第十六回 大分村不動尊の決闘

 雨だった。

 昨夜遅くから降り出し、夜が明けた今でもしとしとと降り続いている。

 細かい雨粒だ。時折、雷も鳴った。そう大きくはない。遠雷というものだ。

 雷蔵は自室の広縁に座り、雨に濡れる仮住まいの庭を眺めていた。

 堂島丑之助。

 まだ見ぬ、男に想いを馳せていた。


(今頃、お前は何処でこの雨を凌いでいるのか……)


 このような感傷に浸るのは初めての事だった。ただ人ひとり、斬るだけなら容易い。二人や三人でも容易い。何も考えず斬るだけだ。しかし、相手は父が鍛えた男である。

 その衝撃は強い。父に弟子がいたなど、知らなかったのだ。その父が強いと言った。それだけに、怖くもあり楽しみでもある。


(しかし、奴は何処に現れる……)


 それが問題である。

 添田甲斐は、


「極論、斬ってくれればよい」


 そして、


「心のままに動け」


 と、言った。

 つまりは、全てを委ねられた。自らの判断で行動しろという事だ。

 人を斬るように仕向けた、許斐亘か? 惚れた女を奪った、斉木利三郎か? 或いは、畏れ多くも利景公をしいし奉るのか?

 雷蔵は、手文庫から夜須藩の地図を取り出して広げた。

 夜須藩南部。菰田郡の底のように聳える、八木山。そこから指先でなぞる。砥石山。そして街道伝いに、北上すると馬敷村と東光寺がある。


(まさか……)


 雷蔵の指は砥石山の麓で止まっていた。そこに、赤で印がついている。名は、大分村。

 雷蔵は、肺腑を突かれるような衝撃を覚えた。大切な事を、見落としていた。そんな気分だった。そして、追い打ちをかけるかのように、眞鶴の言葉が脳裏に浮かんだ。


「心を癒す事。わたくしならば、そうします。人は、疲れた時や悲しい時、苦しい時に、大切な何かに触れたいと思うものですから」


 そうだ、堂島は故郷に戻る。大分村へ。それが真の目的かどうか判らない。しかし、必ず立ち寄るに違いない。

 しかし、人斬りに心などあるのだろうか? 

 いや、ある。人斬りとて人間なのだ。そして、あると信じたい。もし無ければ、それは自分自身の心も無いという事になる。


(俺は、堂島と同じ人斬りなのだ)


 ただ、私利私欲の為の人斬りではない。民の安寧を揺るがす、叛徒を斬っている。堂島もそうだったに違いない。しかし精神が摩耗した。摩耗したという事は、心があるという事だ。そして、それを癒やしに大分村へ戻る。堂島は、祖母を大事にしていたともいう。きっと会いに現れるに違いない。

 もし、読みが外れたとしても、大分村と馬敷村はそう離れていない。何かあっても駆け付けられる距離である。

 雨は午後に止んだ。先程までの雨が嘘のように、青空から陽が顔を覗かせている。

 雷蔵は下女に二食分の握り飯を頼むと、老僕に外出の支度を命じた。


「これでよろしいでしょうか?」


 老僕が着物を持って私室に現れた。黒を基調にした、打裂き羽織と野袴である。

 雷蔵は頷いて受け取った。黒は好きな色である。何物にも染まらない強さがあり、また返り血を浴びても目立たない実用性がある。


「何処ぞにお出かけでしょうか?」


 老僕が着替えを手伝いながら訊いてきた。


「友人が京都から戻って来るのです。その出迎えに」

「ご友人が?」


 老僕が、驚いたように声を挙げた。


「私にも友の一人ぐらいはいるよ」

「左様でございますか。それはそれは」


 老僕は、何やら意味深に頷く。


「何か言いたげですね」

「いやいや、何でもございませぬよ。存分に語り合って下され」


 取り繕う笑みを見せた老僕は、関舜水八虎を差し出し意味深気に言った。


「ご武運を」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 砥石山を見据え、雷蔵は南へと足を向けた。

 雨上がりだからか、蒸すような空気である。春が終わろうとしていて、このところは汗ばむ日が続いている。

 昼過ぎに城下を出発し、一刻余りで馬敷村が見えてきた。村の周囲には鬱蒼とした木立があり、傍目からは森のようにも見える。

 この木々の奥に、栄生家の菩提寺・東光寺がある。創建は今より百余年前、二代藩主の栄生利時の御世だ。まず寺を建て、その周囲に村を拓いたという。順番があべこべであるが、馬敷村は東光寺の為だけに作られた集落であるのだ。

