第六回 因果
宿を出た。
三人の武士が訪ねてきて、半刻後の事である。
お紺には、
「麓の村に行く」
とだけ、言ってきた。
それは嘘ではない。食材を仕入れなければならないのは、事実だ。味噌と塩が少なくなっているし、新鮮な魚が欲しい。
だが足は、村とは反対の方向に駆けだしていた。
峠路。交配が激しく、木々が鬱蒼として薄暗いが、慣れた道だ。この辺りは何もかも知り尽くしている。
それでも、注意して駆けた。雨は止んだとはいえ、道は未だぬかるんでいるのだ。一歩一歩進む度に、泥が跳ね上がった。
(何故こんな事をしているのか?)
と、駆けながら思う。
(特に、あの三人に見つかりでもしたら)
危険だろう。
それでも、進むのは止めなかった。いや、止められなかったのだ。
好奇心か? 或いは、あの親子が心配になったからか?
それは、伊之助自身も判らない。
いや、違う。因果だ。
(あの親子が抱えている因果を、俺は知りたいのだ)
ここ何日か平山親子と過ごし、ただの武士ではない事は判った。慇懃な父、清記。暗い双眸を持つ息子、小弥太。その二人を追う、三人の武士。
何が起ころうというのか。それを見届けたい気持ちに駆られ、自分は宿を飛び出したのだ。
好奇心。この閉ざされた世界に刺激を与えてくれる、好奇心。そうはっきりと思えた時、不意に嫌な臭いが鼻腔を突いた。
血臭。そして、糞の臭い。
吐き気が伴う悪臭に、伊之助は足を止めた。
(これは……)
人が、倒れていた。
着物の柄に見覚えがある。
「もしや」
と、息を飲んだ。
あの三人の武士。いや、間違いない。死んでいる事は、素人の伊之助にでもすぐに判った。
首が無いのだ。糞の臭いがするのは、死んで排泄物を漏らしたからだろう。
死体を見るのは初めてではない。子どもの頃から、磔獄門は見てきた。行き倒れた渡世人や、殺された浪人もだ。死人には慣れたつもりだった。
が、今目の前にある光景は、直視し難いものだった。
首だけではなく、腕や脚、脳漿臓腑に至るまで飛び散っているのだ。
(まるで、狼に食い散らかされたようじゃねぇか)
小弥太は〔やっとう〕をしていると言っていた。清記もその心得はあるであろう。だが一体どうやれば、このような惨状になるのか。
地獄絵図。これがまさにそうだろう。
(この先は)
伊之助の足は、自然と動いていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
道なりに進むと、坂になっていた。山の神を祀る祠があるはずだ。
その途中に、小弥太が立っていた。美童と呼んでもいい少年と屍。美と醜悪の対比に、伊之助は一瞬だけ魅入ってしまった。
「伊之助さん」
小弥太が顔をあげた。
「あれは……あなたが」
そう訊いた伊之助の言葉は、微かに震えていた。
「いや」
小弥太が首を横に振った。
「父が斬りました」
小弥太は、さも平然と答えた。あの地獄絵図が日常茶飯事であるかのように、取り乱した様子もない。
「お父上は?」
「父は……」
と、小弥太は坂の先を指差した。
そこに、清記が刀を抜いて構えていた。その対面に一人。刀を抜いている。
相正眼。その相手は、あの芳雲だった。
(どうして)
その言葉すら出てこない。何故、見知らぬ客同士が白刃を抜き、相対しているのか。
一歩前に出た時、小弥太が前に進み出て行く手を塞いだ。
「この先は通せません」
小弥太が、伊之助に顔を向けた。
「小弥太様。何故、あの二人が」
状況が飲み込めなかった。武士が三人斬り殺され、客同士が白刃を突き付け合っている。そして、邪魔をするなと止める小弥太。何をどう考えればいいのか、見当もつかない。
「……これは私達親子の問題です」
そう言って、小弥太は二人を一瞥した。
芳雲の得物は、錫杖の仕込み刀。抜き放った錫杖の柄が坂の途中に転がっている。
相正眼は変わらない。
肌を切り裂く、冷気のような殺意が満ちていた。何故か、全身に針が刺さるように痛く感じもする。
「これでは、どちらかが……」
死ぬ。そこまでは口にしなかった。
が、小弥太が、
「それが、二人の望みなのですから」
と、小さく言った。
伊之助は、二人から視線を外した。
「殺し合いが望みなんて酷い話じゃございませんか。何故、お止めにならないのです?」
小弥太に向かって言った。
「……」
小弥太は、何も返事をしなかった。
反応もない。表情もない。酷い話だと思っているのか、いないのか。むしろ、人並みの感情があるのかすら疑わしくなる。
「大事な命を」
「命が大切など、私でも理解出来ます。しかし、呆気なく失ってしまうのも、また命だとは父に教わりました」
確かに。言われてみれば、命とはそんなものかもしれない。
呆気なく、儚く、死ぬ時は死ぬ。だが、それだからと納得していいのか、とも思う。
そんな事は、認めたくない。認められない。だが、止められもしない。
「芳雲殿の名は、
次の言葉を探していると、小弥太がおもむろに口を開いた。
「私達と同じ、夜須藩士。馬廻組の
その言葉に、伊之助は絶句した。
「単に出くわした客とお思いでしょうが、私達は彼を探していました」
「どうして?」
「藩の秘事ですから、私の一存では語れません。ただ、伊之助さんには少なからず知る権利があるとも思います」
知る権利。何故? とは聞かなかった。聞かなくても何となく判る。自分は、この親子の因果に巻き込まれたのだ。だから、知る権利がある。
「詳しくは申し上げられません。ただ、端的に申し上げますと、武富殿は藩の要職にある方を斬り出奔しました」
「それで、清記様が討っ手を」
「ええ。父と武富殿は親友ですから。主君より、連れ戻すか殺すかを命じられました」
「何と、過酷な」
「昨日、父は将棋を指していました。その間、武富殿を必死に説得していたのです。しかし、武富殿の意思は固く」
それで、殺し合いを。伊之助は内心で納得した。そして昨日あの時、二階で重大な話がなされていた事に驚いた。小弥太を手伝いに出させたのは、腰を据えて話し合う為だったのか。
「で、あの三人はどなたで?」
「武富殿の同志でしょう。勤王を標榜する連中です」
「勤王?」
「伊之助さんはご存知でしょうか? 幕府老中・
「ええ」
このような山奥でも、旅人の口を経て情報は入って来る。
この六月に、ロシアという国が蝦夷地に来航し、通商を要求したそうだが、田沼はどうも乗り気なようで、部下を数人派遣したらしい。それに反対する勢力が、
「朝廷の許可もなく鎖国を廃止するなど言語道断」
と、騒ぎ出したのだ。
幕府と朝廷の関係は、良好ではない。宝暦八年には、幕府が尊王論者を弾圧。明和四年には、いよいよ急進派と京洛で武力衝突があり、明和六年には、帝が尊王論者の清水徳河家の
騒ぎ出した武士は、中級以下の武士や浪人が多く、彼らは自らを〔勤王派〕と名乗っているという。
「武富殿も田沼様の政策に反対する、勤王派の一人なのですよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます