ふと、清記は思った。感覚では、もう二刻は過ぎているように思える。
気が付くと、大井寺の肩が微かに上下していた。やはり、この持久戦では消耗するものが大きいのだ。
「やるのう」
大井寺が、言った。そして、口許を緩めた時には、大井寺が駆けだしていた。
斬撃が、眼前に迫る。下からの斬り上げ。清記も、ほぼ同時に繰り出していた。
斬風。互いの一撃が空を斬る。交錯し、位置が入れ替わっていた。
振り向く。一瞬だけ、清記の方が早かった。
そのまま跳んだ。
扶桑正宗を振り上げた。眼下に光。刃の白だった。真っ直ぐ、心蔵に伸びてくる。
これか。これが、老剣客の。だが、私には落鳳がある。幾代にも渡って磨いてきた、念真流の奥義が。
大井寺の顔が、
◆◇◆◇◆◇◆◇
肩に傷を負った。
着物と薄皮を斬られた程度だが、思い出しただけで、肌が粟立つ。恐らく、これほどの使い手は夜須でもそうはいない。雷蔵でも、大井寺に勝利するのは難しいかもしれない。
(これが、最後かもしれぬ)
隠居した老剣客が出るほどなのだ。黒河藩とて、もう手駒は残っていないのかもしれない。
清記は大井寺の骸に手を合わせると、来た道を戻った。
魚籠と竿を置いた場所に、男が立っていた。三度笠に道中合羽と、渡世人風である。
「清記様」
男が三度笠の庇を上げた。
目尾組の廉平である。腕のいい忍びで、もう二十年以上も組んで役目をこなしている相棒だった。
「鮎ですかい」
「今日はよく釣れている」
「季節ですからね。お、その肩の傷は?」
廉平は、清記の肩口を一瞥した。着物は裂けているが、怪我はない。
「お前には関係ない事だ」
「へぇ、あっしには関係ない事ですか。まぁ、相変わらず人気者のようでございますね」
「で、今日は何の用だ?」
「死んだ小忠太の遺髪を、故郷に届けた帰りなのですがね」
「お前の甥だったな」
「へぇ」
小忠太は目尾組の忍びで、雷蔵と組んでいた。が、黒河藩が抱える黒脛巾組の報復に遭い、殺されている。
「ちょっと、穏やかではない情報を掴みまして、その報告にと」
「ほう」
清記は竿を拾い上げると、糸を切った。仕掛けを毛鈎に変えるのだ。
「何でも、黒河から凄腕の剣客が夜須に入ったようで」
「それは穏やかではないな」
「その刺客は、黒河で〔達人〕とも称される、大井寺忠兵衛。天鏡壱刀流を使うとか」
「……」
「命じたのは、黒河勤王党の盟主・
「なるほどな」
「気を付けて下さいよ。もうお互い若くないですし、その肩の傷が何よりの証拠と申しましょうか」
「そうだな。身辺には重々注意する事にしよう」
清記はそう言って鼻を鳴らすと、竿を出して毛鈎を渓流の流れに投じた。
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