番外篇

転章(一) 中老・相賀舎人は揺るがない!!

第一回 白痴の妻

物語は、第一章前夜に遡ります。


◆◇◆◇◆◇◆◇



 春の穏やかな日差しの中で、相賀舎人あいが とねりは砂浜に腰を下ろし、海を眺めていた。

 風はそこまで強くないが、沖には白波が立っている。海上では、おかでは感じられない風が吹いているのだろうか。

 久し振りの海だった。

 舎人が住まう夜須は、四方を山で囲まれた盆地であり、海を見る機会など滅多にある事ではない。

 初めて見たのは、いつだったか。確か父との旅で、それもこの宇美津湾だった事は記憶している。

 あの時は波打ち際まで駆け出して、


「大きな湖でございますね、父上」


 と嬉々として言い、父に失笑されたものだ。

 あれから、二十余年。今度は舎人が、妻の世与せよを連れ、同じ海を見せている。


「お前様」


 波打ち際で戯れる世与が振り向き、手を振った。


「凄うございます。海は凄うございますよ」

「いいから、裾を濡らすなよ」


 そうはしゃぐ妻に、舎人は呆れ顔で叫んだ。

 宇美津へは、慰安の旅だった。たまには休んで夫婦でゆっくりして来いと、参勤から帰国したばかりの夜須藩主・栄生利景さこう としかげに命じられての事だった。

 舎人は藩主の気遣いに感謝しながらも、その申し出を一度勿体無いと固辞した。


(私に、そのような暇はない)


 それが本音だった。自分は、夜須藩の枢密すうみつを司る中老である。上役の家老、同役の中老は他にもいるが、利景と首席家老の添田甲斐そえだ かい輔佐ふさし藩政を動かせる者は、夜須に於いてはこの舎人だけなのだ。特に今は、利景肝煎りの財政改革と徐々に勢力を伸ばしつつある勤王派の対応で忙しく、休む暇などありはしない。

 しかし利景は藩命だとして、これを譲らなかった。後に添田から聞いたが、中老になって一度も休んでいない舎人を気遣っての事だったらしい。

 こうして得た休暇先に宇美津を選んだのは、どうせ旅をするなら実りあるものにしたいと思ったからだった。

 宇美津は夜須藩の飛び地であり、唯一海に面した湊町でもある。港湾も発達し、そこから上がる利も太い。その割に、舎人は父との旅以来、一度も訪れた事は無かった。無論、それは宇美津が平穏に治められている証拠でもあるが、そうした時こそ目を光らせる必要がある。

 利景に宇美津に行くと告げた時、流石に苦笑しそれ以上は何も言わなかった。


(この際、宇美津の現状を把握し、課題を洗い出そう)


 慰安とは言うものの、半ば査察つもりで乗り込んだ。世与には退屈だろうと思ったが、それは杞憂というものだった。

 一度も夜須を出た事が無い世与にとって、行先よりも旅をするという事だけで嬉しいらしい。特に海を見た事が無く、それが世与をより興奮させた。


(海はいいな)


 舎人は鼻腔を突く、磯の香りを胸一杯に吸い込んだ。

 海は広い。どこまでも続いている。そこには、藩や幕府という括りはどこにも無い。それを思うと、日本のしかも夜須という狭い山国で、齷齪あくせくと藩政を切り盛りし、勤王だの佐幕だのと騒いでいる我が身が小さく見えてしまう。


(この海を渡る事が出来るならば……)


 外洋に乗り出し四海の果てにある国々を見てみたい。そこに伝わる、学問という学問を学んでみたい。

 かつて、長崎に遊学していた父に聞いた事がある。漢土もろこしよりも遥か西には、進んだ文化や技術を有する国々があると。父は儒学者であったが、遊学中に蘭学にも触れ、そこで得た見聞を舎人に話してくれたのだ。

