第十四回 眞鶴

 暗闇の中に、男がいた。

 武士である。顔は見えない。闇の中で、男の身体だけに妖異な光が当たっているが、顔だけは不思議な靄がかかっているのだ。


(面妖な)


 と、雷蔵は思った。死霊か、或いは物の怪の類かもしれない。


「何者だ」


 そう訊いたが、武士は何も答えず腰の一刀を抜き払った。


「そういう事か」


 雷蔵も関舜水八虎を抜いた。相正眼で向かい合う。暫しの対峙の後に、雷蔵が先に動いた。

 裂帛の気勢を挙げ、関舜水八虎を横薙ぎに一閃した。

 手応えは十分にあった。しかし、斬られていたのは自分で、左手の手首が斬り落とされていた。


「糞」


 血が吹き出している自分の左手首に、雷蔵は目やった。不思議と痛みは無い。熱さも感じない。ただ手首があるべき場所に無く、そこから血が吹き出ているだけだという、認識しか湧かなかった。


「その程度か」


 男が鼻を鳴らした。冷笑を含んだ物言いである。

 雷蔵は右手一本で構えると、踏み込んで上段から斬り下げた。

 すると、今度は肩口を斬られていた。構わず振り向き、突きを放つ。だが、そこに武士にいなかった。ふと、斬光が見えた。下から伸びてくる。地を這うように。

 避けようと思った。が、踏ん張れずに身体が沈んだ。足元の地面が無くなったように感じた。倒れた雷蔵は上体を起こしてみると、膝から下が、皮一枚で繋がっている状態だった。無くなったのは地面ではなく、両足だったのだ。

 傍に武士が立った。そして刀を構える。


「死ね」


 武士の口元が歪んだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 そこで目が覚め、雷蔵は布団を跳ね飛ばした。


(夢か……)


 雷蔵は、大きな溜息を吐いた。

 夢の男、あれは堂島丑之助だったのであろうか。攻めると、必ず何処かを斬られる。あれが、返しに特化した守勢の剣というものなのだろう。

 庭に出て、井戸で嫌な寝汗を流した。妙に蒸している朝だ。重く灰色の雲が低い位置に停滞している。春が終わり、もうすぐ長雨の季節が来る。

 朝餉を摂り、外出の支度をしていると下女が来客を告げた。


「誰ですか?」


 雷蔵は問うと、


「添田様の遣いとか」


 堂島の件で、何か用件があるのだろう。


「客間にお通しして下さい」

「それが」


 女中は眉を潜めて、


「表で良いと外で待っているのですよ」


 と、困った顔で言った。


「判りました」


 雷蔵は着替えを終えてから、玄関に出た。そこには、添田甲斐に仕える老武士が立っていた。


(あの時の男だ)


 建花寺村に現れ、忠隈山の麓にある別邸まで案内した老人。確か、名前は木下だったか。あの時傍に居た、鼠顔の小者の姿は無い。


「添田甲斐が、平山様にお会いしたいと申しております」


 雷蔵の姿を認め一通りの挨拶をした後、老武士はそう言って頭を下げた。


「今からでしょうか?」

「いや」


 木下は首を横にして書付を手渡した。そこには、


「本日宵五ツ 太郎小路、八つ造」


 と、書いてある。此処に来いという事だろう。


「承りました、とお伝えください」


 雷蔵の返事を聞くと、木下は足早に辞去した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 それから雷蔵は、眞鶴が住まう若菜村まで足を伸ばした。先日見掛けた男は誰なのか、直接訊く為である。

 あの日以来、雷蔵は悶々とした日々を過ごしていた。眞鶴と談笑していた男。それが気になって仕方なく、


「お殿様が自ら拵えた関舜水八虎を持つに恥じない武士でありたい」


 と決めていただけに、お役目どころではなくなっている自分が悔しかった。


(ならば、直接訊くしかない)


