第二回 懸念(前編)

 目覚めは、傷の疼きだった。

 身を起こし、肩口に手をやるが変わりはない。

 皮一枚斬られただけで、縫う必要もない擦り傷のようなものだ。なのに何故か、清記の心を深くえぐっている。

 朝。障子から漏れる陽が目を突く。外は晴れているようだ。

 酷い寝汗だった。暑いからではない。久しく見ていない夢を見たからであろう。そう思う事にしたが、不可解な寝汗と倦怠感はここ最近続いている。

 清記は胸元を開き、枕元に置いていた手拭いで汗を拭きとった。


(もう何年になるか)


 夢には、弟が現れた。幼名は新太郎。長じて、穴水主税介あなみ ちからのすけと名乗った弟が。

 主税介と酒を飲んでいた。途中で父の悌蔵ていぞうも加わって、盃を交わした。

 夢である。夢だから出来た事だ。親子三人で飲むという事は、現実で無いままに終わった。

 もうすぐ、主税介の命日だった。だから、夢を見たのか。命日を忘れた事は、一度も無い。あの時の感触と血の温度も。


「お目覚めですか」


 起きた気配が察してか、三郎助がのっそりと現れた。この中年太りした小男は、朝から晩まで平山家の為に働いてくれている。清記が心を許す友であり、一番の家人だ。


「起き抜けというのに、お疲れのご様子で」

「夢を見た」

「夢……。そのご様子では、悪夢ですな」

「弟の夢だ」


 すると、三郎助は清記に向けていた視線を落とし、溜息を一つ吐いた。


「……もうすぐ御命日でございますね」


 三郎助の表情が沈む。この男にとって、主税介も清記同様に主君筋なのだ。こうした反応は仕方がない。

 御手先役は、藩内の政争には介入しない。あくまで藩法に叛いた時にだけ動く。しかし、藩主の跡目を争うものは別で、主家が二つに分かれる時、平山家も二つに分かれた歴史がある。


(今の栄生家も二つに分かれる事があるだろうか)


 分かれるとすれば、自分と雷蔵だろう。親子の相克は、今までにもあった事だ。

 利景には、まだ幼いが常寿丸じょうじゅまるという後継ぎがいる。他には兄妹もおらず、利景に何かあった場合、常寿丸を支えるという事で、一門衆も執政府も一致している。ただ、犬山梅岳いぬやま ばいがくを義父に持つ兵部が気になる。彼本人は兎も角、梅岳は野心の塊のような男なのだ。

 梅岳は利景の改革に反対し、失脚させられている。恨んでいるのは間違いないだろう。兵部は協力的だが、利景の死後にどう出るか予想も出来ない。


「あまり考えない事です」


 三郎助が気遣うように言った。


「私にそれを言うか」

「考え過ぎる殿に、それを言い続けてもう四十年になります」

「お前も飽きん奴だな」


 それから日課である木剣での素振りと行水を済ませると、清記は朝餉の膳についた。平山家の朝餉は粥と決まっていて、この時の給仕も三郎助である。


「もう一ヶ月ですか」


 傍で控えていた三郎助が、そう切り出した。食後の茶を啜っている時だ。


「そうだな」


 清記は短く答えた。

 雷蔵が失踪した。一ヶ月前の事だ。情を通じていた眞鶴を斬った後、その姿をくらませたのだ。

 眞鶴を斬れと命じたのは、自分だった。酷な事だとは思ったが、看過出来ない事態だった。

 女と逢瀬を繰り返すのはいい。雷蔵も男だ。しかし、相手が黒河藩の忍びとなれば、御手先役のお役目にも、平山家の今後にも差し障る。勿論、雷蔵の将来にも。

 雷蔵が斬る事を拒否すれば、代わりに処断しようとは決めていた。しかし、雷蔵は斬った。それは見事なもので、首の皮一枚で繋がっている状態だった。知らぬ間に、ここまで上達したのだと、その時は思ったものだ。


「方々に手を出して探しておりますが、中々……」

「構わぬ。放っておけ」

「お言葉ですが、私は放っておけません」


 三郎助の口調には、明らかに批判の色があった。清記は一瞥したが、三郎助の視線は動じない。この男にしては珍しい事だが、雷蔵を思えばの事だろう。それに母代わりとばかりに、雷蔵の面倒を見ていた三郎助には、そう言う権利がある。


「私が歩んだ道でもあるのだ」


 かつて、自分も女を愛した。目尾組の忍びだった。共に組んでいる内に男と女の関係になったが、ある賊徒を追って潜入した際に、そこの頭目に惚れてしまった。そして、女の情報を鵜呑みにした自分は、のこのこと賊徒が待ち構える死地に誘き寄せられ、地獄を見た。女を始末したのは、その翌年。扶桑正宗を振り下ろす直前、


「愛していたのに」


 と、女は呟いた。

 雷蔵の気持ちは理解出来るが、生きていく上では棄てねばならないものもある。だから、雷蔵に命じた。

 その後に出会ったのが、雷蔵の母・志月だ。勿論、三郎助はこの顛末を知っている。


「だからとて」

「兎に角、雷蔵の事は心配せずともいい。あやつが愚かではないという事は、お前も知っているだろう」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 代官所棟に渡ると、代官所の下役を統括している筆頭与力の磯田文六が出迎えた。


「何かあったのか」


 御用部屋まで歩きながら、清記が言った。磯田のしかめっ面を見れば、何か問題が起きたとすぐに判る。


「喧嘩です」

「ほう」

「ただの喧嘩ではございませぬ。百姓と山人やまうどです」


 清記は眉を顰めた。山人と百姓は、必ずしも友好な関係ではない。それは山人が人別帳に名前のない漂泊の民であり、百姓からは蔑視される存在であるからだ。一方の山人も、侮蔑し見下す百姓を苦々しく思っている。

 このように剣呑な関係にありながらも、山人は百姓に獣肉や山菜、或いは労働力を売り、百姓は野菜や米を売る。その関係は両者にとって不可欠であるから、このような事態にならぬよう常々気を配ってきた。


「それで今は?」

「山人は、百姓に捕まり庄屋屋敷の土蔵に押し込められています」

「何処の村だ?」

明星寺村みょうじょうじむらです」


 山裾にある村だ。庄屋の太衛門たえもんは若く切れ者であるが、山人を蔑視し高圧的な態度をしばしば取っていた。


「山人衆に動きは?」

「仲間を取り返そうと、各地の山から仲間を集めているようです。明星寺村とは前々から何かと問題がある間柄でしたから」

「むう……」


 御用部屋に入り、二人で向き合って座った。


「喧嘩の原因は?」

「山人が明星寺村の居酒屋に入り、そこで酔って暴れ、止めに入った村人と殴り合いとなったそうで」

「死人は出ていないのだな?」

「そこは救いですね」


 明星寺村の百姓は、付近に住む山人を特に毛嫌いしている。それは盗みをするとか、娘をかどわかすとか理由は様々だ。それは犯罪として代官所が対応しているが、村は村で山人が売る獣肉を安く買い叩いたり、逆に物を高く売るなどをしていた。清記はそうした行為を是正するように、太衛門に対し再三再四注意しているし、下役を何度も派遣して目を光らせていた。


「任せられるか?」

「判りました。何人か連れていきます」


 清記は、なるべく磯田に現場の指揮を委ねていた。それはこの痩せた中年吏僚の実力を信頼しているからでもあるが、順序というものを尊重すればこそでもあった。

 与力を越えて清記が陣頭指揮をすれば、磯田の存在を蔑ろにしてしまい、その権威を貶める事になる。そうならない為に、清記は順序を大切にしていた。

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