 父の話を聞くうちに、いつしか異国へ渡る事が舎人の夢になっていた。しかし、それは幾ら望んでも叶わぬ夢。今この国は、外国への窓口を自ら閉ざしてしまっているのだ。田沼意安がその鎖国を廃止しようと動いてはいるが、その反対も大きく遅々として進んではいない。

 異国への夢。それは叶わないものと諦めている。これが生まれ持った星なのだ。中にはその渇望を捨て切れず単身渡海した者もいるが、自分にはそうした冒険は許されない立場にいる。ならば、やるべき事をやるべき場所で励むしかない。


「お前様、海の水は塩辛うございますね」


 世与が舎人の横に腰を下ろした。


「世与、まさか海の水を舐めたのか?」


 そう訊くと、世与が童のような顔つきで、大きく頷いた。


「お前な」

「塩辛いし、腐った臭いがするでございます」

「磯の香りというのだ。私も得意ではないが、海の傍で生きる者は平気だそうだ」

「世与には我慢できませぬでございます」

「我々は山国育ちだからな。それが生まれというものだよ」


 そう言って、舎人は砂浜に身を倒した。

 よく晴れていた。蒼穹に鳶が円を描いて飛んでいる。宇美津に着いたのは、昨日の晩。今日で二日目になる。これからが忙しい。旅行の計画は査察を含め、緻密に立てて来ている。それを添田に言うと笑われた。これでは、心身は休めないと。そうかもしれないが、何も決めない方が苦痛である。


「お前様。向こう岸には何があるのでございますか?」

「向こう岸か。世与は何があると思うかい?」


 舎人は唐突な質問に質問で返すと、世与はさも深刻な問題を考えるような面持ちで、下を向いた。


「世与は知恵が無いのですら、判らないのでございます」

「あのな、世与。何度も言っているが、自分で知恵が無いと言うのはいけない」


 世与は、生まれながら知恵が足りない女だった。文字は何とか名前が読み書き出来る程度、数は精々十まで数えられるぐらいだ。この妙な話し方も、無理に行儀作法を詰め込まれた名残である。

 それでもこの女を妻にしたのは、実家が夜須の権門けんもん、藩主家に連なる権藤家の姫だからというわけではない。この物知らぬ女を心底愛らしく思ったからだ。

 口さがない者は、家格欲しさに白痴を嫁にしたと笑う。舎人はこうした罵詈雑言を、徹底的に無視した。所詮は無能者のやっかみなのだ。この婚姻で、相賀家は馬廻格から大組格へと昇進したのは事実だが、世与への愛情は本物だと言えるだけの確かな証拠がある。

 当初、舎人は世与の姉と結ばれるものであった。しかし、舎人は妹の世与を選んだ。白痴故の無邪気さに、舎人は一目惚れをしたのだ。何も知らない、その白さが新鮮でもあった。一方の姉は教養がある慎ましい女だが、その賢さが気に入らなかった。

 世与との婚姻を申し込んだ時、義父となる権藤謹一郎ごんどう きんいちろうは狼狽し、その申し出を断った。本来なら座敷牢にでも押し込めるべき娘だと。しかし、舎人は素直に愛する気持ちを打ち明けると、謹一郎は感激し手を取って了承した。