 そう思い立っての行動だった。眞鶴の口から直接聞けば、全て諦める事も出来よう。

 蒸した曇天は相変わらず、袷の襟口が汗でしたたかに湿っている。

 草庵に着くと、眞鶴が庭で土いじりをしていた。小さな畑に、手を加えている。


「雷蔵様」


 雷蔵に気付いた眞鶴が、泥が付いた顔に少女のような笑みを湛えた。それに、雷蔵は小さい会釈で応えた。


「来て下さったのですね」


 眞鶴は立ち上がると、雷蔵を草庵に招いた。

 昼餉が出された。眞鶴が拵えたもので、野菜が中心の料理だ。雷蔵の給仕をしながら、眞鶴は城下に行った時の話をしてくれた。知人の法事の後に、付き合いがある幾つかの商家に挨拶をしたらしい。鶴三緒屋もその一つなのだろう。

 だが、あの若い武士については、一言も触れなかった。


(やはり隠している)


 雷蔵は箸を置いた。そして、正対すると意を決して訊いた。


「雷蔵様」


 一瞬、眞鶴の表情が曇ったが、直ぐに口を手で押さえ噴き出した。


「何故、笑うのです。私は真剣に」

「いえね、雷蔵様も嫉妬するのだと思ったら可笑しくって」

「嫉妬? それは、私は」

「あれ、弟ですの」

「弟?」

「ええ。今は父の後を継いで、豆牟田の塾をしているのですが、ご友人の見舞いとやらで夜須に来ているのです」

「鶴三緒屋から出て来られたのは?」

「その店で、弟が起居しているからですわ。鶴三緒屋の支配役は父の教え子なのですよ。それで厚意に甘えているのです」

「なるほど」


 雷蔵は頷き、眞鶴へ疑った事を謝罪した。眞鶴の言が本当なのか嘘なのか、それは判らない。調べる気もない。惚れた女なのだ。信じなくてどうするというのか。

 食後、縁側で二人並んで座った。


「眞鶴さん」


 雷蔵が、横で針仕事をする眞鶴に声を掛けた。


「私には、京都に行った友人がいます」

「京都に?」

「はい。数年前にお役目で」

「大切なご友人なのですか?」

「どうでしょう」


 雷蔵は、庭の畠に目を落とした。畝があり、水を撒いているからか土が黒々としている。


「少なくとも、私は大切だと思っています。相手はどう思っているか判らないですが」

「まぁ」


 と、眞鶴は淑やかに、如何にも武家の女らしく笑った。


「その友人が夜須に戻ってくるのですが、どうやら同僚に裏切られたようで」

「……」

「そういう時、人は何をしたいものなのでしょうか? 私は感情の機微に疎いので教えていただきたいのです」

「そうですね」


 眞鶴は針を針山に戻すと、顔を雷蔵に向けた。


「心を癒す事。わたくしならば、そうします。人は、疲れた時や悲しい時、苦しい時に、大切な何かに触れたいと思うものですから」

「心を癒す?」

「少なくとも、わたくしはそう思いますわ」

「心か」


 人斬りの堂島に、そのような人間らしい感情はあるのだろうか。人を斬り、酒色で身を持ち崩した男である。


「雷蔵様なら、どうなされますか?」

「私ですか……。私ならば、復讐をします」

「復讐など、愚かしく虚しいだけです。もし、そのような事を考えているのなら、雷蔵様が身を挺してでもお止めするべきです。そして、もし雷蔵様が復讐を考えていましたら、わたくしがお止めします」


 そう言った眞鶴の顔には、言葉では言い表せない深いかげりがあった。


「雷蔵様」


 不意に、眞鶴が身を寄せてきた。


「どうしたのです?」

「いえ、雷蔵様が私に相談をしてくれたのが嬉しくて」

「眞鶴さんには、何も語っていないな。そして、何もしてやれていない」

「こうして、お情けを頂けるだけで私は十分でございます」


 眞鶴が呟いた。


「それ以上は何も望みませぬ」


 将来の事を言っているのだと、雷蔵はすぐに気付いた。この恋には未来がないと、眞鶴も理解しているのだ。眞鶴を妻に迎える事は出来ない。身分が違うのだ。武家の娘とは言え、上士の平山家とは違う。この先で出来る事と言えば、妾として囲う事だけだろう。しかし、それは眞鶴を傷付ける事になる。侮辱でもある。だからそれだけはしたくないと、雷蔵は決めていた。

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