第二回 同族嫌悪

 宇美津奉行所は、堅牢である。

 元々は、さる水軍大将の海城だった。それを改装して奉行所にしたというから、小藩の陣屋ほどの規模はある。

 その主は、羽合掃部はわい かもんという男だった。

 歳は三十路に踏み込んだばかりで、自分と左程変わらない。理知と怜悧を具現化した顔付きは冷たい印象を受けるが、筋の通った鼻梁を見ると間違いなく男前の部類に入る。


「お久し振りでございます」


 羽合は正対すると、したたかに平伏した。

 会うのは、これで三度目になる。生まれも育ちも江戸という羽合とは、今まで縁が無かった。二人だけで話をするのも、これが初めてである。


「そうかしこまるな。今日は公務ではない」


 宇美津奉行所にある、羽合の執務部屋。十畳ほどの一間だった。


「〔今治部いまじぶ〕と呼ばれる男の仕事ぶりを拝見しようと思ってな」


 羽合は秀才の誉れ高く、若くして宇美津奉行に抜擢された逸材だった。利景や添田の期待も高く、それはこの飛び地の全権を与えられた事が物語っている。故に今治部と渾名され、かつて能吏として名を馳せた石田治部の再来とも囁かれている。


(今治部とは、大きく出たものだ)


 だが幾ら周りが評価しようとも、齢三十で中老にまで昇進した実績がある自分には遠く及ばない。羽合は三十一。自分は三十三。奉行職は二十代で経験している。


「しかし、驚きました。まさか、相賀殿が宇美津にお越しになるとは」


 そうは言っても、この男の表情に変わりはない。さも当然のように相賀を出迎え、部屋に通していた。部下にも慌てる様子がないのは、普段の躾がいいからだろう。


「公務ならば事前に通達するが、これは個人的な旅でね。妻も一緒なのだ」

「何とも、それは。私は妻を夜須に残したままで、夫らしい事は何もしておりません」

「ふふ。この私もそうだったのだ。それを見かねたお殿様から、遊んで来い命じられてね。どうせ行くならと宇美津を選んだ次第だ」

「なるほど、それは宜しい事で。きっと日頃の忠勤振りを見られておられたのでしょう」


 この男の言葉には抑揚が少なく、毒を含んで聞こえる事がある。羽合に悪気はないのは判る。それでも釈然としない不快感が胸に残るのは、今治部に対して些かの含む所があるからだろう。

 思えば、この男にはどうも癪に障る所があった。能吏同士の対抗心かもしれない。現に宇美津の見事な統治を目の当たりにすると、ふつふつと嫉妬のようなものが湧いてくる。


「して、今はどちらにお泊りで?」


 羽合は、舎人の心中など全く忖度そんたくしない様子で話を変えた。


郡町こおりまち米子屋安兵衛よなごや やすべえ方の旅籠だったかな」

「米子屋ですか……。言ってくだされば、こちらで手配しましたのに」

「いや、それには及ばない。何度も言うが、今回は慰安の旅だ。公務ではない」


 宇美津奉行所にも宿舎がある。警備を鑑みるならば宿舎に泊まる方が安心だが、私事の旅行である以上それを使うつもりは無かった。厳重な護衛もいるし、何より宿舎はあくまで公務を行う者の為のものである。それに、銭を払って旅籠を使う方が、宇美津の経済も潤うというものだ。


「私もそう思いましたが、一応」

「一応か」

「ええ、相賀殿なら断るだろうと思っていましたので、一応と」


 と、さも平然と言ってのけた。涼しげな表情だけに腹に隠れた残酷さが際立ち、今度は明確な不快感を覚えた。


「ならば、護衛の手配だけでもさせて下さい」

「しかし、それでは奉行所の政務に差し障りがあろう?」

「数名が抜けた所で滞るような体制を敷いてはおりませんよ。それで差し障りがあるようであれば、それこそ大きな問題です」

「確かに」

「むしろ、相賀様に万が一の事がある方が、政務が停滞します。私の責任問題にもなりますしね」


 舎人は、悔しいが自然と頷いていた。旅は私事であるが、それと藩の重臣を守るのとでは話が違う。仮に自分が羽合でも同じ手筈をしたはずだ。


「如何ですか、宇美津は。相賀殿は中老になられて初めての御来訪でしょう? 私が奉行になって、執政府の方々は誰もお越しになっておられない故、ご意見を賜りたいのです」


 舎人は、羽合の皮肉を聞き流し、朝から見物した町の様子を思い出した。

 湊では千石船が何艘も停泊し、絶えず荷が動いている。町に目を移せば、大八車は頻繁に往来し、商家は賑わい、民衆の表情も明るい。多少の貧富の差が見て取れたが、それは商都ならではで仕方のない事で許容範囲だ。羽合にケチの一つでもつけたい所だが、宇美津はよく治められていると考えていいだろう。

 そうした感想を一通り語った後、舎人は一度言葉を切った。


「ただ、問題もある」

「問題? 伺いましょう」

「鵙鳴山の賊徒だ」


 何を言われるか見当が付いていたのだろうか、羽合の表情に変化はない。


「宇美津は、夜須城下から深江ふかえ高師こうもろ両藩を横断し、新農にいの郡部こおりべそして珂府城下、宇美津までを繋ぐ築那街道ちくやかいどうの始点であり、ここで生まれる利が江戸と共に関東の経済と物流を支えている。また宇美津の経済が夜須藩の財政に深く関わっている以上、賊徒の跋扈は看過出来ぬ問題だ」

