第三回 薪割り
昼を過ぎても、雨は止まなかった。
(やはり、今日は無理だろう)
昼餉を出し終えた伊之助は、お紺に薪割りを頼まれ裏庭に出た。そこは広い軒下になっているので、雨に濡れることはない。
峠の宿とはいえ、仕事は山ほどある。何もかも二人でしているのだ。忙しい時は麓の下日向村から甥と姪を呼んで加勢を頼むが、なるべく二人でするようにしている。
伊之助は諸肌になると、斧を手にとった。
力を込め、振り下ろす。昔から、何でもしていた。大工仕事も、木材の切り倒しも。そのお陰で、旅籠の主人にしては頑丈な体躯を得た。
しかし、疲れる。今年で四十五歳になるのだから無理はない。今はいいが、いつの日か出来なくなる。
(倅でもいたらなぁ)
と、思う。
お紺は三十八。結局、子どもには恵まれなかった。陰間遊びのツケというものか。これからも、産まれる事はないだろう。誰かに頼んで養子を迎えなければいけない。これはお紺とも話している事だった。
「すみません」
背後から声を掛けられた。振り向くと、小弥太が立っていた。
「何か御用で?」
伊之助は、すかさず商売人の顔を作った。
「是非、私に手伝わせて下さいませんか?」
熱感の無い声色である。透き通っていて綺麗な声ではあるが、温かみに欠ける。
「何をでございますか?」
「薪割りです」
小平太が、斧に目をやって言った。
「いやいや、お客様にこんな事をしてもらっちゃ困ります。どうぞ上でお休みください。どうせ今日いっぱい雨は止みそうにありませんし」
「休んでいると、身体が鈍るのです。父の言い付けでもありますし。どうか私にさせて下さい」
願い出ているようには思えない、冷たく抑揚もない言い方だった。脅迫されている感すら覚える。
「弱ったな」
伊之助は苦笑を浮かべ、人差し指で右の
「お紺さんに何か言われるのですね」
「え?」
伊之助は、小弥太を見返した。
(この薄気味悪いガキが冗談など言うのか)
と思ったが、その表情には冗談を言った後の笑みも照れ臭さもない。殆ど、無表情と言っていい。
(やりにくいな……)
だが、お客様だ。伊之助は苦笑いを小弥太に見せた。
「よく見ていらっしゃる」
確かに、お紺には叱られるだろう。いくら小弥太から言い出したと事と言えどもだ。
「もし私が何もせずに戻れば、父に叱られます。何か手伝ってこいと言われましたので」
「ほう。厳しいお父上なんですねぇ」
「どうでしょう。私には判りません」
「正直、お武家様では珍しゅうございますよ」
「そうなのですね」
小弥太が、少し口元を緩めた。
目が笑っていないので、皮肉を込めたような冷笑に見えた。
「兎に角、やらせてください」
小弥太がそう言うと、素早く諸肌を脱いだ。
白く細いが、鍛え上げられた体躯。細かい傷が幾つかある。
(傷があるが、綺麗な身体だ)
と、見惚れている自分に気付くと、
「仕方ないですな。くれぐれも、お紺には秘密で」
斧を手渡し、伊之助は薪木の山に腰掛けた。 小弥太が斧を振り下ろす。小気味よく薪が割れる。それも、かなりの早さだ。
小弥太の身体に、力みはない。自然体。ただ、斧を下ろしている。そう思えるぐらいだ。
「こりゃ、上手い」
「いつもしている事なので」
「家でも薪割りを?」
そう訊くと、小弥太は斧を振り下ろしながら、
「はい」
と、答えた。
「失礼ですが、お武家様なら薪割りなど下男がするものだと思っていました」
或いは、見掛けこそ立派だが人を雇えぬほど貧しい家なのか。
「私の家が特別なのでしょう」
そう話しながらも、小弥太は黙々と薪を割っている。見事な手並みだ。
「何か武芸でもやられているのでしょうか?」
身体といい、薪割りの手並みといい、ただの子どもでない事は明白である。
「ええ。剣を」
「なるほど。〔やっとう〕を。どうりで逞しいお身体と思いました」
「そうですか」
素っ気なく、小弥太が返事をした。
「では、お父上も?」
「ええ」
「すると武者修行なのですかな?」
「はい」
「どこまで?」
「それは判りません。私は父について行くだけですので」
それ以上小弥太は何も言わず、問い掛けると僅かに返事するだけだった。
(息子がいればこのぐらいか)
目の前の陰気な少年を眺めながら、詮無きことを思ってみた。ただ、これほどの愛想なしでは、客商売など到底無理だ。
伊之助は苦笑した。きっと年から年中、叱り飛ばしているであろう。
結局、小弥太は四半刻で全てを割り終えた。自分なら、半刻とちょいで割る量をである。これには驚いた。
「氣です」
斧を置き、汗を手ぬぐいで拭いていた小弥太が、おもむろに口を開いた。
「き?」
「はい。失礼ですが、伊之助さんは薪を割る時、力任せのように見えました。それでは余分な力が入り疲れるのです」
小僧が、何を知った口を叩くか。一瞬だけそう思ったが、それを堪え笑顔で頷いてみせた。きっと悪意はない。こうした物言いしか出来ない子なのだ。
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