 城下ではなく郊外の田舎に建立した事には理由があり、三郎助が言うには、


「この地に菩提寺を建てる事で、この地域を活性化させる狙いがあったのです」


 だという。

 それが本当であるかは判らないが、この地に菩提寺を建立する事で、それなりの銭がこの辺りに落ちるのは間違いない。


(今頃、お殿様をお迎えする準備で村は大忙しであろう)


 雷蔵はそう思いながら、その村を足早に通り過ぎた。

 堂島は此処には来ない。いや、もののついでに立ち寄るかもしれないが、少なくとも最初には現れない。

 堂島は、まず大分村に戻る。自分の故郷に。そして、育ての親である祖母に会うはずだ。


「人は、疲れた時や悲しい時、苦しい時に、大切な何かに触れたいと思うものですから」


 この言葉に賭ける事にした。殺人を重ね、友や仲間に裏切られた男は、必ず心を癒しにくる。堂島が心を捨てたのならそれまでだが、人斬りにも心があると雷蔵は信じたかった。

 砥石山を見据えて歩き、桑の畠に囲まれた大分村に辿り着いたのは夕暮れ前だった。捕吏の姿は無い。どうやら藩庁は、堂島が此処に現れないと踏んだらしい。

 一度村に入り、堂島の実家を覗いた。老婆が一人で糸繰り車を回している。堂島の姿は無い。


(やはり、明日だな)


 そう思った矢先だった。

 背後から強烈な氣。慌てて、雷蔵は振り向くと、男が一人立っていた。

 小綺麗とした武士だ。縹色の袷に、縦縞模様の銀鼠の袴。頭髪も整えられ、髭も綺麗に剃り上げられている。

 ただ、身体は巌のように逞しい。猪首の上には、四角い顔。短躯短足で、背が高くない雷蔵の肩までしか背丈は無い。


(藩士か?)


 一瞬だけそう思った。しかし、鋭い目や、身体から発せられる氣は、自分と同質のものがあると悟った時、雷蔵は跳び退くと柄に手を回していた。


「おいおい。そう堅くなるなよ」


 男にそう問われても、雷蔵は警戒を解かなかった。


「そう言っても無理か」

「堂島丑之助殿ですね」


 堂島が頷く。


「あなたが」

「ああ、そうだ」

「平山雷蔵と申します」


 その名を聞いて、堂島の眉が微かに動いた。


「ほう。平山先生のお子か」

「はい」

「すると、俺を斬りに来たという事か」

「ええ」

「そうか。自分ではなく、息子を差し向けるとは、相変わらず愛がねぇな」


 堂島が鼻を鳴らした。


「弟子にも、息子にも」

「村の中では騒ぎになります。邪魔が入らぬ場所で立ち合いを」

「いいだろう。しかし、一つ頼みがある」

「何でしょうか」

「一日だけ待って欲しい」

「何故」

「せっかく、京都から戻った。故郷に錦を飾りたいと、危険を冒して着物も新調したのだ。この姿で婆さんに会いたい。どうしても、会わせてやりたい奴もいるんでな」

 そう言うと、自らの懐に手を添えた。そこに、何か大事なものをしまっているのか、労わるような動きが見て取れた。

「頼む。逃げたりはしねぇよ」


 堂島が頭を下げた。完全に雷蔵から視線を外してだ。心底頼んでいるのだ。狼は獲物から視線を外さないものである。


「判りました。では、明朝、村の外れにある不動尊で」

「悪いな。逃げはしないから安心しろ」

「あなたを男と信じております」


 堂島が黙礼し、雷蔵は背を向けた。


「まて、雷蔵殿」


 その場を去ろうとすると、そう呼び止められた。


「何か?」

「婆さんに、俺が京都で何をしていたか話したか?」


 雷蔵は少し考えて顔を横に振った。


「良かった。悪さをしたら怖いのだ、うちの婆さんは」


 その夜、雷蔵は野宿をする事にした。村で宿を乞う事も出来たが、久しぶりに闇の中に身を置きたい気分だった。

 大樹の傍で焚き火を熾し、握り飯を食った。横になると春の星が出ていた。


(やはり、堂島は故郷に戻った)


