第四回 一期に一度の会

 伊之助は、夕餉の準備に追われていた。

 今夜は茸汁である。それと、栗飯。本当は川魚を出したい所だが、雨続きで麓の村まで仕入れに行けていない。

 窓の外に目をやった。雨足は少し弱まっている。この分では夜半には止み、明日には晴れるだろう。

 晴れれば平山親子や芳雲は此処を発ち、また新たな客を迎える。それが宿屋稼業というものだった。

 以前に宿泊した漂泊の俳人が、


「一期に一度の


 と、言っていたのを思い出した。

 これは茶道の言葉で、宿屋稼業にも通ずるらしい。俳人はその意味を、


「言わずとも、判っておられる」


 として、敢えて教えてはくれなかった。

 伊之助には、未だに正しい意味は判らない。学が無いのだ。しかしながら、そう言われると何となく浮かぶ感情はある。


(俺らしくもねぇな)


 と、些か感傷的になった自分に鼻を鳴らし、視線を戻した。

 食堂は薄暗く、静寂だけがある。お紺や客が二階に居るからだ。お陰で、調理に集中出来る。おしゃべりは好きだが、板場にいる時は静かでいたい。それが、流儀でもある。


「あら、嫌ですよう。もう」


 静寂を破るように、お紺が笑いながら降りてきた。それに、伊之助はあからさまな舌打ちをした。


「ちょっとあんた、聞いてくださいよ」


 構わず板場に来た。笑顔だ。舌打ちは聞こえていないようである。


「何だ、騒々しい」


 伊之助は、茸に包丁を入れながら言った。


「いやね。あの小弥太様がさ、雑巾がけをしたいって言い出したんですよ」

「ほう」

「でも、お客様にそんな事をさせられないじゃないですか」


 その言葉にギクリとて、伊之助は包丁を止めた。


「あ、ああ。そうだな」

「でもね。頼み込むんです。そんな腰の低いお武家様なんていないじゃないですか」

「確かに」

「それに、私の事を『母上様』だなんて」


 お紺が喜々とした。上機嫌の理由はこれだろう。


「お前はいつお武家の母上様になったんだ?」

「なぁに言ってんですか。ついつい言い間違いをしたらしいんですよ。そうしたら、頬を赤くしちゃってさ」

「なるほど。それで機嫌がいいわけかい」


 伊之助は肩を竦めて、調理に戻った。

 そうした客との交流も、宿屋稼業の醍醐味の一つである。〔一期に一度の会〕に通じるものかもしれない。それにしても、あの陰気な小弥太が頬を赤くする所は見たかった。


「さて」


 伊之助は鍋の前に来た。湯は煮立っている。

 茸汁は、味噌味にした。他には油揚げや蒟蒻を少し入れるつもりにしている。隠し味はごま油だ。


「おい」


 机を拭いているお紺に、伊之助は板場から声を掛けた。


「お父上の方は何してんだい?」

「お父上?」

「清記様だよ。朝餉と昼餉以外はずっと二階にいらっしゃるからな」

「ああ。これですよ、これ」


 と、お紺が人差し指と中指を立てて伊之助に向けた。


(将棋か)


 客間には、備え付けの将棋がある。元々は父がしていたものだが、伊之助に将棋の趣味は無いので客間に置いている。


「相手は坊様かい?」

「ええ。朝からずっとですよ」


 お紺は苦笑したが伊之助は


(呑気なもんだ)


 と、鼻白んだ。

 小弥太に手伝え、働けと言いながら、自分は将棋を指しているのだ。


(しかし、父親ってのはそんなものなのかもしれない)


 親父がそうだった。ある程度仕事が出来るようになると、親父は何もしなくなった。何かあった時にだけ板場に顔を出すぐらいだ。そういう育て方もある。

 親父は十年前に死んだが、自分もきっと同じ育て方をするだろう。もし、子どもが出来たらという話だが。


「しかし、あの二人はいつの間に仲良くなったんだ?」

「それが、お互いしかめっ面。真剣そのものって感じでしたよ」

「へぇ。銭でも賭けているんだろうよ」

 それ以上の興味は失せ、伊之助は料理に戻った。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 夕餉の準備が整い、客の三人が食堂に現れた。三人は二階で意気投合したのか、同じ席に着いた。


「お待ちどうさま」


 お紺が仕上がった料理を順に出す。

 配膳はお紺の仕事で、伊之助がやる事は滅多にない。配膳と給仕は、男のする事ではない。これは親父が常日頃言っていた事で、お紺はそれを心得ているのだ。


「酒を用意して頂けるか?」


 清記が、お紺を呼んで訪ねた。


「そりゃ、勿論」

「なら頂こう。ぬる燗を銚子で二本。一本は御坊に」


 と、清記が芳雲を見た。


「いや、私は」


 芳雲は驚いたように、箸を止めた。


般若湯はんにゃとうと思えばよかろう。将棋で私が負けた事もあるし」

「般若湯ですか」


 芳雲が軽く笑みを見せた。


「決まりだ。御坊の分も頼もう」


 それに芳雲は何も言わなかった。お相伴に与かると決めたのだろう。

 伊之助は、その様子を見て準備をはじめた。燗を温めている間に、茸を網で焼いた。味は塩と、醤油の二種類だ。

 二人はそれを摘みながら酒を飲んだ。小弥太は飯を平らげると客間に上がり、途中から伊之助とお紺もそれに加わった。

 そこで、旅の理由を清記に訊いた。

 小弥太から武者修行だと聞いていたが、清記は人探しだと説明した。古い友人を探しているのだという。

 一方、芳雲は江戸まで旅。ただ、それはあくまで次の目的地なだけで、本当は宛のない旅だと言った。


「宛のない旅は、辛い」


 そして、孤独だ。芳雲は少し酔ったのか、そんな言葉を漏らした。


「ああ」


 清記が、それに瞑目して頷く。

 確かにそうかもしれない。ただ、旅に出られないよりはましではないか、とも思う。旅をする自由があるのだ。

 伊之助は、猪口を呷った。


(自分には旅は無理だな)


 それは、この宿があるからだ。曽祖父の代から続くこの宿を守らねばならない。それに恋女房もいる。全てを捨てれば旅も出来ようが、そんな度胸も無い。

 自分の中にある、旅への憧憬。それから目を逸らす為に、客からこうした話を聞くのだろうと、この時にはっきりと感じた。

 結局、燗を五本つけた。静かな宴会だが、今夜の酒は旨いと感じた。

 皆の顔も少し赤い。雨音は、もう聞こえなくなっていた。

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