最終回 狼の貌
焦れたのか。隙を見つけたのか。先に動いたのは、清記だった。
裂帛の気勢を挙げ、渾身の斬撃が繰り出された。
それは、空を斬った。芳雲が、余裕を持ってて躱したのである。それだけではない。体勢を整えながらも首筋を狙う逆撃の一刀を放った。
甲高い金属音が鳴り響いた。清記が、刀身を合わせて払ったようだ。
「甘いぞ、清記」
そう声が聞こえた。
そして、芳雲が続けざまに突きを繰り出した。清記は防戦していた。躱し、防ぐ事で手一杯のようだ。
(これでは平山様は)
そう思った瞬間、清記が刀を横に薙いだ。
芳雲はそれを受け止めると、鍔迫り合いになった。
押し合う。どちらが優勢なのか? 膂力も技倆も、素人目には判らない。
清記が、足蹴を芳雲の胸板に叩き込んだ。芳雲の身体が下がる。その隙。清記が下段から斬り上げた。
(斬った)
伊之助には、そう見えた。清記の白刃が、芳雲の身体を捉えたのだ。
が、芳雲は立っていた。
「むぅう」
唸り声が響いた。
人間の声とは思えない。手負いの獣が発するようなものに聞こえる。芳雲の左肘から先が無かった。腕一本を引き換えにして、致命傷を避けたのだ。
横目で小弥太を一瞥した。拳を固く握り、息を呑む表情で魅入っている。
芳雲は、片手で正眼を取った。清記は下段。
再び、膠着になった。
(こりゃ……)
伊之助は、全身が震えている事に気付いた。それは、自分でも止めようがないほどで、まるで
小弥太が、袖を掴んできた。
「下がって」
「え」
凄い力で、
その時、清記と芳雲が併走し坂を駆け下りてきた。
二人が、伊之助の目の前で止まった。
清記が手前、奥が芳雲。この位置からは、芳雲の顔だけしか見えない。
芳雲は、鬼の形相だった。血を失い青白くなっているが、それでも気迫は十分にある。
一方、清記は肩で大きく息をしていた。
ひひゅう。
息が漏れていた。どちらの息かは判らない。
下段と片手正眼のまま不動。潮合を読んでいるのか。
(息苦しい)
伊之助はそう思った。
すると、
「陣内、もうこの辺りでよかろう」
清記が言った。
「もう十分楽しんだ」
芳雲の形相が、穏やかなものになった。
「ああ。思い残す事はないな」
寂とした時が訪れた。風の音だけが聞こえる。他には何もない。時が静止した。そんな錯覚すら覚える。
二人がほぼ同時に動いた。
二つの、白い閃光。二人がどう動いたまで、伊之助には見えなかった。
骨を断つ嫌な音と共に、芳雲の首が落ちた。
そこには、静寂だけが残った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「小弥太」
清記が、背を向けたまま叫んだ。
伊之助は驚いた。木々の間から、武士がすっと現れたのだ。
五人。芳雲の同志という連中だろうか。既に、抜いていた。
「斬れ。全員斬れ。ただの一人も生かして残すな」
「はい」
「ただの、一人もだ」
小弥太が、絶叫にも似た返事をして駆け出した。
駆けながら、抜く。
跳躍。着地と同時に、一人が倒れた。起き上がりざまに、また一人。斬り上げる。血柱が立つ。それが、小弥太に降り注いだ。
咆哮が聞こえた。小弥太の声だ。獲物にありつけた狼の遠吠え。そう思えるものだった。
自分は何をすべきか?
血風の中で躍動する小弥太を眺めながら、伊之助は瞬時に思考を巡らせた。
が、何も思い付かない。逃げる。隠れる。その選択肢すら選べない。恐怖で、足が動かないのだ。
距離を取っていた残りの三人が、一斉に斬り込んできた。
「あっ」
思わず声を挙げていた。だが、その全てを小弥太は躱していた。まるで風に乗る羽毛。すっと、刃を避けている。
小弥太が、こちらに向いた。
その
獣だ。この子どもは。いや、親子で獣なのだ。
二日前、雨の夜に現れた親子。客として迎えた。それが、とんだ人斬りだった。
気付くと、五人が倒れていた。ほんの僅かの間に全員を殺してのけたのだ。
こんなはずではなかった。いや、興味本意で親子の因果に関わった事が間違いだった。
小弥太が、こっちに向かって来た。既に、能面のような無表情に戻っている。
「斬れ。全員斬れ。ただの一人も生かして残すな」
清記の言葉が、脳裏で聞こえた。
耳元で言われたように、生々しい。
一人も、生きて残すな。
一人も、だと。
伊之助の目の前で、小弥太は止まった。柔白い顔に、返り血を浴びている。
切れ長の、暗い双眸。その視線に、射抜かれた。
(何と美しいのだ)
かつて抱いた少年達よりもずっと。
恐怖が、興奮を加速させていた。
<第一章 了>
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