 読みが当たったのだ。添田が想定した日より一日早いが、結果的には問題は無かった、


(眞鶴には礼をしなければ)


 あの言葉がなければ、雷蔵は無理にでも東光寺へ行き、利景を護衛するという選択をしていただろう。

 眞鶴の顔が、夜空に浮かんだ。堂島を始末したら、真っ先に会いに行こう。


「兎も角、明日だ」


 そう呟き、雷蔵は目を閉じた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 払暁と共に、雷蔵は目を覚ました。

 傍を流れる小川で顔を洗い、空を見上げると朝焼けが眩しかった。


(いよいよか)


 そうは思うが、意気込みは無い。自分でも驚く程、心は平静を保っている。手早く握り飯を頬張ると、ゆっくり支度をして不動尊に向かった。

 村外れの雑木林。その入口に不動尊の祠はある。快晴の下でも薄暗い場所だ。

 不動尊の陰から、堂島が現れた。既に来ていたようだ。


「お待たせしたようで申し訳ありません」

「構わねぇよ。俺が先に来なければ逃げたと心配するだろしな」


 と、堂島は一笑した。


「お前には感謝している。久し振りに婆さんの飯を腹いっぱい食べる事が出来た。それに、銭を与えたのはお前だろう? 喜んでいたよ」

「何の事でしょう?」

「惚ける気か。まぁいい。早く用意しろ」


 雷蔵は頷くと、素早く下げ緒で袖口を襷掛けに絞った。そして汗止めの鉢巻をし、水筒の水で関舜水八虎の柄に霧を吹きかけた。


「準備万端か」

「一つだけ訊いて良いでしょうか?」

「何だ?」

「私を斬った後はどうするのですか?」

「逃げる」


 堂島は即答した。


「意外です。斉木利三郎や許斐亘、そしてお殿様を斬るつもりかと思っていました」

「それなりに調べたようだな」

「ええ」

「だがね、生憎その二人には何の遺恨も無い。いや、今更どうでもいい事だな。利三郎には幸せになって欲しいし、許斐は自分の仕事をしたまでだろう。そして、お殿様は……まぁいい」

「遺恨は無かったのですね」

「あった。が、それは亦部を斬った事で果たされたと思っている。それでいい、もう十分なのだと、言われたのだ」

「誰に?」


 すると、丑之助は痛々しい笑みを浮かべた。


「何故、亦部忠左衛門殿を?」

「……」

「どうして藩に叛いたのですか?」

「お前に言うつもりはないね」


 そう言い捨てて、堂島が近付いてきた。距離は、五歩。雷蔵は全身に寒気を感じた。

 相当な人数を斬ったのだろう。禍々しい黒い氣が蜷局とぐろを巻いている。


「やるかい」

「はい」


 ほぼ同時に、刀を抜いた。相正眼。雷蔵はまとわりつく禍々しい氣を払うように、腹の底から氣を込めた。

 間合いを、少しずつ詰めた。氣が触れ合う。どう動いても、斬り込んで来られる。そんな気がした。


(堂島の剣は、徹底的な返し)


 そう斉木が教えてくれた。また、それも三百通りあるという。大袈裟なと思ったが、その言葉も伊達ではないのかもしれない。

 どの位経ったか。じわりと滲み出た汗が、鉢巻に吸われていく。

 強い。そう思った。流石、父が見込んだ男である。

 氣の圧力は容赦がない。刀が数倍も重く感じ、向かい合うだけで息が上がりそうになる。

 堂島が一歩前に出た。雷蔵も出る。そして、刀の切っ先が触れた。その瞬間だった。

 関舜水八虎を、前に突き出した。

 動いてしまった。雷蔵は、突きを放ちながら、そう思った。待つ、そう決めていた。しかし、堂島の禍々しい氣に気圧され、動いてしまった。

 突きが、弾かれる。と、同時に、左斜めから斬撃が来た。

 これか。これが、徹底的な返しなのか。

 雷蔵は、鼻先のぎりぎりで躱す。

 おぼろ、と呼ばれる念真流の見切りだ。堂島は、幻覚を斬ったように見えているだろう。

 驚く堂島の顔。雷蔵は、それを見て嗤った。

 そうだろうな。父は、お前に念真流を授けなかったのだ。これをお前は初めて見るだろう。


(やはり、お前は父の弟子ではない)