「私もそう思います」

「実害は?」

「私の管轄では、確認されておりません。物流は宇美津湾へ注ぎ込む波瀬川の水運を利用しておりますので、奪われる可能性は低いかと」

「だが、山賊から河賊への役替えが無いとも限らん」

「勿論。ですが、私に出来るのは精々警備の強化というぐらいです。それについて思う所はありますが、私の一存で鵙鳴山に討ち入るわけにはいかぬでしょう」

「当たり前だ」


 鵙鳴山は、天領や旗本領が複雑に入り組む場所に鎮座している。そこへ夜須藩軍を動かすとなると、許可を得るだけでかなりの時と労力を有する。またそれをしようにも、幕府や旗本は武士の面子を気にして許可を下すとは思えない。強行して藩軍を起こせば、謀反と思われるのは必定。故に、今の今まで賊徒を野放しでいるのだ。


「私としては、執政府のお歴々に動いてもらいたいのですが」

「ほう」

「このまま見過ごす事は、武士の道に反します」


 その一言に、舎人の血が一瞬湧いた。一つ怒鳴りたい所だが、舎人は鼻を鳴らして笑う事で、何とかそれを抑えた。


「武士の道とな」

「如何にも。民を守るがは、武士の道でございます」

「おぬしの気持ちは判る。私も奉行時代は同じような歯痒い想いを幾度となくしてきた」

「平山様に任せればいいのですよ」


 予想外の名前に、舎人は目を見開いた。そして驚いたのは、その献策ではなく御手先役の事を知っていた事だ。

 御手先役。それは夜須藩が秘密裏に抱える刺客の事だ。その役目は代々内住代官でもある平山家が歴任し、今は平山清記という中年の男が務めている。


「おぬしも御手先役の存在を知っていたか」

「ええ。奉行に補任された際、お殿様より聞かされました。平山殿とは個人的に付き合いがあるので驚きました」

「なるほど。平山清記をな……。良い案かもしれぬ」


 そう言ってみたものの、御手先役派遣を進言する気は舎人には無かった。これは羽合の策であり、成功すれば今治部はまた一つ功績を得る事になる。これから競争相手になろうとする男に塩を贈るほど、自分は出来た人間ではない。また、羽合の功績を横取りする事も矜持が許さない。羽合以上の策を講じる。自分ならそれが出来る、と信じている。


「相賀殿、この件は追々。それよりも私は勤王派の動向が知りたいのです」


 羽合が話を変えた。


「勤王か。確かに先年から、その言葉がよく耳に入るようになった」

「それは宇美津でも同じです」

「馬廻組の武富陣内たけとみ じんない、そして館林簡陽たてばやし かんようが領袖という所か。この二人に比べやや劣るが、真崎惣蔵まさき そうぞうの名も挙がっている」

「武富と真崎は、かつてお殿様の為に戦った者ですね」

「そうだ」


 それには気付いていたが、敢えて舎人は言及しなかった。その雰囲気で察したのか、羽合がハッとして、すぐに謝罪した。


「なに、気にする事はない。もう終わった事だ」


 舎人には、相賀玄太郎あいが げんたろうという兄がいた。剣術に長け、藩費で廻国修行をしていたほどの猛者だった。その兄が、又一郎利之と直衛丸と呼ばれていた利景との、藩主の座を巡る御家騒動に巻き込まれた。兄は武富や真崎と共に利景派に属して戦い、そして雄々しく死んだ。

 舎人の地位は、兄の死の上にある。兄が死ななければ中老にもなれず、そもそも家督すら継げなかった。

 自分を妬む者は、妻との政略結婚と共に


「中老になれたのは、お殿様が玄太郎の忠勤に報いる為だろうよ」


 と、陰口を叩く。

 そうした意味で、この件には複雑な想いがある。


「ところで、宇美津でも勤王派が騒いでいるのか?」

「ええ。未だ内偵の段階ですが、色々と問題がある藩士が宇美津には多いですから。この件はいずれ報告をいたします」

「判った。それは夜須で待っていよう」


 勤王。それについて、舎人は余り考えなかった。考えるに値しない、夢想家の戯言だと思っている。要は不満の捌け口に帝を持ち出しているのだ。その方がよほど不敬だという事も判っていない。

 ただ勤王熱の高まりで、政争の質が変わりつつあった。かつては利景の前に立ちはだかった犬山梅岳一派が敵だった。そして彼らが失脚した今、この勤王が敵になろうとしている。

 話はそれで終わり、少し待たされた後で護衛となる者に引き合わされた。


滝沢求馬たきざわ もとめと申します」


 護衛の頭になるのは、精悍だが暗い眼をした若い男だった。管亥流かんがいりゅうをよく使うとの事で、真剣での闘争にも慣れているらしい。


(ほう、あの滝沢……)


 その名を聞いて、舎人は二度頷いた。この若者の父は、かつて清水徳河家騒動で奔走した過去がある。面識は無いが、夜須に於ける勤王の先駆けというべき男だった。


(羽合が、この男を選んだのは偶然か……或いは)


 他にも筋骨逞しい男が六人。彼らが昼夜交代で警備をするという。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 宇美津奉行所を出た時には、もう陽が傾いていた。旅籠への帰路を辿りながら、舎人は羽合が御家騒動の一件を持ち出した事を考えていた。


(あの男、兄の事を知っていて触れたのではないか)


 お前の地位は、兄が命を賭して戦ったからで、お前に才覚があるのではないと言わんが為に。


(いや、それは下衆の勘繰りか)


 沸騰した頭を、海風が凪いで冷ましてくれた。

 それでも、羽合に対して嫌悪の感情は拭えない。あの男と自分は同族なのだ。そして、いずれは自分の地位を脅かす存在になるであろう。利景は能力さえあれば下士でも百姓でも抜擢するが、それだけに厳しい競争を課す。


(安穏とはしていられぬ……)


 夜須に戻れば、更に励まねばなるまい。

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