かなしみのじゅんび

糸目

かなしみのじゅんび

「どんなことが起こっても、世界は回り続けるんだって」

 その言い方はどこか悲しげで、出来る事なら止まって欲しいと願っているようでした。

「それは、なんて言うか、まあ、事実だよ」

 歯切れ悪く答えたところで、伝わる意味に変化はありません。少年は、顔を俯ける少女に、かける言葉を探します。

「止まってくれてもいいんじゃないかな、たとえばね」

 少女のか細い唸り声。その幼い音色に、少年は永遠にこうしていたいと願わずにはいられません。少女といるのはこの上ない幸せで、少女の隣にいる僕は、世界で最も恵まれている。

「ホットケーキがね、落ちちゃうの」

「どこに?」

「床に。テーブルの下に。びちゃって」

「それは悲しい」

 少年の眉根が下がる。想像してしまったからだ。落ちてしまうホットケーキを。

「でしょ。そういう時くらいはさ、止まってもいいと思わない?」

「世界が?」

「うん。世界が」

 今度は少年が唸る番だった。もしも自分が世界を止めることが出来るスイッチを持っていたら。僕は果たしてホットケーキが落ちた時に、そのボタンを押すだろうか。

 いいや。押さない。絶対に、押さないな。少年は心の中で頷く。

 でも少女の願い事を叶えるためだとしたらどうだろうか。僕はボタンを押すのかな。

 うん。押すな。絶対に、押す。

「僕はね、いつだって君の言いなりになるんだ」

「なあにそれ。さっきまでの会話、何だったか分かってる?」

 少女はきょとん、とした顔をして、それから目を細める。何かを怪しむように。

「もしかして、私の話、聞いてなかった?」

「まさか。そんなわけ、あるわけない!」

 少年は必死に否定します。それもそのはず。だって全くの無実だから。

「じゃあどうして私の言いなり、なんていう至極当然なことを言ったの?」

「至極当然なの?」

 少女は首を傾げます。自分の常識が通用しなくて戸惑っているような顔をします。

「え? そんなの当たり前じゃない」

「僕は初耳なんだけど」

 初耳というよりは、再確認、と言った方が正しいかもしれない。

「あーあ、どうして世界は回り続けるのかしら」

 少女は考えます。少年はそれに付き合います。言いなりなのだから、当然です。

「そんなに止まって欲しいの?」

「そりゃあね。止められるなら止まって欲しいわ」

「一体、どうして」

「あなたは考えたことは無い?」

 少女は見上げます。そこには済んだ青空が一面に描かれ、刷毛で塗ったように白い雲が浮かんでいます。雨の気配はありません。

「悲しいことが起こったとしたら、どうする」

「泣いちゃう」

「そう。泣いちゃう。そしてこうも思う。みんなみんな、悲しいに違いないって」

「みんなみんな?」

「そうよ。だって、悲しみなんか独り占めしたくないじゃない」

 悲しみの独り占め。少年は背筋がぶるっとしました。ちょっと考えただけでも、ゾクゾクしたからです。

「そうだね。嫌だ。独り占めなんかしたくない」

「でしょ。だったらおすそ分けした方がずっといいでしょ」

 悲しみのおすそ分け。何だかそれも、少年には怖いもののような気がします。

「それも嫌だな」

「どうしてよ」

「だって、美味しいホットケーキを食べている時におすそ分けされたら、僕は泣けばいいのか喜べばいいのか分からないもん」

「それはそうね。でもその場合、美味しそうにホットケーキを食べていたあなたが悪いのよ」

「どうしてさ」

「どうしてもよ。あなたは、悲しんでいる人の目の前で、大声で笑えるの?」

 少年は想像します。とても出来ません。

「ね。出来ないでしょ」

 少女は少年の心を見透かしたようなことを言います。実際見透かされた気になった少年は、ただ、頷きました。

「だからね。悲しみには準備が必要なのよ」

「どんな準備?」

「笑える時に笑って、喜べる時に喜ぶの」

「それは随分簡単だね」

 少年は拍子抜けしました。準備だと聞いたので、てっきり遠足の前日みたいなものかと思って、憂鬱になっていたところでした。少年は準備が苦手ですが、悲しみの準備なら出来そうだと思いました。

「いつも笑顔でいなさいってこと? それなら僕、出来るよ。それに、毎日幸せだし」

 君といるからね、と喉まで出かかりましたが、すんでの所で止めました。今はまだもったいない。そんな気がしたのです。

「悲しみはいつだって不意に訪れるの。もちろん用意周到にやってくることもあるけれど、それは稀の話しね。だから、そう。あなたの言う通り、終始笑顔で、楽しく過ごせばいいのよ」

「じゃあ君は今、悲しみの用意をしている最中なんだね」

 そう言うと、いくらか顔色が良くなりつつあった少女の顔が、見る見る落ち込んでいきます。まさに少年の言う通り、少女は悲しみの用意をしていたからです。

「どうしてよ!」

 少女は叫びます。

「どうして世界は止まってくれないのよ」

 この世の理不尽を呪うかのような、少女の怖い顔。少年は飛びあがらんばかりです。

「どうしてそんなに止まって欲しいの?」

「あなたの言う通りよ。私は悲しみの用意をしているの。なんならその用意は、ほとんど出来ていたわ。準備万端、と言ったところ」

「それはいいことじゃないか」

「そうねいいこと。でもここからが嫌なこと。あなたに会ってしまったんだもの」

 少年は驚きで声が出せません。

「それは、どういうこと?」

「最悪なタイミングであなたに会ったってこと」

「だってここは、君の家じゃないか」

 そうなのです。少年は今、少女の家の玄関にいます。彼女を遊びに誘おうとしていたのです。

「そうね、そうよ。だから正しく言えば、あなたがここに来た事が、最悪ってこと」

 少女はうなだれます。少年は励ます言葉を探そうかと思いましたが、妙な違和感を見つけてしまって、何も言いませんでした。

 少女のお母さんの声がしないのはどうしてだろう。いつもあんなに賑やかなのに。家に入れば、どこからだって、お母さんの声が聞こえていたのに。

「やっぱり嘆くしか無いわね。どうして世界は……」

「ねえ。君のお母さんはどうしたんだい?」

「どうしたもこうしたもないわ。静かなだけよ」

「それは、どういう」

「静かにさせたの。それだけ」

 少女の様子が何だか変です。お気に入りの真っ赤のワンピースも、今日はやけに鮮やかです。まさに今、塗って来たような。

 少年の本能が警鐘を鳴らします。

「僕、今日は帰るね。なんだかタイミングが悪いって言っていたし。なんだったら、明日にでも出直そうかな」

「ねえ、ちょっと待って。どうしてそんなに笑っているの? それも随分と作られた笑みじゃない。乾いた笑い、とも言っていいかも。ああ、分かったわ。そういうことね。不意に訪れる悲しみのために、今の内に笑っているのね。ええ、うん、それはいい。それはとってもいいことよ」

 少女はずっと手を後ろに回していました。その手が今、前に出されます。それと同時に、少女の手に持つ切っ先が、少年の喉元に狙いを定めます。

「大丈夫よ。安心して」

 少女は笑います。悲しみの準備がこれからあるからです。

「あなたに何が起こっても、世界は回り続けるから」

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