 朧で、生じた隙。雷蔵は踏み込んだ。

 下段から、斬り上げる。それは空を切り、返しとばかりに突きが来た。

 上手い。だが、そう来なくては、面白くない。

 突きを弾きながら、身体を寄せた。鍔迫り合いの格好になる。


「むむ」


 顔が近付き、目が合った。堂島の目。まさに鬼のようだ。現世には存在しない、狂った者の目。これが人斬りの目ならば、俺も似たようなものなのか。

 堂島が、咆哮した。

 圧倒的な力で、押し込まれる。堂島の体格を見れば、当然の力の差である。


(押し合いでは負ける。ならば)


 刀を巻くようにして左に身を流し、身体を離すと同時に、雷蔵は刀を横一文字に薙いだ。


(返しが来るか)


 と思ったが、堂島の顔が引き攣るのが見えた。斬撃の速さに焦りを覚えたのか。

 今だ。

 雷蔵は一歩踏み込み、沈めた関舜水八虎を下から突き上げた。

 仕留めた。確実に。切っ先が堂島の胸に突き刺さっていく。

 勝ちだ、俺の。

 しかし――。


「何と」


 雷蔵は驚愕した。目の前にいた堂島の身体が、霧のように散ったのだ。


(まさか)


 朧だ。堂島は、念真流の見切りである朧を使ったのだ。


「驚いたか」


 距離を取った堂島が、静かに言った。


「お父上から授けられた技だ」

「ならば」


 雷蔵は跳んだ。そして刀を振り上げる。が、堂島も跳んでいた。空中で目が合う。


「貴様」

「死ね、雷蔵」


 落鳳まで、知っていたのか。

 糞。俺は、父に裏切られたのか。

 虚空で刃が交錯する。堂島の切っ先が頬を掠めたが、構わず関舜水八虎の黒い刀身を振り切った。

 低い、呻き。丑之助の左手首が宙に舞うのが見えた。

 よし、あと一撃。着地と同時に、あと一撃打ち込めば。

 着地したその時。突然の轟音が、雑木林に響いた。


「糞が」


 立ち上がった堂島の左肩から、血が吹き出している。雷蔵が振り向くと、馬上から鉄砲を構える男の姿があった。

 その騎馬に続くように、雑木林から続々と鉄砲を構えた一隊が姿を現す。数はざっと三十。


「立ち合いに夢中で気付かなかったな」


 堂島が苦痛に顔を歪めながら言った。着物の左袖が真っ赤に染まっている。


「一体、誰が……」


 瞬時に何人かの顔が浮かんだ。栄生利景、添田甲斐、相賀舎人、許斐亘、そして父。


「雷蔵」


 堂島に名を呼ばれた。振り向く。すると、強烈な力で押し飛ばされ、視界が一転した。

 二度目の銃声を、地に転がりながら聞いた。顔を上げると、雷蔵が立っていた位置で堂島が膝を付いていた。今度は、上半身に幾つも銃弾を受けていた。


「撃つのをやめろ」


 雷蔵は立ち上がり、戦列を組む鉄砲隊に叫んだ。


「おい」


 血反吐を吐く堂島が、雷蔵に顔を向けた。


「雷蔵、これが人斬りの末路だぜ。ボロ雑巾になるまで使われて、このザマだ」

「堂島殿」

「このままじゃ、俺のように大切なもんも奪われるぞ」


 そう言い放つと、堂島は立ち上がり刀を構えた。


「お前はこうなるな」

「狙い定め」


 指図役らしき男の声。雷蔵は咄嗟に地面に伏せた。

 轟く銃声。伏せた顔を上げると、白煙の中に堂島の死体が転がっていた。

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