最終回 蒼い月
目が覚めると、見知らぬ老夫の顔があった。
薄くなった白髪頭に、無理して髷を結っている。漁師だろう、皺だらけの顔は赤く潮焼けしていた。
老夫は求馬を見て一つ頷くと、視界から消えた。
(誰なのだ、この男は)
それに、此処が何処だか判らない。まず、視界にあるのは天井である。それは、武家屋敷や寺院に見られるようなものではない。戸板だけの、粗末で簡易なものである。
(他には……)
と、求馬は視線を右に移した。
囲炉裏がある。火が炊かれ、湯が沸かされていた。右半身が温かいのは、きっとこのせいだろう。
その奥には、網や魚籠、竿などが見えた。やはり老夫は漁師で、此処はその家なのだ。
(まずは、起き上がろう)
求馬は膝を立て、ゆっくりと上体を動かした。服を着ていた。自分の物ではない、縦縞の着流しだ。
(何がどうなっているのか)
判らない。自分は死んだはずではないか。確か、海の底に沈んだはずだった。それからの記憶が抜けている。
次に気付いた事は、自分の身体が猛烈に磯臭い事だ。おまけにべたついている。海に落ちたのは間違いないようだ。
「目が覚めたか?」
そう訊かれ、求馬は頷いた。
「まぁ、これでも飲め」
と、白湯を差し出された。
それを受け取り、一気に飲み干す。身体の芯から温まる。そして、喉が異常に乾いていた。続けて三杯飲む事で、その乾きを満たす事が出来た。
「どうだ、具合は?」
「はい、どうやら大丈夫なようです」
身体が少し重いが、気分は悪くない。
「そうか。もう二日も眠っていた」
「二日も」
「そうだ。儂はこのまま死ぬのではと思っていた」
二日。その空白に、求馬は愕然とした。その間に何があったのか、全く判らない。
「私は滝沢求馬と申します。あなたは?」
「ただの漁師だ。名前は名乗らんが、前は侍だった。だから、お前さんに敬語を使わんよ」
「ええ、構いません。しかし、此処は?」
「
西泊は、宇美津から西に少し歩いた漁村である。
「何故、私は此処に?」
「さてね。どうしてお前さんがこうなったか、儂は知らん。ずぶ濡れのお前さんを、侍がおぶって現れ、暫く置かせてくれと頼まれたのだ。大金を渡されてね」
と、老父はさも興味の無いように、床に置かれた小判を一瞥した。
「誰が連れてきたのです?」
「さぁ、名前は言わなかったな」
「ならば、どのような男でした?」
「若造だな」
「若い? 子どもですか?」
「いや、二十歳かそれぐらいの優男だ。中まで運んできたのは一人だが、外には何人かいた様子だった」
「そうですか」
海で気を失っていた所を、誰かに助けられたのだろうか。
(いや、それは違う。助けられたとしても、見ず知らずの男の為に大金を払うとは思えない)
頭を抱えていると、老夫は立ち上がり一纏めにされた荷物を運んできた。
「これを渡すように頼まれた」
荷物は、大小の刀と風呂敷包み。刀は自分のものではない。
(はて?)
風呂敷包みの中身は、着物だった。羽織袴の他、脚絆、手甲まである。旅装束だ。
「着ろという事か」
着物を手に取ると、その中に手紙と小判が十枚入っていた。小判は、懐紙に包まれている。
「これは?」
「さぁ。渡すようにだけ言われただけでね」
求馬は頷いて手紙を開くと、肺腑を突く衝撃が全身を襲った。
(この字は……)
見慣れた字。それも、役目の中で嫌というほど見てきた。飄々とした性格を表すような癖字である。名は記されていないが、その字で誰からの手紙であるか判った。
手紙は、まず謝罪の言葉で始まった。こうなったのは不本意であるが、これも藩とお役目故の事であると。あなたの思想には賛同しない。だが、武士としては見習いたいと。
(相変わらず、調子の良い奴だ)
次に、自分が助かった経緯が記されてあった。それによると、小弥太と共に海に落ち、暫く沈んだままだったが、失神しながらも首を絞めている小弥太を背負って、自ら堤防に這い上がって来たという。
(どうやら俺は、死にかけて
解脱とは仏教の言葉で、煩悩による繋縛から解き放たれ、悟りの涅槃の世界へと脱出する事である。しかし、兵法では体力気力とも限界に達し、純粋な生命力だけで動いている状態を指す。解脱すると、本来眠っている能力を引き出すのだ。
(話だけなら聞いた事はあるが……)
人を背負ったまま海の底から這い上がるなど、無理な話である。それが出来たというなら、やはり自分は涅槃にいたのだろう。だからこそ、二日も昏倒していたのだ。ただ、それでも勝ったとは思わなかった。剣客として、小弥太に負けている。
それから、朦朧として立つ求馬を羽合は斬ろうとしたが、
「今の求馬を仕留めるには、多大な犠牲が出る」
と、清記がそれを止めたという。
そして、この勝負を求馬の勝ちにした。清記は羽合に懇願し、捕吏を退かせた。
「だから、助かったのか俺は」
しかし、幕府に対し叛乱を企てた罪を見逃す事は出来ない。元より、求馬が叛乱に積極的ではなかったという情報は掴んでいたので、罪を一等減免し追放という所で話は決着した、と書いてあった。
そして、手紙はそれとは別にもう一枚あった。
「慈恩密寺境内、桜の下にて。いつまでも」
筆跡は、辻村のものではない。その流暢な文字に、求馬は再び衝撃を覚えた。
どうして? という疑問よりも身体が先に動き、求馬は立ち上がっていた。
「お世話になりました」
「もう行くのか」
「はい。遅れてはいけませんので」
◆◇◆◇◆◇◆◇
素早く着替えると、漁師小屋を飛び出した。
駆ける。ひたすら駆ける。
暗い夜道。月は雲に隠れて光は無い。だが、構わず駆けた。
息が切れそうになった。胸が破裂しそうだ。倒れるなら、倒れてもいい。死ぬならば、死んでもいい。ただ、全ては慈恩密寺に着いてからにしてくれ。
力の限り疾駆して今山に至り、寺に続く石段を駆け上った。
胸の高鳴りを押さえ、山門を抜ける。
正面には、桜の大木。
人がいた。陰影が薄らと見えるだけで、顔までは判らない。
その時、厚い雲の切れ間から蒼白い一条の光が差した。
それは、桜の下に佇む最愛の女を映し出す。
「待たせたな」
求馬は流れ落ちる涙もそのままに、精一杯の笑みを作った。
空には、蒼い月が出ていた。
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