 この一件を、舎人は自ら口にする気は無く、謹一郎にも口止めしていた。この事実は、ここぞという所で人伝ひとづてに出すつもりでいるのだ。


「でも、いくら考えても世与には何が何だか判らないのでございますよ」

「すまんすまん」


 舎人は身を起こして、軽く微笑んだ。


「世与、海の向こうに何があるかなんて、皆が知らない事なのだ」

「それでは、お前様も知らないのでございますか?」

「いや、私は知っている。行った事は無いが、何があるかは学んだ」

「流石、お前様。お前様はやっぱり頭が良いのでございます」

「ふふ。そう、私は頭がいいのだ」


 と、舎人は砂浜に指で細長い丸を描いてみせた。


「これが、日本だ」

「日本?」

「そう、世与がいる場所だ」

「夜須の、城前町じょうぜんまちでございますか」

「そうだな。夜須の城前町だ」


 世与にとって、今住んでいる場所が世界であり、全てなのだ。それを一々否定する事はせず、舎人は次に大きな丸を描いた。


「これは?」

「西洋という異国だ。これが海の果てにある」

「大きい」

「ああ。そこに住まう者も大きいぞ」

「お前様。西洋という国は、鬼さんの国でございますね」


 世与は、思いついたように手を叩いた。


「鬼?」

「鬼さんは身体が大きいのでございますよ、お前様」


 舎人は、西洋人の似せ絵を脳裏に思い浮かべ、思わず一笑した。彼らは背が高く、全身は毛深いと言われている。


「世与。お前の言う通りだ。さといなお前は」

「それは、お前様が世与に色々お話を聞かせて下さるからでございます」

「そうかそうか」


 そう言って得意気な世与の頭を撫でると、白痴の女は顔を真っ赤にして、舎人に身体を寄せた。


「よしよし、お前は良い子だ」


 鼻腔を突く、世与の女臭めしゅう。肌が白く、痩せた割に胸が豊かな十九歳の身体は、女として十分過ぎる魅力がある。舎人はその身体も愛し溺れ、世与もそれに応えた。妻に迎えて三年。淫蕩の果てに子種は宿らないと言うが、果たしてその通りになっている。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 陽が傾きだした。


「さて、そろそろ行くか」


 舎人は立ち上がると、世与の手を取った。これから相賀家と縁がある寺へ挨拶に行かねばならない。


「海にまた来たいのでございます」

「そうだな。私には済ませる用事があるから、今度はお梅に連れて行ってもらうといい」


 お梅とは、相賀家で雇っている女中である。元は権藤家で雇われていたが、世与と共に相賀家に渡り、この旅にも世話役として同行している。

 それとは別に、護衛としての供が七人。四人は遠巻きにして舎人達を見守り、残りの三人は姿を現わさず、何処かで見守っている。

 この七人は、舎人を守る護衛だ。遠巻きの四人は藩内最大の道場たる光当流興心館こうとうりゅう こうしんかんから選ばれた猛者で、姿無き三人は藩が抱える忍び衆・目尾組しゃかのおぐみから派遣された隠密である。

 これらは、首席家老の添田が手配したものだ。中老ともなれば、命を狙う者も現れる。特に利景の改革に反対して失脚した犬山梅岳いぬやま ばいがくの残党は、自分を殺したいほど恨んでいるはずだ。

 また、夜須と宇美津を繋ぐ築那街道ちくやがいどうには治安上の問題があり、目下そちらの方が心配だった。鵙鳴山宝如寺もずなきやま ほうにょじを根城にした賊徒が、押し込みや追剥ぎなど略奪を働いているというのだ。もし賊徒が夜須藩中老とも知れば、誘拐かどわかして身代金を要求するのは必定だろう。そこまでして旅をする価値はあるのか舎人は疑問だが、久し振りに海を見る事が出来て気持ちは晴れていた。

 浜を出ると小さな漁村があり、そこでは漁師の女房達が、腹を開いた魚を干していた。


「魚が洗濯されておりますよ、お前様」

「あれは干物だ」

「ひもの」

「そう。魚を干して食べるのだ」

「へぇ、ひもの」


 こんな簡単な事でも、世与は目を丸くして驚き、それを教える自分に感心してくれる。


「初めて見るのでございます」

「旨いぞ、干物は。どれ帰りに買ってやろうか」


 そう言って漁村を抜ける舎人の後ろを、四人の若侍が追って行く。

 物々しい護衛は、お梅同様二人の旅を邪魔する事は無い。そこは添田に言い含められているのだろう。

 剣術が苦手な舎人にとって、七人の護衛は心強くあった。物々しい護衛を笑うなら笑っても結構だ。これは必要な処置なのである。やせ我慢はしない。見栄なども張らない。優秀な人材は自分の弱点を心得ていて、それを補う術を弁えているものなのだ。

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